NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

2006年05月23日(火)

2006-05-23 | 授業
 「ぶっ殺してやるっ!!」


 どこからともなくそんな恐ろしい台詞が聞こえてくる。その発生源はヤクザでも笑顔の金融屋でもなく、小学生の集団だった。電車に乗るなどしたら、しばしばこういった類の光景に出くわす。そのたびに「今の子供は怖い」、「愛国心が足りないからだ(笑)」などと思ったりもするが、胸に手を当てればどうということはないのだと今更ながらに気がついた。

 もうかれこれ彼らの属するようなコミュニティーから身を引いて久しい僕には直ぐにはわからなかったが、彼らの「ぶっ殺してやるっ!!」という言葉は僕らが解している「ぶっ殺してやるっ!!」とは意味するところが異なるのだ。僕が片足を突っ込んでいる社会人な世界では「ぶっ殺してやるっ!!」という言葉は「殺してやる」という意味で受けとられるが、彼らの共有する文化内においては「ふざけるな」とか「いい加減にしろよな」といった程度の意味合いに過ぎないのだ。少なくとも僕が彼らの年代のころに感じていた限りにおいては。そこには明確な、法的な意味での殺意などあるはずがない。そんなことは誰でもわかるだろう。


 要は位相が異なるのだ。例えば「歴史」という言葉があるが、gooの国語辞典によれば、<以下引用>(1)人間社会が時間の経過とともに移り変わってきた過程と、その中での出来事。また、それをある秩序・観点のもとにまとめた記録・文書。(2)ある事物が今日まで経過してきた変化の跡。経歴。来歴。となる。ニュアンスの違いがあるにせよ、一般的にはこのように解されているはずである。しかしこのような一見一般的な言葉でも位相が異なれば、その意味するところはまったく異なるものとなる。例えばそれは哲学であり、哲学において「歴史」という言葉はイデオロギーなど大きなものの「対立」として解されている。また位相は時代にも存在し、今でこそ「コンパ」と言えば「女の子との楽しい飲み会」であるが、過去においては「主に男子学生たちが政治などについての語らい」を意味していた。つまりはそういうことなのであるでございます。


 そう、今の子供は怖くはない。言葉が反社会的なのだ。汚いだけなのだ。彼ら同様に僕の言葉も以前は今よりもっと汚かった。だいたい皆が皆、きれいな言葉ばかり使っているわけではないだろう。そのとき所属する”圏”に応じて、その”圏”の公共性に応じて使い分けるはず。それは子供でも大人でも同じなのだ。そう、大人も子供をとやかくは言えない。週刊誌の中吊りなんてその典型だ。

2006年05月23日(火)

2006-05-23 | 授業

 あっつい。毎日眠れん。衣装が少ない僕には夏はキツイ。冬ならば少ないながらも着まわしは効く。でも夏はそうはいかない。特に貧相な体形の僕には。

 今日は授業がなかったことを学校に行ってから感づき、メールにて確認。授業がなければ図書館に篭るべきだろうが、なぜだか鼻が止まらなく、風邪薬が頭をくらくらさせるので、という言い訳の元に家路に着く。今日こそは埃高きわが部屋の清掃に取り掛かった。
 埃は姿を消したが、本やプリントは相変わらず散乱している。明日はゼミだが、出ようか出まいか、考え中。やるべきといった張本人としては出るべきなのだろうけれども、でしゃばりすぎていい加減うざがられているのをヒシヒシとこの肌で感じているので。さてどうしようか。