白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/遥かなる熊野人

2020年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
地名には様々な歴史が詰まっている。「拾い子谷」(ひらいごだに)。旧・和歌山県田辺市本宮町平井郷(ひらいごう)のこと。熊楠はこの地でも珍しい隠花植物を発見している。

「拾(ひら)い子谷(ごだに)=東西牟婁郡の間八十町にわたる、熊野には今日熊野街道の面影を百分の一たりとも忍ばしめるところはここあるのみ。ただし、古えの熊野本宮参詣の正路にはあらず。大学目録に、野中とあるはこの谷のことなり。宇井縫蔵が近く見出だせしキシュウシダ、小生発見の葉なき熊野丁字ゴケ、また従来四国で見出だしおりしヤハズアジサイ、粘菌中もっとも美麗なるCribraria violaceaその他小生一々おぼえぬが、分布学上珍とするに堪うるものはなはだ多く、かつ行歩少しも嶮ならぬゆえ、相応の保護を加え、一層繁殖させなんには、最も植物学の実際をなすに好適の地なり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.383』河出文庫)

熊楠のいう「丁字ゴケ」は、形が「丁」の文字に似ていることから「丁」字を当て、それに「コケ」(苔)を付けただけのシンプルな呼び名。「クマノチョウジコケ」の学名で正式採用されている。

ところで熊野といっても古代には先住民がいたに違いない。それも複数。彼らはそれぞれの本拠地というべき土地を持ちつつ、それぞれの事情に応じて移動することもあったに違いない。そのことを示す文章が折口信夫にある。

「熊野の地は、紀伊の國の中で一区画をなして居り、其が時代に依つて境を異にしてゐたらしい。昔ほど廣く、北方に擴つてゐて、所謂普通の紀伊國の地域を狭めてゐた。思ふに此は、南紀伊地方にゐた種族の暴威を振ふ者の、勢力を張つた時代は、遥かに北に及び、其衰へた時は、境界線が後退してゐたからだらう。奈良朝前後では、南北東西牟婁郡の範囲も定つて、北西の限界は、日高郡岩代附近と言ふことになつてゐたらしいが、熊野の祭祀の中心たるべき日前(ヒノクマ)・國懸(クニカカス)の社(ヤシロ)が、更にその北にある事は、其以前の熊野領域を示すのだ。古事記・日本紀の文脈を見ると、更に古代の熊野の領域が、北に擴つて居り、紀の川・吉野川南部の山地は、大和・吉野へかけて一体に、熊野人の勢力範囲であり、唯海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た、と言ふ事が出来る」(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」『折口信夫全集16・P.222』中公文庫)

記紀に見られる「熊野、大和、吉野」の繋がりについて。まず「熊野久湏毗(くまのくすび)の命(みこと)」=「熊野櫲樟日命(くまののくすびのみこと)」について。

古事記から。

「右の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧(さぎり)に成りませる神の御名は、熊野久湏毗(くまのくすび)の命(みこと)」(新潮日本古典集成「古事記・上つ巻・天照大御神と須佐之男命・天の安の河の誓約(うけひ)・P.47〜48」新潮社)

日本書紀から。

「既(すで)にして素戔嗚尊、天照大神の髻鬘(みいなだき)及(およ)び腕(たぶさ)に纏(ま)かせる、八坂瓊(やさかに)の御統(みすまる)を乞(こ)ひ取(と)りて、天真名井(あまのまなゐ)に濯(ふりすす)ぎて、齟然(さがみ)に咀嚼(か)みて、吹(ふ)き棄(う)つる気噴(いふき)の狭霧(さぎり)に生まるる神を、号(なづ)けまつりて正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)と曰(まう)す。次(つぎ)に天穂日命(あまのほひのみこと)。是(これ)出雲臣(いづものおみ)・土師連等(はじのむらじら)が祖(おや)なり。次に天津彦根命(あまつひこねのみこと)。是(これ)凡川内直(おほしかふちのあたひ)・山代直等(やましろのあたひら)が祖なり。次に活津彦根命(いくつひこねのみこと)。次に熊野櫲樟日命(くまののくすびのみこと)。凡(すべ)て五(いつはしら)の男(ひこがみ)ます」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第六段・P.64〜66」岩波文庫)

次に「国巣」(くにす)=「国樔」(くづひと)について。

古事記から。

「その山へ入(い)りませば、また尾生ふる人に遇ひましき。この人巌(いはほ)を押し分けて出で来(く)。しかして、『なは誰(たれ)ぞ』と問ひたまへば、『あは国つ神、名は石押分之子(いはおしわくのこ)といふ。今、天つ神の御子幸行しぬと聞きつれば、参向(まゐむか)へつるにこそ』と答へ白しき(こは吉野の国巣〔くにす〕が祖〔おや〕ぞ)」(新潮日本古典集成「古事記・中つ巻・神武天皇・宇陀での戦勝・P.114」新潮社)

日本書紀から。

「亦(また)尾有りて磐石(いは)を披(おしわ)けて出(きた)れり。天皇問ひて曰はく、『汝は何人ぞ』とのたまふ。対へて曰さく、『臣(やつかれ)は是磐排別(いはおしわく)が子(こ)なり』とまうす。排別、此をば飫時和句(おしわく)と云ふ。此即(これすなは)ち吉野の国樔部(くずら)が始祖(はじめのおや)なり」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀戊午年八月~九月・P.216」岩波文庫)

さらに吉野の国樔は宮廷の祭祀の際、歌舞音曲に携わった点について。

「十九年の冬十月(ふゆかむなづき)の戊戌(つちのえいぬ)の朔(ついたちのひ)に、吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。時(とき)に国樔人(くずひと)来朝(まうけ)り。因(よ)りて醴酒(こざけ)を以(も)て、天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)りて、歌(うたよみ)して曰(まう)さく、

橿(かし)の生(ふ)に横臼(よくす)を作(つく)り横臼(よくす)に醸(か)める大御酒(おほみき)うまらに聞(きこ)し持(も)ち食(を)せまろが父(ち)

歌(うたよみ)既(すで)に訖(をは)りて、則(すなは)ち口(くち)を打(う)ちて仰(あふ)ぎて咲(わら)ふ。今(いま)国樔(くずひと)、土毛(くにつもの)献る日(ひ)に、歌(うたよみ)訖(をは)りて即(すなは)ち口を撃(う)ち仰ぎ咲(わら)ふは、蓋(けだ)し上古(いにしへ)の遺則(のり)なり。夫(そ)れ国樔は、其の為人(ひととなり)、甚(はなはだ)淳朴(すなほ)なり。毎(つね)に山(やま)の菓(このみ)を取(と)りて食(くら)ふ。亦(また)蝦蟆(かへる)を煮(に)て上味(よきあぢはひ)とす。名(なづ)けて毛瀰(もみ)と曰(い)ふ。其の土(くに)は、京(みやこ)より東南(たつみのすみ)、山を隔(へだ)てて、吉野河(よしのかは)の上(ほとり)に居(を)り。峯(たけ)儉(さが)しく谷(たに)深(ふか)くして、道路(みち)狭(さ)く巘(さが)し」(「日本書紀2・巻第十・応神天皇十六年八月〜二十年九月・P.208」岩波文庫)

そしてまた熊野は古来、芸能との繋がりが大変強い。

「歌比丘尼の本国は熊野であったと申します。中には旅先で弟子を取り、または町中に住居を定めた者も多かったようですが、少なくとも年に一度は、還るといって熊野に往復しました。媚(こび)をひさぐような境遇に落ちた比丘尼までが、熊野の牛王札(ごおうふだ)を売ると称して男の中に出入りし、箱には酢貝(すがい)という貝殻を入れて、土産と名づけて得意の家へ贈ったことが西鶴の小説などにあります。どうして熊野にばかり、このような特殊な職業婦人をたくさんに産するに至ったかはむつかしい問題ですが、本来この偏卑(へんぴ)な土地の信仰が、一時日本の隅々までも普及したのは、最初から神人の旅行ということが要素であったからで、永くその状態を続けていれば、後には故郷に不用なる人が多くなり、何としてなりとも外で生計を立てることが必要になったことかと思います。多くの熊野比丘尼には配偶者がいて、たいていは修験者(しゅげんじゃ)でありました。女の供給によって一山富むとさえいっていますが、彼等が正当の収入は遊芸の報酬ではなく、普通には勧進(かんじん)と称して、人に喜捨を勧めたのであります。神の社、仏の社、それから橋や山道の改修までも勧進し、後には伊勢の神宮の地にも来て住んで、ある時には大廟(だいびょう)造営のためにも働いています。こういう目的の比丘尼たちが国々をあるく場合に、歌にして聴かせた物語の種類が、一種や二種に限られていなかったのは、むしろ当然のことかと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・熊野比丘尼」『柳田國男全集10・P.466~467』ちくま文庫)

比丘尼に配偶者(夫)がいたということは何ら驚くに当たらない。仏教徒の「尼」(あま)と修験道の「比丘尼」(びくに)とはそもそも違っている。詳しくは、柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.387~398』(ちくま文庫)、参照。

また「西鶴の小説など」とある。江戸時代になると熊野は、西鶴だけでなく近松門左衛門など、浮世草子や浄瑠璃を通し当たり前の素材として取り扱われていた。「坂田」は山形県酒田市。「勧進比丘尼(くはんじんびくに)」が登場する。柳田が触れているように勧進比丘尼がだんだんその信仰から切り離され、一方は富裕層へ、もう一方は徳川体制下の遊女へ、と二分割されていく様子が、「昔を語る」手法で描かれた場面。

「今男盛(おとこさかり)二十六の春。坂田といふ所に、はじめてつきぬ。此浦のけしき、桜は浪にうつり、誠に、花の上漕ぐ、蜑(あま)の釣舟と読(よみ)しは、此所ぞと、御寺(みてら)の門前より詠(ながむ)れば、勧進比丘尼(くはんじんびくに)、声を揃(そろえ)て、うたひ来(きた)れり、是はと立よれば、かちん染の布子(ぬのこ)に、黒綸子(くろりんず)の二つわり、前結びにして、あたまは、何國でも同じ風俗也、元是(もとこれ)は、嘉様(かやう)の事をする身にあらねど、いつ比より、おりやう、猥(みだり)になして、遊女同然に、相手も定(さだめ)ず、百に二人といふこそ笑(おか)し、あれは正しく、江戸滅多(めつた)町にて、しのび、ちぎりをこめし、清林がつれし、米(こめ)かみ、其時は、菅笠(すけかさ)がありくやうに見しが、はやくも、其身にはなりぬと、むかしを語る」(井原西鶴「好色一代男・卷三・木綿布子(もめんぬのこ)もかりの世・P.90~91」岩波文庫)

なお、「おりやう」は「御寮」。年配(今でいう三十五歳程度)の比丘尼。「米(こめ)かみ」は子比丘尼のこと。さらに西行作とされている和歌が持ち出されているけれども、後に芭蕉が取り上げて始めて広く世に知られるようになった経緯があり、また西行自作自選の「山家集」にも「山家心中集」にも入っていないことから、通例通り、本当に西行作かどうかは判別しかねるというしかない。もう一つの理由として、この場面は、世之介が詠じたことになってはいるが、心身ともにすでに衰えを隠せない比丘尼が「百に二人」(一人で五十)を条件として「いい女と遊ばない?」と声をかけて来るシーンであって、例えば昭和年代の繁華街でボーイが「社長っ!」と声をかけるための決まり文句に等しい。だから歌の歌詞にしてもどれでもよいというわけでなく、単にそこだけ知っていれば誰にでも通じる「隠語」として社会的規模で通用するものでなくてはならなかったはずである。もし本当に西行なら西行でいいのだが、「花の上漕ぐ蜑(あま)の釣舟」というフレーズは、いかにも新古今前後に成立した類種のものを集めて作り込んだキャッチコピー的印象と、江戸期以後の花街の匂いがするため逆に決めかねるところがあると思われる。

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