[※ 自公選挙公約「子育て…」小躍りするアベ様…日刊ゲンダイ(2017年12月19日)↑]
日経ビジネスのコラム【小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」~世間に転がる意味不明/「募集」と「募る」の違いはどうでもいい】(https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00055/?n_cid=nbponb_twbn)。
《しばらくぶりに見る国会は、頽廃している。…「さきほどらい申し上げております通り」というこのセリフを必ず申し述べてから回答に入るお約束は「…」ということを、テレビを通じて国会中継を見ている視聴者に印象づけるべく採用している、霞が関官僚発案によるあざといルーティンだと思うのだが、それ以上に、もしかしたら、彼らは、国会の質疑、ひいては、国権の最高機関たる国会の存在価値それ自体を貶める効果を狙っているのかもしれない》。
あ~ぁ、トホホすぎる。アベ様らが《霞が関官僚》を支配して堕落させ、《国会の質疑、ひいては、国権の最高機関たる国会の存在価値それ自体を貶め》た。《安定多数の上にあぐらをかいている与党の政治家にとって、国会での論戦で勝敗を決する道を選ぶよりは、国会審議そのものを無効化する選択肢を取る方が簡単でもあれば有利でもあるからだ》。
逃げるは恥だし役立たずの極致。
東京新聞の社説【桜を見る会疑惑 どこまで居直るのか】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2020020102000153.html)によると、《「桜を見る会」を巡る疑惑について、衆参両院の予算委員会での野党側の追及が一巡した。際立ったのは、矛盾を覆い隠して問題なしと居直る政権の姿勢だ。これでは、疑念は何も解消されない。すり替え、はぐらかし、開き直り-。安倍晋三首相が、国会で一問一答形式の質疑に応じるのは昨年十一月の臨時国会以来二カ月半ぶりだが、桜を見る会を巡る不誠実な答弁は相変わらずだった。最大の問題は、公金を使って首相が多数の支援者を接待していたことだろう。第二次安倍政権下で参加者は急増し、昨年の約一万八千人は二〇一〇年の民主党政権時の二倍超。官邸・与党の招待者が半数以上を占め、自民党総裁選があった一八年には同党の地方議員らが多数招待されていた。…桜を見る会を巡る疑惑は、行政の公平性を揺るがす重大な問題だ。首相自ら解明し、わびるべきはわびて責任を負う姿勢に転じなければ、国民の理解はこの先も得られまい。政策論争を置き去りにしているのは政権側だと、まずは自覚すべきである》。
『●《桜疑惑の追及を批判するメディアは、こういう連中のグルだ
と考えた方がいいだろう。だまされてはいけない》』
「【金子勝の「天下の逆襲」/提灯メディアに騙されるな
なぜ桜疑惑解明が求められるか】…《通常国会が始まった。
権力を監視しない提灯メディアは攻勢を強める野党に対し、
「また桜疑惑か」と“批判”する。まったく逆だ。
この国を私物化し、権力に近い人間だけが甘い汁を吸い公正な
ルールをぶち壊す社会では企業も産業も腐っていくからだ》」
《政策論争を置き去りにしているのは政権側だ》…自公お維支持者の皆さんやアベ様広報紙・産経等が、理解できていないこと。金子勝さん、《桜疑惑の追及を批判するメディアは、こういう連中のグルだと考えた方がいいだろう。だまされてはいけない》《権力を監視しない提灯メディアは攻勢を強める野党に対し、「また桜疑惑か」と“批判”する。まったく逆だ。この国を私物化し、権力に近い人間だけが甘い汁を吸い公正なルールをぶち壊す社会では企業も産業も腐っていく》。
『●アベ様へ、宮本徹議員より《募るというのは募集する
っていうのと同じ。募集の募は募るっていう字なんですよ》、トホホ…』
『●「募る」と「募集」…《〈不時着水したが墜落ではない〉といった
ところか。国会の質疑は大喜利のお題提供の場ではない》』
国権の最高機関で《信号無視》を続けるアベ様…、#募ってはいるが募集はしてない。両者は違いますよ、とでもアベ様御得意の閣議決定しそうで怖い。で、(サンド伊達さん風)「日本語における《募集》と《募る》が明確に異なることにつきましては、先ほど、トランプ大統領と電話会談を行い、思いは完全に一致しました」といった具合か? 松尾貴史さん、《国会ドラマ「逃げるは恥だし役立たず」》
『●逃げるは恥だし役立たず、国会からも「トンズラ総理」…
「所信表明も代表質問も拒否」な国会軽視の横暴』
#募ってはいるが募集はしてないの両者の違いよりも、小田嶋隆さん、《募集に応じて応募した人間はどこからどう見ても「選ばれた人」ではないからで、とすると、「安倍事務所の募集に応募して会に参加した後援会のメンバー」は、言葉の正確な意味において絶対に「招待客」ではあり得ないからだ。当たり前の話だが、「招待客を募集する」という言い方自体が、そもそも矛盾している》、そりゃぁ~そうだ。
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【https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00055/?n_cid=nbponb_twbn】
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」~世間に転がる意味不明
「募集」と「募る」の違いはどうでもいい
小田嶋隆 コラムニスト
2020年1月31日
【イラスト】
(https://cdn-business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00055/p1.jpg?__scale=w:500,h:281&_sh=0820b10560)
書斎として使っている部屋のPCの横に、小型(19インチ)のテレビ受像機を置いている。
仕事をはじめる気持ちになれない時、私は、このテレビをつけておくことが多い。もっとも、音声はミュート(消音)したままだ。おそらく、画面の中を右に左に動いている人間たちを眺めることが、私にとって、窓を開けて空気を入れ替えることの代償になっているのだと思う。あまり健康的なテレビの使い方ではない。本当は外に出て、自分の足で町を歩くべきなのだ。それはわかっている。しかし、いつもわかっている通りにできるわけではない。
この2日ほどは、音量を上げて国会中継を視聴していた。
しばらくぶりに見る国会は、頽廃している。
私は、こう見えて、他人を軽蔑することに慣れていない。誰かを軽蔑せねばならない事態に直面すると、いつも大変に疲労する。そんなわけで、私は、現在、ひどく疲れている。
国会でかわされているやりとりが、日本国民の言語運用の水準をそのまま代表するものだと考えているわけではないのだが、それでも、現実に目の前で展開されている対話の空疎さには、やはり唖然とさせられる。
あのやりとりを聞いていると、自分たちの暮らしているこの世界が、足元から崩れて行く感覚に襲われる。学生の頃に連れて行かれた出来の悪い前衛芝居を見ていた時の気分に近い。中途半端に無意味な脚本は、観客を解釈の地獄にひきずりこむ。国会の質疑を見ているわれわれも、たぶん、同じタイプの地獄の中にいるのだと思う。
今回は、わたくしがこの2日間、国会中継をしっかりと視聴したなかにおいて、印象に残ったところを、いわば、書いてみようかと思っている、ところで、ございます。
とは言ってみたものの、私が国会を見たのは2日間の通算でたったの3時間ほどだ。
それ以上は無理だった。
わがことながらなさけない始末だ。
ただ、3時間で視聴から撤退せねばならなかったことは、自覚の中では、美意識の問題だと思っている。
「あ? 美意識?」
と思った向きもあるはずだ。
「何を利口ぶっているんだか(笑)」
「還暦を過ぎたじいさんが繊細ぶるのもたいがいにしてほしいもんだぜ」
うん。そう言いたくなる気持ちはわかる。
でも、私は、繊細ぶっているのでもなければ、被害者ポジションにあぐらをかいてぬくぬくしているのでもない。現実に、私は、国会中継を視聴しはじめてほんの1時間ほどで、すっかり気勢をそがれてしまったのだ。
大げさに聞こえるかもしれないが、このままこんな不毛な言葉のやりとりを聞き続けていたら、自分の言語感覚が二度と正常さを取り戻せなくなると、そう感じて、護身のためにテレビの電源を落としたのである。
良心的な板前が腐った魚をさばくミッションに耐えられないのと同じことで、言葉を扱う仕事に従事している私のような人間は、国会でやりとりされている腐敗した言葉を我慢することができない。
あるいは、国会の言葉に耐えられないのは、なにもプロの文筆家に限った話ではないのかもしれない。
自分の中に新しい言葉を取り入れる作業に熱中している思春期の子供たちや、人と人との間に架橋する言葉の作用に敏感な青年たちも、私と同じように、あの空疎な言葉のやりとりに身の危険を感じたはずだ。
というよりも、あそこで使われているねじ曲がった言葉に対処できるのは、適応にともなって感覚を麻痺させることに成功した不死身の鈍感エリートだけなのかもしれない。
テレビを視聴した3時間ほどの間に、私は
「さきほど申し上げました通り」
「これは、何回もお答えしているので繰り返しになるのですが」
「さきほどらいお答えしております通り」
「同じ質問ですので、同じお答えになって恐縮なんですが」
「繰り返しになりますが、桜を見る会の個々の招待者につきましては、個人に関する
情報であるため、従来から回答を控えさせていただいているところです」
という、ほとんどまったく同じ意味のバカバカしい接頭辞を100回以上聞かされて、なによりもその言葉の無意味さとくだくだしさに気持ちをひしがれなければならなかった。
おそらく、安倍総理大臣ならびに菅官房長官が、質疑の冒頭の部分で
「さきほどらい申し上げております通り」
というこのセリフを必ず申し述べてから回答に入るお約束は
「無能極まりない野党の議員たちが、毎度毎度代わり映えのしない質問を飽きもせずに繰り返しているから、自分たちも同じ無意味な回答をリピートせざるを得ないのである」
ということを、テレビを通じて国会中継を見ている視聴者に印象づけるべく採用している、霞が関官僚発案によるあざといルーティンだと思うのだが、それ以上に、もしかしたら、彼らは、国会の質疑、ひいては、国権の最高機関たる国会の存在価値それ自体を貶める効果を狙っているのかもしれない。
というのも、安定多数の上にあぐらをかいている与党の政治家にとって、国会での論戦で勝敗を決する道を選ぶよりは、国会審議そのものを無効化する選択肢を取る方が簡単でもあれば有利でもあるからだ。
国会での与野党の攻防にうんざりした国民が、政治への真摯な関心を喪失すれば、それだけ多数派の立場は安定する。なんとなれば、不毛な言葉のやりとりに食傷するのは、どちらかといえば知的活性の高い国民であるはずで、だとすれば、それらのめんどうくさい批判者を政治の場から遠ざけるためには、真面目な政策論争を展開するよりは、バカな田舎芝居を繰り広げておくほうが有効だからだ。
もう一つ目についたのは、
「その質問は事前通告に無いので、お答えは差し控えさせていただきます」
という意味の言葉で締めくくられる定番のやりとりだった。
この言葉を口から発する時、安倍総理は、明らかに昂然と、事前通告の無い質問を繰り出してきた野党議員をたしなめにかかっている。
ところが、調べてみると、事前通告云々は、与野党の国対委員長が、議事進行の円滑化のために申し合わせた「紳士協定」にすぎない。
つまり、仮に野党議員が通告の範囲から外れた質問を投げかけたのだとしても、それは「ルール違反」ではない。ましてや「反則」でもなければ法律違反でもない。
回答を拒絶する側の議員が威張ってよいなりゆきではない。質問者を断罪できる筋合いの話でもない。
「いまのご質問は、通告の中になかったので、即座にお答えする十分な準備ができていません。申し訳ありませんが、この場での回答はご容赦ください」
と、むしろ、せめて形式上だけでもアタマを下げておくのが穏当な態度だろう。
質疑が進む中で、
「いまのお答えは、これこれこういう意味ですか?」
「あなたがそうお答えになるのであれば、では、こういう場合はどうお答えになりますか?」
という補足的な質問が必要になる場面はいくらでもある。
それらに対して、回答側が居丈高に
「通告にないのでお答えしかねる」
と言い放っていたのでは議論が議論にならない。
じっさい、国会での質疑に先立って、質問側が回答側に質問内容を事前通告する慣習は、議事進行を円滑化している一方で、本来なら自由闊達な議論の場であるはずの国会を、「事前に準備した台本」に沿った「官僚作文朗読劇場」ないしは「国会芝居」に堕落させている元凶でもある。
おそらく、わが国の国会で、こんななさけない慣習が定着しているのは、議事進行の円滑化とは別に、つまるところ、与野党の国会議員が人前で恥をかきたくないからなのではなかろうか。
無論、行政の細部に関する詳細なデータは、事前に官僚が準備しておかなければ提示できないのだろう。その意味では、質問を投げかける側の議員が、あらかじめ内容を伝えておくことは、ある部分、必要悪として、不可欠な手続きであるのかもしれない。とはいえ、議員同士の対論の中で、アドリブの質問が出ることは当然あるはずだし、その種の予定外の言葉に、臨機応変な対応ができない人間は、そもそも政治家を志すべきではない。
ともあれ、事前に準備した原稿から一歩も外に出ようとしない態度を、誇らしげにアピールする政治家は、何かを見失っているのだと思う。
さらに、与党の面々は、言葉の定義を破壊しにかかっている。
ちょっと前に、菅官房長官が「『反社会的勢力』という言葉の定義が定まっていないので、この言葉に関連するご質問にはお答えできない」という旨の答弁したことがあったが、結局、あの答弁書を読み上げてからこっち、菅さんは、何かを諦めてしまったように見える。
要するに、あれは、何より菅さん本人の心に大きなダメージをもたらしたということなのだと思う。
なにしろ、質問を無効化するために、質問者が使っている単語の定義を無効化したのだから、これは驚天動地の答弁だったと評価するほかにない。
加えて、政府は、野党側が「桜を見る会」に招待されていたとして、その招待の真意および根拠を求める質問を投げかけていた「反社会的勢力」について
「あらかじめ限定的、統一的に定義するのは困難」
との閣議決定をしている。
思うに、あれ以来、官邸の機能の半分ほどは壊死している。
今回はさらにひどいことが起こった。
28日の衆院予算委員会で、共産党の宮本徹議員が文書を示しながら発した、
「この文書は見たことがなくても、募集していることはいつから知っていたのか」
という質問に対して、安倍首相は、
「私は、幅広く募っているという認識だった。募集しているという認識ではなかった」
と回答したのである。
いったいどこの世界のナンセンスコントだろうか。
つまり、首相は、
「募ってはいたが、募集はしていない」
と述べたことになる。
この珍無類な回答を聞かされた宮本議員は、さすがに
「私は日本語を48年間使ってきたが、『募る』というのは『募集する』というのと同じですよ。募集の『募』は『募る』っていう字なんですよ」
と強い口調で首相に食い下がった。
しかしながら、安倍さんは、少しも動じることなく、
「ふさわしい方ということでいわば募っているという認識があった。例えば新聞などに広告を出して『どうぞ』ということではないんだろう」
というほとんど意味不明の説明を開陳した。
なんという肝の太さだろうか。
あるいは、人並み外れて肝が据わっているのでなかったのだとすると、著しくアタマが悪いのか、あきれるほど神経が鈍いのかのどちらかということになるわけなのだが、あるいはそれらのすべてなのかもしれない。私にはわからない。どっちにしても私の持ち歩いているちっぽけな物差しで測れる人物ではなさそうだ。
さて、話題をもとに戻す。
思うにこれは、「募集」と「募る」という2つの言葉をめぐる定義の問題ではない。
同じ意味の言葉を二通りに解釈してみせただけのことなら、朝日新聞が見出しで形容したように
「珍答弁」
てなことで笑って退けてもよいのかもしれない。しかし、ここには、もっと深刻な詐術が隠されている。
というのも、本来なら首相は、
「え? 招待客って、募ったり募集したりできるの?」
という、より本質的かつ素朴な質問に答えなければならなかったはずだからだ。
詳しく説明する。
どういうことなのかというと、「募る」という言葉を使うのであれ、「募集する」と表現するのであれ、その意味するところは、「招待」「選定」「資格審査」とは絶対的に相容れないということだ。
まず、前提としてはっきりしているのは、「桜を見る会」への出席者が、最終的に、政府なり内閣府なり首相なりの責任において、「選定」され、「招待」された人物であるということだ。
このことはつまり「選ばれ」「選定され」「評価検討の上、ふさわしい人物として招待され」た名誉ある「招待客」は、断じて「広く募」ったり「募集」したりした「チケット購入者」とは別枠の人間だということだ。
というのも、募集に応じて応募した人間はどこからどう見ても「選ばれた人」ではないからで、とすると、「安倍事務所の募集に応募して会に参加した後援会のメンバー」は、言葉の正確な意味において絶対に「招待客」ではあり得ないからだ。
当たり前の話だが、「招待客を募集する」という言い方自体が、そもそも矛盾している。
「殴ってください」と申し出た人間が被害者とは呼べないのと同じことだ。あるいは、入学試験を実施していないにもかかわらず合格通知を配布している学校がインチキ大学と言われても仕方がないのと同じ理路において、功労者を選定する作業を省略して単に特定の政治家の支持者や取り巻きを集めた形で開催されている功労者慰安イベントは、どこからどう見ても茶番なのである。
この先、果たして国会が正常化する日がやってくるものなのか、正直な話、確信が持てない。
その一方で、こんなバカな状態がそんなに何年も長く続いてたまるものか、とも思っている。
でもまあ、あと10年続くようなら、ピリオドを打つのは戦争だけなのだろうとも思っている。
(文・イラスト/小田嶋隆)
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