礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

しん生の九州吹戻しは真似も出来ない(円朝)

2018-04-25 02:03:21 | コラムと名言

◎しん生の九州吹戻しは真似も出来ない(円朝)

 昨日は、野村無名庵著『本朝話人伝』(協栄出版社、一九四四)から、「名人しん生 (一)」という文章を紹介した。本日は、その続編「名人しん生 (二)」を、同じ本から紹介する。
 原文にあったルビの一部を、【 】の形で再現した。〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による注である。

  名人しん生 (二)
 御案内の如く銚子の犬吠岬は有名の絶勝でありまして、奇石怪巌海中に起伏蟠踞〈バンキョ〉し、一望万里の太平洋から寄せては返す激浪怒涛【げきらうどたう】、山より高き大波の、崩るゝ如く襲つて来るやつが、断崖絶壁に打つかつて〈ブツカッテ〉、狂瀾忽ち砕け散れば、巌に激する水煙り、雪か霰〈アラレ〉か白玉の、飛沫躍動する壮観偉観、到底筆舌の名状し尽せるものではなく、大燈台が常に航海の船舶へ、警告と便宜を与へつゝ、その安穏を守つてゐる程の場所でありますから、物凄くも亦恐ろしき光景は、其実際に臨んだものでなけれは、想像しても分りません。さればこそ〔古今亭〕しん生は、わざわざ此処を選んで実見に出かけ、毎日毎日巌頭に立つては、轟き渡る風浪【ふうろう】の音に、雄大の気分を養ひつゝ、千態万状窮【きはま】りなき、女浪男浪〈メナミ・オナミ〉が変化の様を、仔細に観察してはその形容を、あれかこれかと研究して居りました。そして漁夫に就ては暴風雨のときの実況を尋ねたり、難船難破の経験談を聞いたりした。何でこんな事をしたかと申しますと、即ち、しん生はこれによつて、九州吹戻しの主人公たるきたり喜之助が、熊本を立つての後、薩摩の桜島まで、百里の海上を吹戻されるといふ、此物語の山になる肝腎の条【くだり】の、演出に使ふ為めだつたのでありました。分筆の士も大ていは、机の上の想像で、創作するのが通例でありますのに、卑近の舌耕を業とするしん生が、こんな苦心を積んで表現に資したといふ芸術的努力はまことに学ぶべく尊敬すべき精神だと存じます。たゞ見れば何の苦もなき水鳥【みづとり】の、足にひまなき我が思ひかなとやら、凡そ一事一業を成就したものの裏面【りめん】には、大なり小なり、必ずや人知れぬ苦労の伴はぬものはありませぬ。しん生は〔鈴々舎〕馬風に対し必らず私が物にするからと約束した言責〈ゲンセキ〉を重んじ、これ程の苦労をして、研鑽に研鑽を積み、推敲に推敲を重ねて、完全に自家薬籠【じかやくらう】中の物とした九州吹戻しを、江戸へ帰つて披露口演しましたところ、さらぬだに名人のしん生が、特に魂を入れての芸術、これが受けなからう筈もありません。期せずして高評湧くが如く、しん生の九州吹戻しは、忽ちに極め附きのものになり、「明晩九州吹戻し」というビラを辻々に張出し、これを撒きビラと申しますが、この広告をすると必らず大入満員になること極つてゐたと申じます。芸もこゝ迄行き度い〈タイ〉もので、即ち苦心と努力は立派に報ゐられた次第、後の名人〔三遊亭〕円朝も、
「しん生の九州吹戻しは真似も出来ない」
 といつて、自分もやらず、弟子にもやらせなかつたと聞いて居ります。総体にこのしん生は、人情噺の巧【うま】かつた人で、この吹戻しや「お富与三郎」「小猿七之助〈コザル・シチノスケ〉」のやうな、艶つぽくて波瀾に富む世俗の話を得意とし、一時はその名声江戸の落語界を風靡【ふうび】して、八丁荒しのしん生とさへ言はれた程でありました。その演出について工風【くふう】をこらした熱心は、吹戻し場合【ばあひ】と同様、何んでも同じことで、小猿七之助の話には、七之助の父七五郎が無論出ます。この七五郎は網打ちですから、しん生は網打ちの事も、一通り覚へてゐなくては、この話が出来ないとあつて、当時有名な網打ちとして知られました柳橋の上州屋慶次といふ人について親しくいろいろと教へを受けて高座にかけましたところ、一人の老人が楽屋にたづねて来て、
「さすがに師匠、心得たものだね。然し、網を打つところはあれでいゝが、上げるところが違つてゐるよ。四ひろ半〈ヨヒロハン〉の網は、手ぐる〈タグル〉時に腕へかけて丸めるものではない。あれは網の先を順々に畳んで上げなくてはいけません。又、楫子【かぢこ】が、櫓〈ロ〉を押しながら後方の手で松明【たいまつ】をかざしてゐるところ、あれは四方【あたり】がモヤで暗い為め、松明をつけるのだから網打ちの目の先きへ出しては仕事が出来ない。網打ちの頭の方でかざして居るものですよ」と親切に教へでくれましたので、しん生はその通りに演じましたところ、大に好評を博したといひます。何しろ多勢〈オオゼイ〉の聴衆【きやく】の中にはどんな専門家が聞いて居るのか分らないのですから、迂【う】つかりしたことは話せません。不断の研究が大切といふことになります。しん生はその用意に万全を尽したと同時に、演出の上にも、細かい注意や工風をこらしたさうで、例へばおとみ与三郎を話して、与三郎が島破りにかゝる時などは、その五六日前から、わざと鬚を剃らずに伸ばして置き、着附も薄鼠色のものを用ひて、如何にも破獄者【はごくしや】らしい気分を出したり、又夜中のことを話す時は、左右の燭台〈ショクダイ〉へ立てた蝋燭の芯を切らずに薄暗くして話し、いよいよ夜が明けるといふ時に初めて芯を切つて高座を明るくするといふやうな具合、大袈裟に申せば話の中へ舞台照明を応用するやうな技巧を弄して、一段の趣を添へたと申すこと、この人俳名〈ハイミョウ〉を寿耕といつて風雅の道も心得、初めは浅草、後に本所番場〈ホンジョ・バンバ〉、薬研堀【やげんぼり】等に住んでゐましたが、安政三年十二月二十六日〔一八五七年一月二一日〕歿し、本所番場本久寺に葬り法名〈ホウミョウ〉古今院真生日清信士、行年【ぎやうねん】時に四十八でありました。

 文中に、「八丁荒し」という言葉があるが、これは、「周囲八丁の寄席の客を奪う」という意味だという。また、「本所番場本久寺」とは、墨田区東駒形に現存する照法院本久寺(日蓮宗)のことである。

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初代・古今亭しん生と「九州吹戻し」

2018-04-24 07:36:48 | コラムと名言

◎初代・古今亭しん生と「九州吹戻し」

 本日は、野村無名庵著『本朝話人伝』(協栄出版社、一九四四)から、「名人しん生 (一)」という文章を紹介してみたい。ここでいう「名人しん生」とは、初代の古今亭しん生〈ココンテイ・シンショウ〉のことである。
 著者の野村無名庵(一九八八~一九四五)は落語評論家で、三代目・古今亭今輔に弟子入りしたことがある。一九四五年(昭和二〇)五月二五日の山の手大空襲で死亡したという(ウィキペディア「野村無名庵」)。
『本朝話人伝』は、戦争末期に出た本であるが、概して戦時色は薄い。冒頭には、当局に配慮しているような言葉も見られるが、読者に対して戦意を煽ったりするような文言はない。少なくとも本文に関しては、戦時色は皆無である。のちに本書は、中公文庫に入ったというが、未見。文章は平易にして明晰。多くの漢字にルビが振られていたが、その一部を【 】の形で再現した。〈 〉は、引用者による読みである。

  名人しん生 (一)
 初代〔金原亭〕馬生〈バショウ〉の門人で鈴々舎馬風【れいれいしやばふう】といふ、これはあまり大家【たいか】でも名人でも大看板〈オオカンバン〉でも無い中くらいの落語家が、ある席で「九州吹戻し」といふ、一席物をやつて居りました。近頃はあまり演【や】る者もありませんが、これは喜之助【きのすけ】といふ男が肥後の熊本から江戸へ帰る途中、大難風に出逢ひ、玄海洋〈ゲンカイナダ〉から薩摩の桜島へ、百二十里吹戻される話であります。然し何の芸でも同じですが、演者が巧くないと引立ちません。これを楽屋で聞いて居りましたのが、初代の古今亭しん生であります。しん生はどこから出たかと申しますと、前に述べました初代の三遊亭円生〈サンユウテイ・エンショウ〉に、多勢【おほぜい】弟子もあつた中で、円太〈エンタ〉と円蔵【ゑんざう】の二人が二代目円生たるべき候補者だつたところ、その二代目は円蔵がつぐ事になりました。面白からず思つた円太は、とうとう師匠のところを飛び出し、旅から旅へ流浪の人となりました末、七八年を経て弘化四年〔一八四七〕の秋、江戸へ帰つて来まして四谷の忍原亭〈オシハラテイ〉へ、古今亭新生【しんしやう】といふ名で看板をあげ、その後真生と文字を改め、更にしん生と書くやうになつた。これが即ち初代の古今亭しん生であります。この人俗称を清吉と申し小玉屋権左衛門といふ商家に、丁稚奉公をしてゐましたが、天性大の落語好きで、円生の門へ入りました次第、そのしん生は二代目円生に擬せられてゐた位ですから、勿論話は巧かつたところへ、七年間の旅修行で、苦労もした代りには鍛錬も出来みがきが掛つて一層上達、モウこの時代には落語も以前のやうな小噺【こばなし】でなく、話の風も一変し一席の長いものにまとまつた落語【らくご】となつてゐましたが、同時に続き物の人情話も歓迎され、真打〈シンウチ〉は必らずこの続き話をするものと極つてゐた有様、ところがしん生はその人情噺【にんじやうばなし】に妙を得てゐたのですから、忽ち名声隆々として上り、押しも押されもせぬ大看板【おうかんばん】とはなつたのであります。そのしん生が馬風の九州吹戻しを聞き、ぢつと考へて居りましたが、やがて下りて来た馬風に向つて、
「何と馬風さん、あの話を私に譲つてくれないかね。如何にも面白く出来た話だが、失礼ながら馬風さん、お前さんには向かないと思ふ。私にゆづつて演【や】らせて呉れゝば、もつと物にする事も出来やうと思ふが……」
 と交渉した。馬風は相手が大先輩のしん生だから、一も二もなく承諾して、
「大体私には、荷の勝ち過ぎてゐることもよく分つて居りましたが、師匠がやつて下されば結構でございます」
「さうかえ、では譲つて貰はふが、代はいくら上げやうねえ」
「イエいくらにも何にも、そんな御心配には及びません」
「イヤイヤさうでない。兎に角〈トニカク〉これを家業の種にするのだから、無代【たゞ】では私の気が済まない。兎に角気は心だから、軽少だが納めて下さい」
 と金千匹【びき】差出しました。唯今では、千匹などといつても通用しませんが、百匹が一分即ち二十五銭ですから千匹は二円五十銭、もつとも今日でも、華族さまなど格式いかめしき旧家では、恭々しく紙包【かみづつみ】にして相変らず、金一千匹などと、立派な文字も鹿爪【しかつめ】らしく、奉書水引〈ミズヒキ〉立派型にして出すところもあるそうです。粗々【そゝ】かしい奴は千円下すつたのかとびつくり仰天、大喜びであけて見ると五十銭サツ五枚でがつかりしたりする事もあると聞きましたが、何は兎【と】もあれその頃の二両二分ですから相当の額だつたに違ひありません。
「折角ですから、頂いて置きませう」
 と馬風も喜んでこれを納めましたが、かうして完全に取引が済んで見れば、しん生は其晩から、自分の物として口演してもいゝのですが、そこが昔の芸人軽率なことはいたしません。これから今日でいふ演出の工夫にとりかゝり苦心惨憺、寄席を休んでわざわざ下総〈シモウサ〉の銚子へ出かけました、今でも汽車で四時間かゝり、往復すれば一日仕事、況んや〈イワンヤ〉昔のことですから、船で行つても容易ではありません。しん生は銚子へつくと、海岸の漁村へ泊り、犬吠岬【いぬばうみさき】の巌頭に立つては、毎日毎日海を眺めて居りました。
 ○九州吹戻し 柳橋の裏河岸〈ウラガシ〉にきたり喜之助といふ男放蕩の揚句、借金の為め江戸を逃出し、流れ流れて肥後の江戸屋といへる旅籠〈ハタゴ〉の主人に助けられ、元来器用ものとて、料理の手伝ひ、歌三味〔唄・三味線〕の指南、座敷に出て取巻〔ご機嫌とり〕もなせし為、相当の貰ひもあり、足掛四年百両程の蓄財を得たるにぞ、江戸なつかしさに帰心矢の如く、取りて出立〈シュッタツ〉せしも、途中にて道に迷ひ、漸く江戸行きの便船に乗せて貰ひしが、大難風に出あひ、桜島へ吹きつけらる。即ち喜之助は主人の注意を聞かず、帰りを急ぎすぎし為め、百二十里吹戻されしといふ筋なるが、此男の浮沈を始め、出立前夜嬉しさの余りの空想独白、沿岸の風光説明等、達弁を要するむづかしき話なり。

 文中、「大難風」の読みは、おそらく「おおしけ」だと思うが、断定は避ける。注に「柳橋」とあるが、江戸時代は花街として知られていた地名である。「九州吹戻し」の主人公「きたり喜之助」は、この柳橋で、いわゆる「たいこもち」をしていたのであろう。

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十年かけてドイツの大家の作品を通読した

2018-04-23 01:31:30 | コラムと名言

◎十年かけてドイツの大家の作品を通読した

 この間しばらく、青木昌吉著の『独逸文学と其国民思想』(春陽堂、一九二四)という本を紹介してきた。では、この本の著者・青木昌吉〈アオキ・ショウキチ〉とは、どういう人物か。ウィキペディアには「青木昌吉」の項があるが、それほど詳しい説明はない。
 そこで、本日は、『独逸文学と其国民思想』の「序」を紹介してみたい。これを読むと、青木は、もともとドイツ語学者であり、ドイツ語文法を研究する必要上、当時のドイツ文学=「十九世紀のドイツ文学」を閲読しはじめたことがわかる。

 数年前の夏文科大学で公開講義が催ふされた時、私は「十九世紀の独逸の文学に現はれたる国民思想」と云ふ題目で講演を試みました。其際作つた原稿が本書の前身であります。私は其当時から遡つて大凡〈オオヨソ〉十年間は、専ら独逸語学の方面の研究に従事して居ました。私は文法書に就いて抽象的の規則を研究する普通の方法を避け、直接大家の作品を渉猟して独逸の文学に実際行はれて居る法則を研究する方法を取つたので、其当時私が精力を傾注したのは、十九世紀の独逸の戯曲小説の閲読でありました。十年間此研究法を継続して居る内に、私は十九世紀の独逸の三大戯曲家クライスト〔Heinrich von Kleist〕、グリルパルツエル〔Franz Grillparzer〕、へツべル〔Friedrich Hebbel〕の作品は勿論、十九世紀 独逸の小説の大家シユピールハーゲン〔Friedrich Spielhagen〕、ラーベー〔Wilhelm Raabe〕、エブネル・フオン・エツシエンバツハ〔Marie von Ebner-Eschenbach〕、ホンターネ〔Theodor Fontane〕等の小説は大抵読尽して了ひました。戯曲の方は数に於ても量に於ても、多寡が知れて思ますが、小説の方は浩瀚大冊のものが多く一部の小説が一冊千頁以上もの二三册から成つてるものが稀ではありません。夫故〈ソレユエ〉一人の大家の作品を悉く読破するにも仲々多くの時間を要します。況して〈マシテ〉 一世紀間に輩出した大家の作品を通読することは容易な業〈ワザ〉ではありませんが、私は暇に飽かして此等の戯曲小説の閲読に耽つて居る中に、独逸の国民思想とも云ふべき或物が朧げ〈オボロゲ〉ながら脳裡に浮んで来ましたので、手当次第に読む書物の余白へ、其折々に起る感想を書入れて置きまして、何時か一度は此断片的思想を纏めて見やうと思て居る矢先に公開講義の催〈モヨオシ〉があつて、当時の委員藤岡教授から講演を頼まれましたので、十年読書の結果を曲りなりに纏めたのであります。本書の起源が前述の如くでありますから、研究に欠陥不備があらうとは思ひますが、態ざと〈ワザト〉作つたものでなく、自然に出来た作品なることを諒として閲読し給はらんこと願ふ次第であります。
 大正十三年六月        著  者

 青木は、十九世紀ドイツの大家の作品を通読するのに、十年間をかけたと言っている。よく考えると、これは大変なことである。今日の(二十一世紀の)ドイツ文学者、ドイツ語学者で、二十世紀のドイツの大家の作品は、だいたい通読していると言える人がどれだけいるだろうか)。青木昌吉という学者は、まさにドイツ人に匹敵する「堅忍」精神の持ち主だったようである。
 文中に、「文科大学」とあるが、これは、東京帝国大学文学部の旧称。一八八六年(明治一九)三月から一八九七年(明治三〇)六月までは、帝国大学文科大学と呼ばれ、一八九七年六月から一九一九年(大正八)四月までは、東京帝国大学文科大学と呼ばれていた。青木昌吉が公開講義をおこなった年は不明だが、その時点では、まだ、「東京帝国大学文科大学」の旧称が用いられていたのかもしれない。
 また、「藤岡教授」とあるのは、たぶん、言語学者の藤岡勝二のことであろう。一九〇五年(明治三八)に東京帝国大学文科大学助教授、一九一〇年(明治四三)に同教授。 
『独逸文学と其国民思想』の紹介は、このあとも続けようと思っているが、とりあえず明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2018・4・23

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ドイツの母親の居間には大小の鞭が備えつけてある

2018-04-22 06:49:35 | コラムと名言

◎ドイツの母親の居間には大小の鞭が備えつけてある

 青木昌吉著『独逸文学と其国民思想』(春陽堂、一九二四)を紹介している。本日はその五回目。本日は、同書の第七章「独逸の婦人」から、第九節「独逸の小児」の全文を紹介してみよう。

  九、独逸の小児
 独逸人の筆に成つた日本の風俗習慣に就いての観察を述べた著者は随分沢山あるが、此等多数の著書の作者は、恰も〈アタカモ〉初めから申合せでもして置いたやうに、口を揃へて下のやうなことを言つて居る。『日本は小児の楽園である。日本の小児程親から可愛がられる小児は世界中にない、吾等は日本に滞在して居る間に、小児が両親に打擲〈チョウチャク〉されるのを見たり、小児が消魂ましく〈ケタタマシク〉泣き叫ぶのを聞いたりした例はない』此叙述は素より実際の事実とは雪泥の相違ある全然皮相の観察であつて、日常此叙述とは正反対の事実のみ見聞して居る吾等日本人自身には嘲笑的の皮肉としか聞こえない。況して〈マシテ〉私〔青木昌吉〕の如く貧乏長屋の近隣に棲んで居て、朝から晩まで山の神の呶嗚り散らす叱咜と、餓鬼共〈ガキドモ〉の揚げる悲鳴とに悩まされて居る者は、独逸人の此讃美に対して第一に抗議を申込みたいのであつて如何に贔屓目〈ヒイキメ〉に見ても、日本は小児の楽園であるとは思はれないが、然し夫れも比較問題で、小説に現はれて居る独逸の下層社会の小児に較べたら、日本の小児は嬉々として楽園に戯むれて居るやうであるかも知れない。エブネル女史〔Marie von Ebner-Eschenbach〕の小説『時計師のロツチ』〔Lotti, die Uhrmacherin〕の九頁に貧乏な煙管製造人に小児が大勢あつて、朝から晩まで兄弟喧嘩ばかりして居る。或日年嵩〈トシカサ〉の三人の兄弟が、窓の所で銘々最上の場席を占領しようと暫らく言争つた後、到頭取組合〈トックミアイ〉を始めた。すると二歳に成る幼児を腕に抱へた母親が其所へ駈附けて来て、今まで穿いて居た上靴〈ウワグツ〉を脱ぐよと見る内に、上靴を右手に取つて悪戯者の頭を目懸けて丁々と擲り始めたが、上靴は運命の神様の如く善悪正邪の差別なく、其所に居合せた凡ての小児の頭へ偏頗〈ヘンパ〉なしに落下するのであつた。また或小説に悪戯小児〈イタズラッコ〉を沢山持つてる母親の居間に、大小の鞭が幾個となく備附てあつて、年齢の長幼と悪戯〈イタズラ〉の大小とに従つて、巧みに鞭の使別〈ツカイワケ〉をするのを敏腕なる母親の誇りとして居ると書いてある。偖て〈サテ〉、斯〈カク〉の如き懲罰を当然受ける資格のある独逸の小児は、如何なる酷い悪戯をして居るかと、一寸と調べて見たが、腕白の男の児が大人の想像も及ばぬ程の思切つた悪戯や性質〈タチ〉の悪い揶揄〈ヤユ〉を演じて打興ずる〈ウチキョウズル〉のは、何所の国も同様で特に独逸に限つた訳でないから、此所には男の児の悪戯は省略し、姫御前〈ヒメゴゼ〉のあられもない悪戯の一例を紹介して置かう。服装からして活潑さうに見える独逸の少女は、悪戯をする点に於て敢て少年に譲らない。エブネル女史は其自叙伝なる『吾が幼年時代』(Meine Kinderjahre)に於て其実歴談を述べて曰く「或年のクリスマスの祭の少し前に、吾家〈ワガヤ〉の少女達が恰かも吾子〈ワガコ〉の様に可愛がつて大切にして居た人形が、突然姿を隠して一個も見当らない。余り不思議だと云つて、大勢の少女が彼方〈アッチ〉を探がし、此方〈コッチ〉を探がし、果ては女中が折角〈セッカク〉整然と片附けて置いた所までほじ繰り廻はし始めたので、女中が一時の方便に嘘を吐いて人形は皆んな窓下に店を出して居る果物商人の小娘が浚つて〈サラッテ〉往つたのだから、家の中を捜したつて見附かる訳がないと云つたので、少女等は怒ることか、怒るまいことか、幾等温順な母親でも小児を奪はれては残忍に成ると云つて、私〔エブネル女史〕を始め少女等は果物商人の小娘に対して残忍なる復讐を遂げることを誓ひ、黒いインキを二階の窓から流して小娘の顔を真黒に塗つて、貴めてもの腹癒〈ハライセ〉にしやうと決心した。私達は西班牙〈スペイン〉のアルマダ艦隊より尚強い必勝の確信を懐いて復讐戦に出懸けたが、頂度アルマダ艦隊と同一の運命に遭遇して、風雪等の自然力を向ふに廻はさねばならぬ羽目になつた。即千五百八十八年には太西洋に於て暴風が起つたやうに私達の出戦の日には風が荒れ軟かい雪の吹雪さへ加つた。私がインキ壺を持つて居る手を窓の外へ差出して、将さに〈マサニ〉復讐に取懸らうとする刹那、一陣の風が吹き来つて、窓翼を押へて居た妹の手から窓翼を奪ひ去つたが、窓から外へ差出して居る手を引込めてインキ壷の墜落を救ふ暇〈イトマ〉もあらせず窓翼は風に呻られて〈ウナラレテ〉直ちに打返へして来た。其所でインキは窓ガラス一面に漲り雨雪に混じて窓台から滴り落つると云ふ為体、私の白魚を並べた様な手の指は黒々とした悲哀の色を以て一面に掩はれて了つた。』

*このブログの人気記事 2018・4・22(9位に珍しいものが入っています)

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1863年に日本の隆運を予言したW・ラーベ

2018-04-21 00:09:40 | コラムと名言

◎1863年に日本の隆運を予言したW・ラーベ

 青木昌吉著『独逸文学と其国民思想』(春陽堂、一九二四)を紹介している。本日はその四回目。本日は、同書の第五章「独逸人の堅忍」から、第四節「読書界の堅忍」の全文を紹介してみよう。

 独逸の小説、殊に規模の宏大なる長篇の小説は一般に、短刀直入を好む気の早い吾等日本人には、興味の津々として起るまで我慢して閲読を設けることが頗る〈スコブル〉困難であるが、本家本元の独逸人自身が接近し難い詩人と云ふ折紙を附けてる詩人の筆に成つた小説は尚更〈ナオサラ〉然りである。十九世紀の中葉に健筆を揮つたラーベ(Raabe)の如きは其最も顕著なる一例である。某文学史家は『ラーベは接近し難い詩人の一人である。然し此接近し難い詩人が偶々、我慢強い読者の最も愛読する詩人と成るものである』と云つて居る。私は初めの内は半ばは娯楽のためにする小説の閲読にまで堅忍我慢を要求し、堅忍我慢の徳を積まなければ、読書の真の面白味が得られぬ様に言つて居る此批評家の言を可笑しい〈オカシイ〉ことと思つて居たが、私自身の経験に依つて、此批評家の言の決して偽りでないことを悟つた。私は数年前偶然ラーベの小説『飢餓牧師』(Der Hungerpastor)『雀小路の日記』(Die Chronik der Sperlingsgasse)及物語全集を手に入れて、何時か一度は読んで見る積りで、本箱の片隅に並べて置いて、少閑のある毎に、時々取出して彼方此方〈アチコチ〉読懸けて見たが、薩張〈サッパリ〉興味が起らないのに呆れて、何時も二三頁噛つた位で止めて了つた。所が或時ハインリヒ、シユピエロ〔Heinrich Spiero〕と呼ぶ評論家の書いた(Deutsche Geister)と題する論文集を繙いて、其内に載つて居る『詩人と政治』と題する論文中に『ヰルヘルム、ラーベと呼ぶ独逸の詩人は、真正なる予言者として、千八百六十三年に既に、日本の今日の世界的地位を予言した』と云ふことが書いてあるのを見て、未だ明治の世に成らぬ五十余年前の昔に日本の今日の隆運を予想したと云ふことは、仮令〈タトイ〉暗合であるにしても、面白いことゝ思ひ、此小説家の作物の内には、何か日本または東洋に関することが載つて居りはせぬかと云ふ好奇心に駆られて、再びラーベの小説を本箱の隅から取出して閲読することに成つたが、獨逸の文学史家が、接近し難い詩人と云ふ折紙を附けて置くだけあつて、初めの間は却々〈ナカナカ〉読み難かつたが、段々読んで居る内に此小説家の質樸な廻り遠い〈マワリドオイ〉書き振りに甚深〈ジンシン〉の興味を催ほす様に成り、また此小説家が世間に燦爛〈サンラン〉たる功績を挙げた成功者を謳歌するよりも寧ろ奇人と嘲られ〈アザケラレ〉変人と譏られて〈ソシラレテ〉世間からは仲間外れの待遇を受けて居る人々の陰徳を称揚することに心を用ゐて居る識見に感じ、嘗てはフライターグ〔Gustav Freytag〕の小説を写実派の上乗として愛読して居た私は小説家としての価値から論ずれば、ラーベの方がフライターグより一枚上ではないかとの疑問を起す様に成つた。一体読者が書物に対する関係は、吾等が友人に対する関係と同一である。世間には生来人附〈ヒトヅキ〉の悪い、迂闊〈ウカツ〉に話懸けでもすれば直ぐ剣突〈ケンツク〉でも呉れさうな恐ろしい顔をして居て、容易に接近し難いやうに見える人がある。所がさう云ふ人と、何等かの機会に言葉を交はし始めて、段段心中を話合つて見ると、案外物の道理が解つた親切な人で、一旦知己〈チキ〉に成ると一生離れることの出来ない親友と成る例は屡々あるが、ラーベの如き小説家の作物も其通りで、初めは容易に親近し難いが、一旦親近すするとまた容易に離れ難く成り、何遍でも繰返して読みたく成るのである。尚一つ独逸の詩人及読書界の辛抱強いことを示すものは、往復の書面の冗長で且多数であることである。文芸上の作品を評論するには、其作品の成立当時の作者の気分とか境遇とかを熟知しなければ、作品を真正に諒解することが出来ないと云ふので、作者が生存中、知己友人乃至は関係した婦人に寄せた書面、及此等色々の種類の人々から作者に寄せた書面を蒐集して一切合切〈イッサイガッサイ〉印刷に附することが、近代の文壇の流行に成つて居るが、独逸の詩人及学者の書面の冗長にして且饒多〈ジョウタ〉なることは驚く可き程で、此等の人々は、一生涯手紙ばかり書いて居たのではないかと思はれる位である。其内でもアレクサンデル、フオン、フンボルト〔Alexander von Humboldt〕は最も沢山手紙を書いた学者で、絶倫の精根〈セイコン〉を要すると云ふ場合に、「アレクサンデル、フオン、フンボルトの書簡を残らず暗記するに足る精根を捧ぐるを要す』(Es bedarf der Aufbietung einer Willenskraft, die hinreicht, um sämtliche Briefe Alexander von Humboldts auswendig zu lernen)と書いて居る人がある。独逸人は平生〈ヘイセイ〉長い手紙を読み慣れて居るので、小説なぞに長い手紙が挿入してあつても、読者が格別小言を云はないものと見えて、気の短かい吾等日本人には、到庭我慢の出来兼ねる程冗長な手紙が小説中に挿入してあることが往々ある。パウル、ハイゼ〔Paul Heyse〕の筆に成つた『浮世の人人』(Die Kinder der Welt)と越する小説に、エドヰン〔Edwin〕が最愛の妻に送つた手紙は活字に直して十六頁ある。幾ら最愛の良人〔夫〕の手紙でも斯う長くつては読飽きるであらう。

「堅忍〈ケンニン〉」というのは、昨今、あまり使われなくなった言葉だが、我慢とか忍耐といった言葉と、ほぼ同義である。青木昌吉によれば、ドイツの小説には、その面白さがわかるまで、読者に我慢、忍耐を強いるものがある。そして、この事実を以て青木は、「独逸人の堅忍」をよくあらわしているものだとするのである。
 ここで青木が挙げているラーベという作家については、その名前すら知らなかったが、ウィキペディアには、「ヴィルヘルム・ラーベ」(Wilhelm Raabe)の項があり、かなり詳しい説明がある(一八三一~一九一〇)。青木の説明を読むと、読者に我慢、忍耐を強いる作品ばかり書いているような先入観を抱くが、それが本当かどうかは、やはり一度、作品にあたって確かめる必要があるだろう。戦前の岩波文庫に、伊藤武雄訳『雀横丁年代記』が入っているというが、もちろん読んだことはない。

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