えてしてかように笑いが不謹慎な状況、重ねて言えば笑ったら負けの状況、例えて挙げるとお葬式などのときに、慣れぬ正座のせいで足がわぎわぎしてしまい、ちょらちょらっとしか歩けぬ人を、うかつにもつい自らの視界に入れてしまい、ビミョーな誦経(ずきょう)と相まってぬらぬら沸き起こってしまった・・・
わが心の内なる感情であり己が責任の範疇ではあるのだが、もはや自力での制御を離れしまい、いまや勝手に増殖し噴火のごとく盛り上がる爆笑の我慢のための・・・
そのような不条理な状況に晒されている自分への滑稽さに基づく、本事例にては認めてもよい、さらなる別の自分による爆笑の我慢、それが隣人にも強烈に伝染し、そのあまりに安易なる伝染の滑稽さに加え、他人のこらえという重い十字架まで背負わねばならないという・・・
例の笑い漏れの連鎖反応を抑止すべく、もしくは笑ってはイカンという理性的な自分との対峙に、とてつもない集中力とまったくの不毛な徒労を要求され、実に不本意かつ迷惑であった。
ここで笑ってはいかんし、笑いを必死にこらえているアホな自分の状況が客観的におかしく、そのまたそれを見る自分・・・と、まるで対面させた鏡に映る無限の自分の像に似た、しかも己の深遠なる内部に加えて左右の隣人にも伝播する、笑いの核連鎖反応状態、臨界点である。
「やってません」ではなく、「やれてません」は、つまりは、自分は積極的にやろうとはしたんだけれども、言い訳になるから言わぬが、といってもホントは言い訳もないくせに、やれなかった正当な理由があるかもや知れぬので、憤懣やる方がない次第でもあり、結果としてはやっていないだけであるが、自分には非がないというようなニュアンスもある。
未来形的には、やる意思は満々で、今はたまたまやっていないに過ぎず、「いつしかとても見事にやってみせるよ、俺は」的な、実にうまい言い回しである。
本当は、やろうとしたのではなく、すっかり忘れていたか、やろうと思ったにせよ、めんどくせーからやっていない、というような状況が白々しくもミエミエにもかかわらずだ。
「まだ」というのもミソで、とっかかってはおるのだが、まだ途中である、ような雰囲気を醸し、さらには奴は時に「やれてまへん」を「でけてまへん」とも応用していたがそれとて、さも俺はできたいんだと強く念じてはおるけれども、たまたまできていないだけなんだ、かのようでもあり、あなたさまの厳命を自分はないがしろにはしておりませぬ、くんくん・・・かのような響きである。
しかもいつもはやれている僕ちゃんなのに、今回だけはできていないのよ、ペロペロ、というようにも取れる。
その上、「ホントはやれる子よ、俺って」だとか、「やるときゃやる男よ」などの場合、じゃ今、この現実がウソなのか?またやるときにはやるのは万人にとって当たり前ではなかろうか?って疑問が自然に湧くが。
たまたまやれた偶然かなにかを、あたかも自分の手柄のように振舞うことで、みなが抱いている自分に対する負のイメージを、君らが見る目がない、のようにそっくり相手に付け替えるような蛮行にもみえる。
しかし当時の俺たちの先輩は、知性はあるのだがぷるぷるしちゃうほどファンキーでもなく、そのような振る舞いを流すような懐の深さや徳の高さもない。
むしろそれを知った上でいたぶるという残虐性を持ち合わせているので、貪欲に容赦なく「やってないんでしょ?」と正面から突っ込むのである。
わが心の内なる感情であり己が責任の範疇ではあるのだが、もはや自力での制御を離れしまい、いまや勝手に増殖し噴火のごとく盛り上がる爆笑の我慢のための・・・
そのような不条理な状況に晒されている自分への滑稽さに基づく、本事例にては認めてもよい、さらなる別の自分による爆笑の我慢、それが隣人にも強烈に伝染し、そのあまりに安易なる伝染の滑稽さに加え、他人のこらえという重い十字架まで背負わねばならないという・・・
例の笑い漏れの連鎖反応を抑止すべく、もしくは笑ってはイカンという理性的な自分との対峙に、とてつもない集中力とまったくの不毛な徒労を要求され、実に不本意かつ迷惑であった。
ここで笑ってはいかんし、笑いを必死にこらえているアホな自分の状況が客観的におかしく、そのまたそれを見る自分・・・と、まるで対面させた鏡に映る無限の自分の像に似た、しかも己の深遠なる内部に加えて左右の隣人にも伝播する、笑いの核連鎖反応状態、臨界点である。
「やってません」ではなく、「やれてません」は、つまりは、自分は積極的にやろうとはしたんだけれども、言い訳になるから言わぬが、といってもホントは言い訳もないくせに、やれなかった正当な理由があるかもや知れぬので、憤懣やる方がない次第でもあり、結果としてはやっていないだけであるが、自分には非がないというようなニュアンスもある。
未来形的には、やる意思は満々で、今はたまたまやっていないに過ぎず、「いつしかとても見事にやってみせるよ、俺は」的な、実にうまい言い回しである。
本当は、やろうとしたのではなく、すっかり忘れていたか、やろうと思ったにせよ、めんどくせーからやっていない、というような状況が白々しくもミエミエにもかかわらずだ。
「まだ」というのもミソで、とっかかってはおるのだが、まだ途中である、ような雰囲気を醸し、さらには奴は時に「やれてまへん」を「でけてまへん」とも応用していたがそれとて、さも俺はできたいんだと強く念じてはおるけれども、たまたまできていないだけなんだ、かのようでもあり、あなたさまの厳命を自分はないがしろにはしておりませぬ、くんくん・・・かのような響きである。
しかもいつもはやれている僕ちゃんなのに、今回だけはできていないのよ、ペロペロ、というようにも取れる。
その上、「ホントはやれる子よ、俺って」だとか、「やるときゃやる男よ」などの場合、じゃ今、この現実がウソなのか?またやるときにはやるのは万人にとって当たり前ではなかろうか?って疑問が自然に湧くが。
たまたまやれた偶然かなにかを、あたかも自分の手柄のように振舞うことで、みなが抱いている自分に対する負のイメージを、君らが見る目がない、のようにそっくり相手に付け替えるような蛮行にもみえる。
しかし当時の俺たちの先輩は、知性はあるのだがぷるぷるしちゃうほどファンキーでもなく、そのような振る舞いを流すような懐の深さや徳の高さもない。
むしろそれを知った上でいたぶるという残虐性を持ち合わせているので、貪欲に容赦なく「やってないんでしょ?」と正面から突っ込むのである。