◎この国でいちばん勇気の要る行為
黒木創〈ソウ〉氏の「死者の月」という文章(『リアリティ・カーブ』岩波書店、一九九四、所収)について、もう少し述べる。この文章は、六つの文章から構成されている。順に、1 「自主規制」について、2 世界感覚について、3 英霊の〝不在〟について、4 ツクリモノについて、5 三つの憲法、6 死者の月、である。
昨日は、そのうちの5「三つの憲法」を紹介したわけである。ちなみに、ここで「三つの憲法」とは、大日本帝国憲法、新憲法松本烝治草案、日本国憲法の三つを指していると思われる。
この「三つの憲法」のあとに、6「死者の月」が置かれている。ここで、黒木氏は、元長崎市長の本島等〈モトジマ・ヒトシ〉について言及している。これも少し、引用してみよう。
この国でいちばん勇気の要る行為は、座が白けるようなことをそれと知っていて言うことですね、とフィールドは本島市長に訊いている。「そう、そう」と市長は答える。
たしかに、天皇の死の直前に、市議会の答弁で天皇の戦争責任を認めることは、保守系政治家として最悪のタイミングだった。それは、文字どおり、何かの「座」を白けさせたのである。
だが、と、本島はいささか風変わりな反論を述べる。
「ぼくは天皇の戦争責任を言ったんだよ。新聞の社説はこの問題を取りあげるときはいつも、言論の自由についてしか言わない。」
本島は一九二二年、五島列島の小村で生まれた。村の三〇世帯すべてがカトリック、各隠れキリシタンの末えいである。本島の母は、「教え方」つまり神父の助手となるべく、村人の拠出金で教育を受けた女性だが、それには五、六年は結婚しないという条件がついていた。父親のほうは、自分の船を一艘もち、西瓜や魚などを佐世保の市場で売っている人物だった。隣村の大きなにすでに妻子があったが、本島の母たちが住んでいた村のほうが魚がよく獲れるため、いつもそこに来ていた。本島の両親が会ったのは一度きり。それによって生まれた子どもが、イグナチオ・ロヨラの洗礼名を与えられた彼である。父は村から追放され、母は「教え方」になれなくなった。その後、赤んぼうが一歳にならないうちに母は他家に嫁ぎ、彼は祖父母の家に残され、のちには叔母のもとで育てられた。
佐世保へ出て新聞配達をしながら高等小学校を終え、銀行の給仕、印刷所の文選工見習い、魚市場の魚箱の片付け、鍛冶工見習い、歯医者の書生と、転々と職を代えながら、行けるときには夜間中学に通い、ついには旧制高校に入学する。高校三年目に現役入隊。
あなた自身も、戦争をするのは正しいという考えに抵抗はなかったのかと、フィールドは訊く。
「ぜんぜんなかった。」
クリスチャンとして育ったという背景があっても?
「そりゃあ、天皇とキリストのどっちが偉いかって、訊かれましたよ。もちろん、天皇が神さまだなんて思ってはいなかった。わたしの育った五島列島じゃ、学校の勉強よりもキリシタンの公教要理を詰めこまれて、聖書をしっかり読まされましたからね。……でもほかの人はみんなそう〔天皇は神さまだと〕言うから、あえて否定しようとはしなかった。」
本島等長崎市長が、市議会で、「天皇の戦争責任はある」と発言したのは、一九八八年(昭和六三)一二月七日のことであった。
ここで、フィールドとあるのは、日本文学の研究者ノーマ・フィールドのことである。彼女は、一九八八年に来日し、昭和天皇死去の前後における日々を体験したという。
本島等が「カトリック」であることは知っていたが、「隠れキリシタンの末えい」であるとは、この文章を読むまで知らなかった。そうと知っていたら、当時、この問題に、もっと関心を抱いていたかもしれない。
さて、実を言うと、「死者の月」という文章(1「自主規制について」から、6「死者の月」までの文章)を読みながら、どうも、その趣旨がつかめなかった。しかし、この6「死者の月」にいたって、いくらか、つかめたような気がした。要するに黒木氏は、「この国でいちばん勇気の要る行為は、座が白けるようなことをそれと知っていて言うことです」ということが、言いたかったのではないだろうか。