先日、絶え間なく発生発酵再創造されるフリーインプロヴィゼーションの必然性について書いた。
Blog21・フリージャズ/エネルギーの可変的生成4 - 白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病
保坂和志は今月号で繰り返し引用している。「この社会の核には『悲しみ、懊悩、神経症、無力感』などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある...
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その中からもう一度引用しておきたい。
「私は最近の日本の高校のダンス選手権みたいなのはダンスも歌もそこにはない、あの一糸乱れぬ感じはひとめ見たときは驚いたがすぐに嫌になった、日本は部活動を通じてというか部活動を生息場所にして軍国主義が生きつづけている、部活動という形態を通じて軍国主義は更新されているーーー」(保坂和志「鉄の胡蝶は夢に記憶の歳月に彫るか(70)」『群像・6・P.301』講談社 二〇二四年)
日本の高校生の部活動がまだ今ほど北朝鮮人文字軍団めいていなかった一九八〇年代の吹奏楽部は全然違っていた。吹奏楽部出身だからといって大学に進学してからも超大国の軍事パレードそっくりのパフォーマンスに憧れるなどという事態はちょっとやそっとでは考えられず、むしろ習得した技術をもっと別の分野、例えばジャズ、現代ポップ、創造的アートへどんどん好きな方面へ歩んでいくのが好奇心の面においてもごく当たり前に見かける光景だった。
いつも団体で単純この上ない行進曲ばかりファンファーレのように鳴り渡らせて鼻高々でいるよりも、音楽は習得すればするほど多岐に渡る迷路へさまよい出て内的宇宙にせよ自身の外部にせよいずれにしてももっと外へ深く探求していくほうが断然面白いからだとおもわれる。
と述べた際、頭に置いていたことがもうひとつ。理解に苦しむというほかない日本のマス-コミ「報道文」である。
北朝鮮政府発表としてしばしば用いられる「(韓国・日本含む)欧米文化の流入を厳格に阻止する」というステレオタイプ。そしてつい先日、北朝鮮政府は国内の警察組織改革発表に際して全国民に対する実質的な「思想管理」の徹底化を強く打ち出した。日本のマス-コミは北朝鮮政府の姿勢についてほぼいつものまんま「(韓国・日本含む)欧米文化の流入を厳格に阻止する」というステレオタイプを強調し報道した。
北朝鮮首脳部がどう考えているにせよ少なくとも首脳部自身は「(韓国・日本含む)欧米文化」についてたいへん豊富な知識を持ち、特にエンタメについては首脳部自身が事細かく検閲できるほど研究しているだけでなく特権的に謳歌してさえいる。ごく一部の首脳陣による「日本の映画好き」発言はなお記憶にあるだろう。
一方、どこからどう見ても「日本は部活動を通じてというか部活動を生息場所にして軍国主義が生きつづけている、部活動という形態を通じて軍国主義は更新されている」という事態の中で、一糸乱れぬダンスにせよ流麗な踊りの部分にせよ、日韓米で一時的に流通しては更新されていく様々な「振り付け」に北朝鮮の人文字軍団あるいは通称「美女軍団」の映像をヒントにしたと思われる部分が幾つか見うけられるのはなぜなのか。北朝鮮軍事パレードで登場する人文字軍団あるいは通称「美女軍団」の振り付けは「(韓国・日本含む)欧米文化の流入を厳格に阻止する」どころか逆に記念日には堂々と披露されており、一方、日本の高校生ダンス選手権はあたかも双子の姉妹かと見まごうばかり北朝鮮軍事パレードで登場する人文字軍団あるいは通称「美女軍団」の振り付けを密輸入したかのようだ。
さらに北朝鮮では「警察組織改革」と銘打った全国民に対する実質的な「思想管理」の徹底化。一方日本では高度デジタル警察による個々人の脳内の動きまでをも管理しうる「思想管理」の徹底化。ドゥルーズとジジェクから一箇所ずつ。
(1)「現在の資本主義は過剰生産の資本主義である。もはや原料を買いつけたり、完成品を売ったりするのではなく、完成品を買ったり、部品を組み立てたりするのである。いまの資本主義が売ろうとしているのはサービスであり、買おうとしているのは株式なのだ。これはもはや生産をめざす資本主義ではなく、製品を、つまり販売や市場をめざす資本主義なのである。だから現在の資本主義は本質的に分散性であり、またそうであればこそ、工場が企業に席をあけわたしたのである。家族も学校も軍隊も工場も、それが国家でも民間の有力者でもかまわないなら、とにかくひとりの所有者だけで成り立つ同じひとつの企業が、歪曲と変換を受けつける数字化した形象にあらわれるようになるのだ。芸術ですら、閉鎖環境をはなれて銀行がとりしきる開かれた回路に組み込まれてしまった。市場の獲得は管理の確保によっておこなわれ、規律の形成はもはや有効ではなくなった。コストの低減というよりも相場の決定によって、生産の専門化よりも製品の加工によって、市場が獲得されるようになったのだ。そこでは汚職が新たな力を獲得する。販売部が企業の中枢ないしは企業の『魂』になったからである。私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す。規律が長期間持続し、無限で、非連続のものだったのにたいし、管理は短期の展望しかもたず、回転が速いと同時に、もう一方では連続的で際限のないものになっている。人間は監禁される人間であることをやめ、借金を背負う人間となった。しかし資本主義が、人類の四分の三は極度の貧困にあるという状態を、みずからの常数として保存しておいたということも、やはり否定しようのない事実なのである。借金させるには貧しすぎ、監禁するには人数が多すぎる貧民。管理が直面せざるをえない問題は、境界線の消散ばかりではない。スラム街のゲットーの人口爆発もまた、切迫した問題なのである」(ドゥルーズ「記号と事件・政治・追伸ー管理社会について・P.363~364」河出文庫 二〇〇七年)
(2)「間違いなくわたしたちは、デジタル警察国家の時代に突入している。デジタル機械はあの手この手でわたしたちの私的な事実や行動を、健康から買い物の習慣、政治的意見から娯楽、仕事上の決定から性行為にいたるまで、すべて記録しているのだ。今日のスーパーコンピューターがあれば、この莫大な量のデータを各個人のファイルにきれいに仕分け整理し、すべてのデータに国家機関や私企業がアクセスできるようにすることが可能である。しかし事態を真に一変させてしまうのは、デジタル管理そのものではなく、脳科学者お気に入りのプロジェクトだ。デジタル機械がわたしたちの心を直接読み取れるようにする(もちろんわたしたちには知られずに)のである」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.114」青土社 二〇二二年)
そんな「脳科学者」の才能や研究もまた、生成AIが目指すマシン(例えばイスラエルの軍事企業が開発した殺人ロボット)の高度化に有益であればあるほど厳格に、おそらく生涯にわたって徹底管理されるのは確実。
九日に日本ペンクラブが国会の空転に対する抗議表明を行った。マス-コミはその原稿を読んだだけでほとんどスルーしたに等しい。