礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「待てッ」と加藤高明の馬車を止めた兼康固堂

2018-04-03 01:51:03 | コラムと名言

◎「待てッ」と加藤高明の馬車を止めた兼康固堂

 月刊誌『うわさ』通巻一六八号(一九六九年八月)から、山雨楼主人(村本喜代作)による「宝珠荘の偉人②」という文章を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した箇所のあと、改行せずに、次のように続く。

 兼康〔兼康固堂〕は私〔村本〕と知り合ってから間もなく歿したが、名古屋藩士で幼い頃寺小屋〔ママ〕に通って手習いを教わった隻眼〈セキガン〉の壮士が、大和十津川〈トツガワ〉で戦死した松本奎堂〔一八三二~一八六三〕だったというので、よくその頃の事を話して、
「松本奎堂といっても子供の頃のことで、ただの手習師匠だという印象以外には残っておりません。槍の達人で、若い時片目を失ったため、その悪い方の眼にはいつも目やにがついていた。その目やにを指の先でこすっては机の端へつけるのが汚なくて、そんなことはよく覚えております」と、面白い昔話を聴かせてくれた。
 兼康はまた加藤高明〔一八六〇~一九二六〕の若い頃の先生で、加藤を三菱の婿に世話したのも彼であった。加藤は最初強硬に反対して、「人生ふ馬となる勿れ」などと嘯いて〈ウソブイテ〉いたが、兼康は愛弟子の前途のためを思って強引に話を纏めてしまつた。ところがその後兼康が途中で馬車に乗って意気揚々として走って来る加藤に出逢った。
「待てッ」と一喝した兼康は、矢庭に馬車馬〈バシャウマ〉の鼻面を押えて車を留めた。
「貴公、この態〈ザマ〉は何だ。貴公等まだまだ馬車に乗るのは早い。増長しちゃアいかん」と叱った。馬車から飛び降りて来た加藤は、
「申し訳ありません」と素直に頭を下げて謝ったということである。兼康が歿してから、田中〔光顕〕のところには執事というものがなく、すべて中村邨子が家事一切を切り廻していた。
 昭和四年〔一九二九〕六月二十九日、田中が八十七才の時、朝野の名士が発起して東京の青山会館〈アオヤマ・カイカン〉に田中光顕伯慰労会を催したことがあった。青山会館は田中の雅号青山〈セイザン〉に因んだものである。内閣総理大臣田中義一も来会して、祝辞を述べていたが、途中で総理の姿が見えなくなったと思ったら、内閣総辞職の号外が出て、街頭には鈴の音がガランスガランと鳴っていた。この式場で徳富蘇峰が起って祝辞を述べたが、蘇峰は田中光顕の一番豪いところは、一生を通じてその性格、信念を変えなかったことであると賞賛した。宴席では招かれて私は田中のすぐ傍〈ソバ〉に座ったが、この時一人の老女を紹介して、
「薩摩藩というものは決して自藩のものを殺すというようなことはしなかった。西郷〔隆盛〕は三度流刑〈ルケイ〉されたけれど、命はとらなかった。ところがタッタ一つ例外がある。それは寺田屋騒動〔一八六二〕に関係した田中河内介〈カワチノスケ〉とその子瑳磨介〈サマノスケ〉の両人は、薩摩へ送する船中で、重臣中山忠左衛門の命を受けた柴山景綱〈シバヤマ・カゲツナ〉という男に殺された。今日わざわざ私の長寿を祝いにくれたこの婦人はその田中河内介の孫に当る人である」と話した。
 その後、程経てから田中を訪問すると、
「あの時君に紹介した田中河内介の孫娘のことについて、僕は心外に堪えんことがある。あの席上に一木〔喜徳郎〕(宮相)もおったからちょうどよい折だと思って、〝この老婦人はこういう来歴の人であるが、今は貧しい生活をしていて気の毒だから、皇后陛下に話して真綿を一と重ね貰ってあげてくれ〟と依頼して置いた。その後、ついでがあったから宮内省へ聞合せたところ、まだやってないという。何故早くやらんかと言ったら、〝いろいろ調べて見ましたが、そういう先例がないから困る〟と言いおった。この頃の宮内省というものは、実に困った連中ばかり揃っている。日本の皇室では、天子様は賞勲の権を握っておられるから、やたらに臣下に物をくれることはできない。しかし皇后陛下は日本国民の母である。誰れに何をやろうと規則もなければ制限もない。往来にいる乞食爺にさぞ寒かろうと言って真綿をやっても、一向差支えないばかりか、それが皇室と国民とのつながりなのだ」と憤慨していた。
 この話から思い出したのは、昭和三年〔一九二八〕御殿場の神山〈コウヤマ〉病院に対し、御内帑金〈ゴナイドキン〉が下賜されてその伝達式を県庁で行なった時、謝辞を述べた院長(フランス人)が、日本の皇室は羨ましい、特に皇后陛下が時折心にかけて新宿御苑の名花を届けて下さって、吾々の労をねぎらわれる彼の〈カノ〉広大無辺の慈愛には、心から感謝の涙が湧いて来ると述べたのを思い出し、成程これは田中の憤慨するのも無理はないと思った。【以下、次回】

 文中、「三菱の婿」とあるのは、加藤高明が、岩崎弥太郎の長女・春路〈ハルジ〉と結婚したことを指す。なお、「人生ふ馬となる勿れ」の「ふ馬」は、駙馬と書く。「貴人の女子の夫」という意味である。加藤高明の教養の高さをうかがわせる。
 また、「内閣総理大臣田中義一も来会して、祝辞を述べていたが、途中で総理の姿が見えなくなったと思ったら、内閣総辞職の号外が出て」とあるのは、村本喜代作の記憶違いであろう。田中義一内閣が総辞職したのは、一九二九年(昭和四)七月二日である。「寺田屋騒動に関係した田中河内介」とあるのは、公家・中山忠能〈タダヤス〉に仕えた志士・田中河内介(一八一五~一八六二)のことである。田中は、忠能の娘・慶子〈ヨシコ〉が生んだ祐宮〈サチノミヤ〉(孝明天皇の子、のちの明治天皇)の教育係を務めたことで知られている。ちなみに、田中は、薩摩藩邸に出入りしていたが、薩摩藩士ではない。「御殿場の神山病院」というのは、一八八九年(明治二二)に、フランス人のテストウィード神父が、駿河郡富士岡村神山に開設したハンセン病療養所である。正しくは、神山復生病院。日本に現存する最古のハンセン病療養所である。一九二八年(昭和三)の時点では、レゼー神父が、院長(第五代)を務めていた。

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