白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ358

2024年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年五月五日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼間は室温も結構上がりタマは風通しのいい二階のベッドへとっとと自主避難。

 

様子を覗くとゆるゆると横になっていて飼い主のほうを余裕で見返す。

 

いつものぬいぐるみもしっかりベッドサイドへ持ち運んで好きなように遊んでいる。

 

う~む。

 

猫ではしばしば見られる態度に過ぎないと言えばいえる。

 

ペットであるにもかかわらずそれがあえて立派な自主性・自律性に映ってみえる理由としては、まあ、日本の政治とそのマス-コミの隷属的だらしなさ抜きに語れないだろう。

 

日本の難関大卒業生らが全米の大学生らから民主主義を奪うことに加担しているとはね。

 

いまやパレスチナ情勢をめぐるアメリカ政府の動きは香港民主化運動を叩き潰した当時の中国政府に似ている。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。アマンダ・ウィッティング。いかにもジャズ・ハープという演奏もあればカテゴリーにとらわれない幅広さも聴かせる。


Blog21・フリージャズ/エネルギーの可変的生成2

2024年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

古典でも現代アートでもフリージャズでも、それらはいずれも何らかの形態で「表象」されなければ誰にも何一つわかりはしない。とはいえそもそも「表象」とはなんなのか。

 

人間の身体は「物質的世界の総体にあって、他のさまざまなイマージュとおなじように活動する一箇のイマージュであり、運動を受けとり、それを返している。ただ、おそらくここにただ一点の差異が存在する。それは、私の身体が、受けとったものを返すしかたをあるていど選択しているように見える」。このように「あるていど選択」される過程を経て始めて人間身体は、仮に「輪郭」とでも言うべき現象の現われと出会う。

 

(1)「私の身体は、だから物質的世界の総体にあって、他のさまざまなイマージュとおなじように活動する一箇のイマージュであり、運動を受けとり、それを返している。ただ、おそらくここにただ一点の差異が存在する。それは、私の身体が、受けとったものを返すしかたをあるていど選択しているように見える、ということである」(ベルクソン「物質と記憶・P.38~39」岩波文庫 二〇一五年)

 

この「選択」という動きを「決定」と呼ぶことも可能である。無数のイマージュ群の中で「この私の身体のイマージュ」にとって「決定すること」はほかでもなく「じぶんの身体がそこから得ることのできるはずの利得を素描していなければならない」という意味での「決定」である。

 

(2)「私の想定したところによれば、私の身体と呼ばれるイマージュの役割は、他のイマージュに対して現実的な影響を行使することにあるとともに、したがって実質的に可能ないくつかの足どりのなかから決定をくだすことにあった。くわえて、この足どりはおそらく、身体のイマージュが周囲のイマージュ群から引きだすことのできる利益の大小によって、身体に対して示唆されている。そこで、周囲のイマージュはなんらかのしかたで、それが私の身体に対して向けているその側面に、じぶんの身体がそこから得ることのできるはずの利得を素描していなければならない」(ベルクソン「物質と記憶・P.40」岩波文庫 二〇一五年)

 

「利得」の「素描」である限り「知覚」とはどういうことになるだろうか。

 

(3)「知覚とは、私たちの理解するところでは、事物に対するみずからの可能な行動を計るものであり、逆にじぶんに対して事物がおよぼすことの可能な作用を測るものにほかならない」(ベルクソン「物質と記憶・P.111」岩波文庫 二〇一五年)

 

(3)をもう少し言い換えれば次のようにいえる。

 

(4)「私たちの感覚が知覚に対して有する関係は、だから、じぶんの身体の現実的行動がその可能的あるいは潜在的行動に対して有している関係とひとしい。私の身体の潜在的行動は、それ以外の諸対象にかかわり、それらの対象群にあって素描されている。その現実的な行動はじぶんの身体そのものに関係し、したがって身体のうちで描きだされているのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.112」岩波文庫 二〇一五年)

 

同じことだが「創造的進化」ではこのように書かれている。

 

(5)「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・第一章・P.30~31」ちくま学芸文庫 二〇一〇年)

 

とすればこう言えるだろう。

 

(6)「物質にかんする私たちの表象は、物体に対してじぶんがくわえることの可能な行為をはかる尺度である」(ベルクソン「物質と記憶・P.75」岩波文庫 二〇一五年)

 

しかしなぜ人間身体はそのように表象するように「できている」のか。ある事情の切迫によって「輪郭」は鮮明化する。目前に迫り来るもの(例えば迫り来る危険、迫り来る満期、迫り来る試験など)が「選択/決定」を余儀なくさせる。それらはその人物の「記憶イマージュ」を総覧するよう「要求」する。知覚された「イマージュが保存されるとすればそれはひとえに有用なものとなるためだからである」。

 

(7)「生命体が刺戟を受容し、その刺戟を予見不可能な反応に仕上げることを目的としているにしても、それでも反応の選択は偶然的な操作に委ねられるべきではないからだ。この選択は疑いもなく、過去の経験により生気を与えられるのであって、類似した状況があとに残すことのできたものである記憶に訴えずに、反応が起こることはない。遂行されるべき行為の不確実性は、したがってたんなる気まぐれと混同されないために、知覚されたイマージュの保存を要求している。ーーーイマージュが保存されるとすればそれはひとえに有用なものとなるためだからである」(ベルクソン「物質と記憶・P.128~129」岩波文庫 二〇一五年)

 

今ただちに必要とされているメロディのために過去のイマージュからすみやかに取り出してくるべきスケールはどれであるべきか。次のように動くに違いない。

 

(8)「原則的にいえば、現在は過去を置きかえる。しかし他方では、過去のイマージュが抑圧されるのは、ほかでもなく現在の態勢によるそのイマージュの抑止がはたらくところに由来するのであるから、なんらかのイマージュが、この現在の態勢に嵌まりこむことのできる形態をともなったものであるならば、そのイマージュが〔意識に対してあらわれるさいに〕遭遇することになる障害は、他のイマージュよりもちいさいものとなるだろう。かくて、イマージュ群のうちでどれかが当の障害を踏みこえることができるとすれば、現在の知覚に類似したイマージュこそがそれを乗りこえるはこびとなるはずである」(ベルクソン「物質と記憶・P.190」岩波文庫 二〇一五年)

 

ところがさらに不足か過剰かのいずれかである場合「なんらかの呼びかけが、より深く、さらに遠い記憶の領域まで投げかけられて、すでに知られている他の細部が、なお知られていない細部へと投射されるにいたる」。

 

(9)「保持されるイマージュ、あるいは思いだされるイマージュが、知覚されたイマージュの細部のことごとくと一致するまでにいたらない場合には、なんらかの呼びかけが、より深く、さらに遠い記憶の領域まで投げかけられて、すでに知られている他の細部が、なお知られていない細部へと投射されるにいたるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.202」岩波文庫 二〇一五年)

 

ベルクソンは「多かれすくなかれ距てられた記憶を投射することによって」、「一箇の素描がそのときじぶんに与えられ、私たちはその細部と色あいとを再創造する」と述べる。

 

(10)「一箇の素描がそのときじぶんに与えられ、私たちはその細部と色あいとを再創造する。それはじぶんがそこに、多かれすくなかれ距てられた記憶を投射することによってなのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.212」岩波文庫 二〇一五年)

 

ベルクソンの場合、大事なのは「再創造」ということになるだろう。いったん総括しておこう。事情はこうだ。

 

(11)「イマージュ記憶そのものは、それが純粋記憶の状態へと還元されるかぎりでは、無効なものでありつづける。このイマージュ記憶は潜在的なものであって、だからそれが現勢的なものとなりうるには、その記憶を引きよせる知覚を俟つほかはない。それは無力なものであるがゆえに、この記憶はみずからの生命と力を、それが物質的なかたちを取る現在の感覚から借りうけている。とすれば、結局はこうも言えるのではないだろうか?つまり、判明な知覚が惹きおこされるのは、ふたつの逆向きの流れによってであって、その流れの一方は求心的で、外的対象から到来するのに対して、他方は遠心的なものとして、その出発点を私たちのいう『純粋記憶』のうちに有している、ということである。第一の流れは、それだけでは、なんらかの受動的な知覚を与えるにすぎず、その知覚には機械的な反応が随伴していることになるだろう。第二の流れには、それが放っておかれると、現勢化された或る記憶を与える傾向があり、この記憶は流れが強くなればなるほどに、それだけ現勢的なものになる。このふたつの流れが一体化することで、それらが合流する地点にあって、判明な、再認された知覚をかたちづくるのだ」(ベルクソン「物質と記憶・P.255~256」岩波文庫 二〇一五年)

 

さてしかし、まったくの現代アート、フリーインプロヴィゼイションという場合、果たしてそれだけでいいのかという疑問が湧いてこなくもない。フリーインプロヴィゼイションはただ単なるアドリヴとは異なるのではないか?むしろ何もないように思われていた次元の発見とその意識化という作業と並行しているような感覚をもたらさないだろうか。問題になってくるのは例えば「夢の次元」はどうかという点である。

 

(12)「過去のうちに生き、そこで生きることを歓びとする人間がいたとすれば、かれもまたほとんどおなじように行動に対して適合していない。その者のもとでは記憶が、現下の状況にとってなんの利益もないのに、意識の光のもとへ浮かびあがってくるとするなら、そのような人間は衝動的ではないけれども、《夢想的な》人物となる」(ベルクソン「物質と記憶・P.304」岩波文庫 二〇一五年)

 

フリーインプロヴィゼイションする身体はフリーインプロヴィゼイションを追いかけ追い越しさらに追い越されといった現在進行形を生きていると言えそうにおもわれる。もしそうでない場合「《夢みる》ような人間」とは逆に行動するだろう。「反対にこうした記憶を、そこから生まれてくるいっさいのものとともに撥(は)ねつけようとするひとであれば、じぶんの生活をたえず《演じて》、それを真に表象することはないはずである。そのひとは意識をもつ自動人形のように、有用な習慣の坂をくだるのであって、その習慣とは刺戟を適切な反応へと繰りのべる〔だけの〕もの」でしかない。

 

(13)「みずからの生活を生きるかわりに《夢みる》ような人間は、おそらくはそのようにしてありとあらゆる瞬間に、過ぎ去ったじぶんの物語にぞくする無限な細部のひとつひとつをその視界のうちに留めておくことだろう。たほうその反対にこうした記憶を、そこから生まれてくるいっさいのものとともに撥(は)ねつけようとするひとであれば、じぶんの生活をたえず《演じて》、それを真に表象することはないはずである。そのひとは意識をもつ自動人形のように、有用な習慣の坂をくだるのであって、その習慣とは刺戟を適切な反応へと繰りのべる〔だけの〕ものなのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.307~308」岩波文庫 二〇一五年)

 

「自動人形のように、有用な習慣の坂をくだるのであって、その習慣とは刺戟を適切な反応へと繰りのべる〔だけの〕」人間ばかりで世界が満たされたとしたらどうなるだろう。それこそ世界全体主義の完成としか言うべき言葉がない。

 

その逆に現代アートが「現代」たりうるのは「自動人形のように、有用な習慣の坂をくだる」ことから逸脱する方向を「選択/決定」したからにほかならないのではないだろうか。百人が百人とも同じようには動かないしそんなアートははなから拒否するか少なくとも関心がない。その態度にむしろ「再創造」を夢見るがゆえに、一部の保守的市民層から「さっぱりわからん」と言われ嫌われてしまう理由があるのかもしれない。

 

腑に落ちたと思われるにせよさっぱりわからないと拒否されるにせよ、フリージャズ/フリーインプロヴィゼイションというのは、人間が夢を見ている時のように、一見無意味におもえる幾つもの断片へのきめ細やかな配慮でいっぱいなのではと感じるのだ。続く。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて781

2024年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

オノマトペな連休は続く。

 

今朝の音楽はチック・コリア「YOU’RE EVERYTHING」。


Blog21・決定的敗戦をもたらした日本全体主義の「社会的担い手」とは誰か2

2024年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 

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Blog21・決定的敗戦をもたらした日本全体主義の「社会的担い手」とは誰か1

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