白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ368

2024年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年五月十五日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

パソコンを閉じて部屋を出たらすぐそばでお股おっぴろげポーズのタマ。

 

おっと、危ないよ。

 

最近飼い主の部屋の前ではやらなかったけど。

 

どうかしたのか、タマ。

 

ぬいぐるみは?

 

と尋ねようとした途端、たたたと走り出してぬいぐるみの置いてあるところまで案内する。

 

階段をのぼる手前に転がしてある。

 

どうも昼間はぐうたらし始めたようでなんとも、、、。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ホレス・アンディ。今年九月の来日公演が決定したらしい。すべての全体主義をあっけなく溶かしてしまうレゲエ=ダブの「伝説的お爺ちゃん」。


Blog21・「あり得た、あり得る、あり得るだろう」対話の創設

2024年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

本。オオカミは「ホン」と語っていた。去年の十一月号でのことだ。

 

(1)「『キマッテルダロウ。ズットマッテイタノダ。ホントイウモノガオシエテクレルマデ。トコロガホントイウモノハナニモオシエテクレナイ。ダカライノッタ。モシカシタラボクガオオカミダカラヨウジンシテイルノカモシレナイカラネ。ソウイウコトハヨクアルノダ。ソレデモホントイウモノハシズカナママダッタ。ヒトガツカウモノノコトハワカラナイコトガオオイノダ。オマエガヤッテイルコトヲマネテモミタヨ。ホントイウモノヲスコシズツカゼニアテテミタノダ。ソレデモナニモオコラナカッタ。ダカラアノカミノウエノモジトイウモノヲナガメルコトシカデキナカッタヨ』。

 

わたしにはなんと答えればいいのかわかりませんでした。もしかしたら、間違っているのはオオカミではなくわたしの方なのかもしれません」(高橋源一郎「オオカミの(1)」『群像・11・P.19』講談社 二〇二三年)

 

ひとつは、「あり得た、あり得る、あり得るだろう」と考えられることについて。もうひとつ、「もはや失われた、あるいは加速的に失われつつある」と考えられることについて。そういうことを「ほとんどあり得ない」対話の創設を通して提起していくのだろうと思っていた。今もそう思って目を通しているが、とりあえず傍線を引いた箇所を、順を追って列挙しよう。二箇所目。

 

(2)「確かに、そのライオンの云うとおりなのかもしれませんでした。どこに行っても、わたしはつい、そこの『規則』はなんだろう、と考えてしまうのです。そして、勝手にそこの『規則』を想像して、その自分が想像した『規則』に従おうとしたりするのです」(高橋源一郎「オオカミの(2)」『群像・2・P.102』講談社 二〇二四年)

 

フーコーが「監獄の誕生」でしきりに論じていた「規律」の<内在化>(内面化)を思わせる。内在化(内面化)されてしまうと自分で自分の挙措動作を自分自身が常に監視していることさえすっかり忘れてしまう。

 

次の対話は一見両者のあいだに随分世代的な認識の違いがあるように見えるけれども、そうではなくこの四半世紀ほどであっけなく到達された事情。

 

(3)「『あんた、<キョウシツ>というものを知っておるかな。<ガッコウ>の中には、そういう名前の部屋があったんだ』。『聞いたことがあります。<ガッコウ>に<キョウシツ>に<セイト>ですね。どれも、読んだり、聞いたりしたことがあります』」(高橋源一郎「オオカミの(3)」『群像・2・P.87』講談社 二〇二四年)

 

さて、「わたし」は「トショカン」を体験する。ある本を開くとともに「カミサマ」についての記述と出会う。日常生活を送る上でいつも何がしかの困難を伴う「チョウセイ」の必要から解き放たれたフィクショナルなシーン。本に出てくる「カミサマ」は「勤勉な工員のよう」であり「そこいらにいる立派なヒトたちのことを云っているだけなのかもしれ」ない。もっとも聖書というのは人間による神格化なしに聖書たり得ないのは言うまでもない。人為的に神格化された聖書は今やもっぱら戦争の正当化に利用されていてその「チョウセイ」に明け暮れる人々にとって、図書館がまだ「トショカン」だった頃の幼い記憶について書き落とすわけにはいかないだろう。

 

(4)「どうしたのだろう。イヤな気がしないのです。『カミサマ』などという、禍々しいものを目にしているというのに、それは、おそらく、『チョウセイ』のために読んではいないからだと思います。『チョウセイ』のために読むときには、『カミサマ』などというコトバが目に入ると、どんなふうに『チョウセイ』したらいいのだろう、とまず考えてしまうのです。

 

いま、慌てずに、じっくり『カミサマ』というコトバを見てみると、そんなに悪いコトバのようには思えません。それにしても、『カミサマ』は、『ヒトビト』を造ったようです。なんということだろう。優れた博士のようではありませんか。それに、その仕事ぶりときたら、勤勉な工員のようです。もしかしたら、『カミサマ』というのは、ありもしないなにかではなく、そこいらにいる立派なヒトたちのことを云っているだけなのかもしれません。そして、そのことを告げ知らせるために、ちょっと大げさに書いてみたのでしょうか。もちろん、そんなことは、『会議』で云うことはできません。なんだか、わたしは愉快になりました」(高橋源一郎「オオカミの(4)」『群像・6・P.184』講談社 二〇二四年)

 

玄関の呼び鈴が鳴ってドアを開けると黒い犬が立っている。「善いサンポ」について滔々と語る。対話というよりほぼ黒い犬の独壇場。当たり前のことを言っているように思えるがそれは人間が読んだ後に言われてみればその通りかもしれないと思う人間の独善的判断に過ぎない。黒い犬の言う当たり前は人間の意識の前、すでに学ばれている。

 

(5)「『ハイ。フダンハタダナントナクアルイテイルミチニモ、ジツハオソロシイモノガタクサンヒソンデオリマス。タクサンノジケン、ソレモトリワケヒサンナジケンノカズカズ、ソレガジッサイニハミチバタデオコッテイルコトハゴゾンジデショウカ』。『確かに、イエの外には危険なことがたくさんありますね』。『ハイ。ジッサイ、アラユルミチバタニ、ヒトニハミエナイキケンナカショガゴザイマス。ナント、オオカミデサエワカラナイキケンモ、ワタシタチハサッチスルコトガデキルノデゴザイマス』。『それは、すごいですね』。『オドカスヨウデモウシワケアリマセン。ケレドモ、ジッサイ、サンポスルミチニハ、オソロシイホドニタクサンノキケンガマッテオリマス。マタドウジニ、ソウゾウモデキナイホドスバラシイバショモアルワケナノデゴザイマス』。『そうなんですか』。『ソシテ、タイセツナノハ、コドモトオトナ、ワカモノトロウジン、オトコトオンナ、ソレゾレニ、サンポチュウニフリカカルキケンモ、デアウコトニナルスバラシイモノモ、マッタクチガッテイルコトナノデゴザイマス』」(高橋源一郎「オオカミの(4)」『群像・6・P.187』講談社 二〇二四年)

 

こうして「あり得た、あり得る、あり得るだろう」対話が創設されていく。まだ先は見えない。


Blog21・「出会い損ね」へ飛んでみる

2024年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

日本語だけでなく外国語の「正しい」使い方に通じているばかりかいわゆる話題の「引き出し」も豊富な作者。だがこの場合、語学の教師では決してない。ひょっとして語学教師であれば逆に書くことができなくなってしまうに違いないであろうと思わせる、これは《小説》だからに違いない。

 

三箇所引用してみよう。

 

(1)「Have a nice life.

 

ありふれた年末年始の挨拶の下に、アキコさんという女性はそう書いていました。

 

良い人生を。

 

いきなりそんな文句を書かれて、それでも返事を送れる人はあまりいないでしょう。

 

でも、僕には気がかりなことがありました。万が一、アキコさんが『Have a nice life』を『Have a nice day』と似たようなノリで使える言葉だと考えていたらどうでしょう。日本語ではlifeを『人生』だけでなく『生活』とも訳します。『Have a nice day』のdayをlifeにしたら、『素敵な暮らしを』ぐらいの意味になると思って彼女がこの言葉を書いたのだとしたら。

 

僕がそんなことを思うのは、僕自身、同じ間違いをやらかしたことがあったからです。英語学校でクラスメートに『Have a nice life』と挨拶したら、ジジから『あなたはテリブルな人』と言われたことがありました。その表現が、もう二度と会えないだろう人への別れの文句であり、もっと言えば、二度と会いたくない人に対して放つ捨て台詞になり得るということを、僕は知らなかったのです。

 

アキコさんが正しい意味で使っていたとすれば問題ありません。が、もしこんな勘違いのせいで二人の関係が終わったのだとすれば、それはあんまりだと思いました」(ブレイディみかこ「世界は誤訳でまわってる」『群像・6・P.162~163』講談社 二〇二四年)

 

(2)「『ノー、全然違う』と大家さんは言いました。『<守れない約束>とか<起こりそうもないこと>とか、そういう意味だよ。jam tomorrowってのは』。僕は自分の体から血の気が引いていくのを感じました。『それに、jamっていう単語は、<ジャムをつける>という意味では使わんだろ。<jam it>とかも言わんもんな。少なくとも俺は、いままで生きてきて、英国では聞いたことない』。『でも、<butter it>とは言うじゃないですか。<バターをつける>っていう意味ですよね』。『うん、でも、ジャムの場合はそういう風には使わない』。『どうしてですか?』『それは俺にはわからん』。

 

僕はポケットからスマホを出し、英辞郎on the Webでjamを検索しました。大家さんの言う通り、動詞としてのjamには、『ジャムをつける』という意味はありませんでした。『引っかかる』とか『〔機械などが〕動かなくなる』という動詞の意味が並んでいて、下のほうにある訳語を見たとき、僕は愕然としました。『<俗>セックスする』と書かれていたからです」(ブレイディみかこ「世界は誤訳でまわってる」『群像・6・P.168』講談社 二〇二四年)

 

(3)「僕が取り返しのつかないことをしてしまったのは明らかでした。先日のパーティーで、ジジにみんなで寄せ書きをしたカードを渡しました。その中に、僕は『jam tomorrow』と書いてしまったのです。あの日、『ジャムはパンに塗るものとは限らない』と彼女が言ったのは、やっぱり皮肉だったのです。ちゃんと言葉の意味を調べもせず、クールな感じの慣用句だと思い込んで、気取って使った僕の自業自得です。穴があったら入りたい気分でした。が、僕がどこに隠れたところで、あの言葉はもう表に出ていて、ジジの手元にあるのです」(ブレイディみかこ「世界は誤訳でまわってる」『群像・6・P.169』講談社 二〇二四年)

 

いずれも言葉の意味の「正誤」をめぐり失敗したエピソードの断片のように見えはする。そしてそれぞれの場面でもし「正しい」使い方(あるいは「手続き」)がなされていれば「間違い」は起こらなかったと言おうとしているのだろうか。

 

ところがそう解釈してしまうとしたら、ともすれば言葉の意味に特権的な「絶対的真」があり、したがって「絶対的偽」があると前提することになってしまうほかない。まるで違う。作者はなぜ小説という手間暇かかる形式を選んだのか。小説というくねくね入り組み混み合ったわずらわしい形式で何を語りかけようとしているのか。

 

「正誤」という単純素朴な二元論はとうに死んだ。<神の死>とともに死んだ。にもかかわらずなぜ「絶対的真」あるいは「絶対的偽」などと言うことができるのか。両者の境界線は常にすでにずれつつ現代進行形を取ってはばからない。

 

おそらく作品は「絶対的真」あるいは「絶対的偽」という黴の生えた観念に異議を唱え、おそろしく古くからうさん臭さを漂わせてきた<罠としての「正誤」>の観念の外へ読者を向け替え読者とともに思いきって飛び出してしまおうと誘っているのかもしれない。小説なら可能だから、という自信を仄めかせながら。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて791

2024年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

少しずつでも有効活用できそうな権利を物色中。

 

考え中でもある。

 

とはいえそうやすやすと見あたらないものだなあ、、、。

 

なんでもかんでも掻き集めればいいってもんでもないからね。

 

今朝の音楽はチック・コリア「WALTSE FOR DAVE」。

 


Blog21・決定的敗戦をもたらした日本全体主義の「社会的担い手」とは誰か2

2024年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 

Blog21・決定的敗戦をもたらした日本全体主義の「社会的担い手」とは誰か2 - 白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

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