川端康成作品には近親相姦を思わせるシーンが時々見られる。
有名なものでは次の一節。
「鏡の中の男の顔色は、ただもう娘の胸のあたりを見ているゆえに安らかだという風に落ちついていた。弱い体力が弱いながらに甘い調和を漂わせていた。襟巻を枕に敷き、それを鼻の下にひっかけて口をぴったり覆(おお)い、それからまた上になった頬を包んで、一種の頬かむりのような工合(ぐあい)だが、ゆるんで来たり、鼻にかぶさって来たりする。男が目を動かすか動かさぬうちに、娘はやさしい手つきで直してやっていた。見ている島村がいら立って来るほど幾度もその同じことを、二人は無心に繰り返していた。また、男の足をつつんだ外套の襟が時々開いて垂れ下る。それも娘は直(す)ぐ気がついて直してやっていた。これらがまことに自然であった。このようにして距離というものを忘れながら、二人は果しなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった」(川端康成「雪国・P.9」新潮文庫 一九四七年)
近親相姦というテーマと違うところで頭木弘樹は次の箇所を引く。病気入院中の読書経験で痛く心を打たれたらしい。
「妹に姉の肩が触れていた。ずいぶん久しぶりのことで妹は胸がどきどきした。筒抜けに姉が流れこんで来て、どうなるのかと思った」(川端康成「十七歳」『掌の小説・P.424』新潮文庫 一九七一年)
どう感じたというのだろう。
「入院中は、やさしい手と痛い手しかさわってこない。普通のふれあいというのがなくなる。姉の肩が妹にふれるというような、普通のふれあいに、どきりとしてしまう」(頭木弘樹「やさしい手と痛い手」『群像・2024・5・P.333』講談社 二〇二四年)
具体的には看護師ら医療従事者の「手」のことを指して述べている。不安な患者としては「手を握ってもらう」ことで「おびえが消える」、「孤独が減じる」、といった感覚。しかし最も注目したのは「筒抜けに姉が流れこんで来て、どうなるのか」という<力の流れ>についてだ。
それは「ふれあう」時、両者ともに変容させる力を持つ。例えばジュネはいう。
「わたしは、このように筋肉の隆々とした肉体が、わたしの熱によってこれほどにも溶解してしまうということを不思議に思う。彼はこのごろ街を行くとき、肩を丸めて歩いている、ーーー彼の厳(いか)つさが溶けたのだ。かつて鋭い稜角(りょうかく)であり、輝きであったもろもろのものがすべてやわらいでしまった、ーーーただ、一つ、溶け崩(くず)れた雪の中で光っているその眼を除いては」(ジュネ「泥棒日記・P.208」新潮文庫 一九六八年)
というふうに。