白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/同性愛者細川政元と明治初期の学校教育

2020年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠のもとには様々な動植物が持ち込まれる。観察・判定するのに時間を要するのは当たり前としても、他にこれといった研究所のない時代と場所と、ということになると自ずから熊楠の作業は増えていった。

「折から海辺よりへんな動物を持ち来たれたる人あり、死なぬうちにといろいろ生態の観察了りて酒精に漬し、これがため時間を潰し、只今御状拝読、本状差し上げ候」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.315』河出文庫)

さらにその博学ぶりは知られているため、折々、専門外の質問にも応じている。岩田準一との往復書簡は有名だが、その中で岩田は「日本外史」にある細川政元についての同性愛関連記事について述べている。

「四年(一五〇七)、細川政元、賊の殺す所となる。三好長輝(みよしながてる)、その賊を誅(ちゅう)す。政元、素(もと)より鬼神(きしん)の説(せつ)を好み、婦人を近づけず。故(ゆえ)に以て子なし。藤原政基の子澄之(すみゆき)を養ひ、また族政春(まさはる)の子高国を養ふ。皆意(い)に中(あた)らず。更に族元勝(もとかつ)の子澄元(すみもと)を養ふ。初め頼之(よりゆき)の後(のち)、世々(よよ)管領(かんりょう)となり、上館(かみやかた)といふ。二弟詮春(のりはる)・満之(みつゆき)、世々讃岐・阿波を領し、下館(しもやかた)といふ。猶ほ関東に両上杉氏あるがごとし。政春は詮春の後なり。元勝は満之の後なり。澄元、猶ほ幼にして阿波に在り。三好之慶(ゆきよし)の子長輝これを輔(たす)く。薬師寺与次(やくしじともつぐ)・香西又六(かさいまたろく)、並に政元の家宰(かさい)たり。議(ぎ)して曰く、『管領は言行常(つね)なし。久しきこと能はざるなり。澄元、嗣(し)となり、長輝、権を執(と)らば、則ち我が輩(はい)その下に出でざる能はず。速(すみやか)に大事(だいじ)を行って、澄之を擁立(ようりつ)するに若(し)かず』と。乃ち政元の近士福井(ふくい)・戸倉(とくら)らに賂(まいな)ひ、政元を伺察(しさつ)す。この年六月、政元、斎戒(さいかい)せんとして、夜、浴室に入る。戸倉、就(つ)いてこれを刃(じん)す。近士波波伯部(ははかべ)走り救ひ、亦た刃する所となり、殊せず。阿波に奔る。香西ら乃ち澄之を丹羽より迎へて、これを立つ。義澄、制(せい)する能はず。七月、三好長輝兵を発(はつ)し、澄元を擁(よう)して京師に入る。香西、嵐山(あらしやま)に城(きず)き、これに拠り、兵を出して百百橋(どどばし)に拒ぐ。波波伯部長輝の先鋒(せんぽう)となり、戸倉に遇(あ)ひ、闘つてこれを斬る」(頼山陽「日本外史・仲・巻之九・P.114~115」岩波文庫)

熊楠はそれについて、明治十年頃の学校教師はどの教師もほとんど決まって細川政元の同性愛関係について大いに語っていたと回想する。

「政元は寵童のあるがためにややもすれば近臣等がこれに私通せずやとの疑念より人を疑うこと絶えず、戸倉も疑われたる人にて、ついに弑逆に及びしところへ来合わせたる家臣波々伯部が戸倉に切られ、後に戦場で戸倉を殺せしと、教師はほとんどみな語りおられし」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.315~316』河出文庫)

戦国時代では同性愛はむしろ当たり前だった。ヨーロッパで当たり前だったように。そして「日本外史」が書かれた江戸時代〔一八二六年(文政九年)〕にもまた武士同士の同性愛は何ら不可解なものではなかった。とはいえ「日本外史」は頼山陽独特の歴史観の上に立って書かれたものであり、その意味では確実性に問題があるとされている書物である。しかも歴史書である。にもかかわらず、わざわざ細川政元の同性愛についてしっかり書き込んでいる点を見ると、同性愛は武士のあいだで広く実践されていた抜くに抜けない歴史的事情の一つとして認めないわけにはいかない。

それはそれとして、この箇所でも顕著な、何度も繰り返されし反復される殺戮の等価性という感覚は、いったいどこから来るのか。ニーチェはいう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。

山門(比叡山)と寺門(園城寺=三井寺)との合戦。以前から何度か合戦した両者である。これが最初というわけではない。しかし桂海律師は直情径行型なのか、今回の合戦は自分の行為が火種となって生じた合戦だと考え、自ら五百人を率いて三井寺攻めの先頭に立って戦おうとする。

「桂海律師ハ、今此濫觴(ランシヤウ)ハ併(シカシナガ)ラ我身ヨリ起(ヲコ)リシ災(ワザハヒ)ナレバ、人ヨリ先ニ一合戦ヲシ、名ヲ後記ニ留メンズル物ヲト思ヒケレバ、勝(スグ)レタル同宿、若黨五百人皆神水呑ミテ、五更ノ天ノ明(ア)ケヌ間ニ、如意越ヨリ押シ寄セタリケリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.474』岩波書店)

その五百人だが、まず「神水」を飲む。麓の日吉社の水のことだろう。そして「五更」(ごこう)には「如意越」方面から三井寺へ到着したとある。「五更」(ごこう)は「寅ノ刻」のことで、今でいう午前四時頃。「如意越」(にょいごえ)は近江から京へ抜ける山道の一つで、「小関越え」、「如意越え」、「如意ヶ嶽」、「大文字山」を経て、「銀閣寺裏/鹿ヶ谷方面」、へと出る。

比叡山三井寺ともに様々な軍事勢力が集結するわけだが、注目したいのは、その中に「千人切りノ荒讃岐」、「三町ツブテノ円月房」、と見える点。「千人切り」については前に触れた。西鶴にある。

「血書(ちかき)は、千枚(まい)かさね、土中(どちう)に突込(つきこ)み、誓紙塚(せいしつか)と名付(なつ)け、田代(たしろ)孫右衛門と、同じ供養(くやう)をする」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷八・五・大往生(だいあうしやう)は女色(ちよしき)の臺(うてな)・P.305」岩波文庫)

またこうも。

「田代如風(たしろじよふう)は千人切りして津(つ)の国(くに)の大寺に石塔を立て供養をした。自分も又、衆道にもとづいて二十七年、そのいろを替え、品に好き、心覚えに書き留めていたのに、すでに千人に及んだ。これを思うに、義理を立て意地づくで契ったのは僅かである。皆、勤子(つとめこ)のため厭々(いやいや)ながら身をまかせたので、一人一人の思ったことを考えるとむごい気がする。せめては若道供養のためと思い立って、延紙(のべがみ)〔鼻紙〕で若衆千体を張り貫(ぬ)きにこしらえて、嵯峨(さが)の遊び寺へおさめて置いた。これ男好(なんこう)開山の御作である。末の世にはこの道がひろまって、開帳があるべきものではある」(井原西鶴「執念は箱入の男」『男色大鑑・P.172』角川ソフィア文庫)

《過剰-逸脱》を現わす力の持ち主であり、千人という数が正確かどうかは関係がない。大事なのは怪異というほかない無類の技術に長けた人物という意味。そして「三町ツブテノ円月房」も、その種の怪異な力を発揮する人物の一人と見ることができる。保元物語に、「三町(さんちやう)ツブテノ紀平次大夫(きへいじたいふ)」、とある。

「御曹司ノ方(かた)ヨリハ、三町(さんちやう)ツブテノ紀平次大夫(きへいじたいふ)、大矢新三郎(おほやのしんざぶろう)、二人(ににん)剉(つづい)テ、落合(おちあひ)テ、切相(きりあひ)ケリ」(新日本古典文学体系「保元物語・中・白河殿攻メ落ス事」『保元物語/平治物語/承久記・P.66』岩波書店)

「秋夜長物語」の舞台となっている合戦で三井寺側は完敗し神羅大明神だけが残った。ちなみに「秋夜長物語」はところどころで「太平記」との類似箇所が指摘されている。十四世紀成立の「太平記」にしても、江戸時代後期成立の「日本外史」にしても、歴史書というより軍記物である。そのためか、武家の棟梁としての源氏の始祖の一人源頼義の三男・源義光「新羅三郎」(しんらさぶろう)が元服した神羅大明神はあえて残した、というエピソードに仕上げられたのではと思われる。しかしそのような史実かどうかとは関係のない部分で、当時のトピックである風俗あるいは民俗は実にしばしばよく出てくる。

三井寺が灰塵に帰したという報を聞いて、梅若は奈良の大峯山の牢の中で涙する。そのとき、天狗の群れがやって来て言う。天狗にとって面白いものは「焼亡(ゼウマウ)、辻風、小喧嘩(ケンクハ)、論(ロン)ノ相撲ニ事出(イダ)シ、白川ホコノ空印事(ソラインヂ)、山門南都ノ御輿振(ミコシブリ)、五山ノ僧ノ門徒立(ダテ)」などだと。

「我等ガ面白キト思フ事ニハ、焼亡(ゼウマウ)、辻風、小喧嘩(ケンクハ)、論(ロン)ノ相撲ニ事出(イダ)シ、白川ホコノ空印事(ソラインヂ)、山門南都ノ御輿振(ミコシブリ)、五山ノ僧ノ門徒立(ダテ)、是等コソ興アル見物モ出デ来テ一風情アリト思ヒツル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.476』岩波書店)

この中に「白川ホコノ空印事(ソラインヂ)」とある。先に「三町ツブテノ円月房」を上げた。「礫」(つぶて)と「印池」(いんじ)とは関係が近い。「平家物語」では「つぶて・いんぢ」と並列に置かれている。

「公卿(クギヤウ)・殿上人の召(め)されける勢と申(まうす)は、むかへつぶて・いんぢ、いふかひなき辻冠者原(ツヂクワジヤバラ)・乞食法師(コツジキボウシ)どもなりけり」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第八・鼓判官・P.102」岩波書店)

注釈に詳しい。「むかへつぶて」=「小石を投げ合う子供の遊びの石合戦をいうが、転じて石投げを得意とする無頼の徒。賎民」とある。「いんぢ」=「『印』は相争う両方の陣地の境界を示す標識の意と解せられ、一定の地域の勢力範囲として他と抗争する徒党をいう。『白河の印地』と呼ばれ、京都白河の辺にたむろした徒党がとくに名高い」とある。だがそれが許されたのはなぜか。

「白川(しらかは)印地(ゐんじ)の者(もの)ども」(新日本古典文学体系「未来記」『舞の本・P.305』岩波書店)

ここでも注釈に詳しい。「白川(しらかは)印地(ゐんじ)の者(もの)ども」=「北白川の辺にたむろする声聞師、民。祭礼に山鉾をかつぎ、石礫(つぶて)を打つのを得意とする」とある。都の祭礼に関係した。一般大衆とは異なり、異類・異形の者らのことを言う。そして京の都の祭礼の折には古来、彼ら異類・異形の者らが多く参加する習いになっていた。「礫」(つぶて)を投げる風習はさらに古い。万葉集にも出てくる。「たぶて」=「つぶて」。

「たぶてにも投げ越しつべき天(あま)の川(がは)隔(へだ)てればかもあまたすべなき」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第八・一五二二・P.332」小学館)

次の文章でも「印地」(いんじ)と「礫」(つぶて)とは並列的に記されている。

「二十騎、三十騎、爰(ここ)かしこに引分(わ)け引分(わ)け、空印地(そらゐんじ)して、礫(つぶて)打(うつ)たらんには似(に)まじいぞ」(新日本古典文学体系「高館」『舞の本・P.456』岩波書店)

ところで、天狗が言ったとあるが、そもそも天狗とは何か。沙石集にこうある。

「天狗ト云(いふ)事ハ、日本ニ申傅付(まうしつたへつけ)タリ。聖教(しやうげう)ニ慥(たしか)ナル文證(もんしよう)ナシ。先徳ノ釋ニ、魔鬼(まき)ト云ヘルゾ是(コレ)ニヤト覺エ侍ル。大旨(おほむね)ハ鬼類(きるゐ)ニコソ。眞實ノ智恵ナクテ、執心偏執(しふしんへんしふ)、我相憍慢(がさうけうまん)アル者、有相(うさう)ノ行徳(ぎやうとく)アルハ、皆此道ニ入(いる)也」(日本古典文学体系「沙石集・巻七・二二・P.318」岩波書店)

とすれば、今の日本はもはや天狗だらけというほかない。

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