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赤崎氏と中村氏は、“犬猿の仲”

2014年10月14日 | 気になるネタ

光の3原色である赤、緑、青が揃えば、すべての色の光を作り出せる。ところが、青色に光る発光ダイオード(LED)の実現は、長く困難を極めた。1960年代から世界中の研究者が開発に取り組むも、なかなかブレークスルーが起こらず、70年代に入ると「20世紀中には不可能」とまで言われた。

 10月7日、その偉業を達成した3人に、2014年のノーベル物理学賞が授与されることが決まった。赤崎勇・名城大学終身教授、天野浩・名古屋大学教授、中村修二・米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の3氏である。

 ただし、3人が共同で研究を行ったわけではない。基礎研究で先行していたのは、80年代に名古屋大学に在籍していた赤崎氏と天野氏だった。中村氏は、彼らから15年遅れで研究を開始した。

 そして、それが原因で赤崎氏と中村氏は、“犬猿の仲”と言われていた。その経緯を振り返ろう。

 当時、青色発光材料としては、窒化ガリウム、セレン化亜鉛が知られており、世界の研究者はどちらを研究対象に選ぶかという二者択一を迫られていた。

 米国を中心に世界の研究者の大半が選んだのがセレン化亜鉛。窒化ガリウムに比べ、良質な結晶ができやすく、有望に見えた。日本人研究者も、長いものに巻かれるようにセレン化亜鉛に走った

 そんな中で、窒化ガリウムに固執したのが赤崎氏だった。続々と発表されるセレン化亜鉛に関する論文には目もくれず、窒化ガリウムの結晶薄膜を形成する研究に取り組んだのである。

 そして、孤独な試行錯誤の末、86年に編み出したのが、サファイアの基板の上で窒化ガリウムの薄膜の結晶を成長させるという技術だった。

● ぶつかり合う自尊心、功名心

 その後、徳島県の蛍光材料メーカー、日亜化学工業の技術者だった中村氏も青色LEDの研究に着手した。元来の反骨精神から、材料の二者択一では、迷うことなく窒化ガリウムを選んだ。動機は「大企業がどこも研究していなかったこと」だった。

 中村氏のアプローチは、いわば応用研究である。すでに赤崎氏の論文によってサファイア基板の上に結晶薄膜を成長させるという道筋は示されていた。そこで、使い慣れていた結晶薄膜の製造装置を改造し、オリジナルの装置によって高品質の窒化ガリウム薄膜結晶を生み出すことに成功したのである。93年には、高輝度の青色LEDと、その大量生産技術まで確立してのけた。

 01年、経済ジャーナリストの岸宣仁氏は、すでに青色LEDの発明者として名を馳せていた中村氏と、その道を切り開いた赤崎氏の両名にインタビューし、本誌01年6月23日号で2人のこんな談話を紹介している。

 「ボクの場合はすべて直感で勝負してきた。自分ひとりで未知の世界に飛び出し、自分一人で世界一の膜をつくり出した自負はある。大学の先生は論文だけで認められるが、企業の人間は研究成果が実際に製品となって世の中に出ないと意味がない」(中村氏)

 「向こうが商品化にこぎつけたことは、あれはあれで立派だと思うが、すべて向こうがやったように言われるのは納得できない。あとでやった人のLEDがより明るくなるのは当たり前で、本質的な部分を誰がやったかが重要な問題なのだ」(赤崎氏)

 岸氏は、この記事中で「両者の言い分はそれぞれに正しい。むしろ、こうした自尊心、功名心がぶつかりあうところに画期的な発明が生まれ、技術革新が進むのである」と述べている。

 あれから10年以上がたち、2人は揃ってノーベル賞を受賞した。会見は別々行われたが、授賞式ではどんな会話を交わすのだろうか。

 (「週刊ダイヤモンド」編集部 深澤 献)