礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『新篇路傍の石』(1941)における「文字の使用法」

2013-01-10 06:22:29 | 日記

◎『新篇路傍の石』(1941)における「文字の使用法」

 山本有三の『新篇路傍の石』は、一九四一年(昭和一六)八月、岩波書店から刊行された。この本の巻末には、吉田甲子太郎〈ヨシダ・キネタロウ〉による「あとがき」が付されており、その最後のほうに次のようにある。

 最後に、ちよつと申しそへておきたいことは、この作品に於ける文字の使用法その他についてであります。著者は、「新篇路傍の石」に着手する前に、「戦争とふたりの婦人」を出版し、その「あとがき」のなかで、原則として、ふりがなを廃止したいといふ意見を発表しました。それは國語尊重、漢字制限、送りがな法等にもつながりのあるものであつて、國語國字問題に重大なる意義を持つものと思ひます。そして、その意見は、著者の場合にあつては、単なる意見ではなくて、同時にまた實地におこなつてゐることがらです。私はこゝにその解説をしてゐる余裕はありませんが、この作品のなかに書いてある文字づかひは、上記の心がまへから出発してゐるものであるといふことだけを、こゝに一言しておきます。

 すなわち、山本有三は、この『新篇路傍の石』においても、『戦争とふたりの婦人』(岩波新書、一九三九)と同じく、山本独自の「文字の使用法」を採用しているのである(『戦争とふたりの婦人』における「文字の使用法」については、昨年一一月三日のコラム参照)。
 ただし、吉田甲子太郎の「あとがき」に関しては、旧来のままである。争・廃・発・単・余といった漢字も、原文では旧字を使用している。

 続いて、本文から引用してみよう。ここでは、主人公・愛川吾一の父・庄吾が、若いころ、「村もみ」にあったことについて述べている部分を引用してみよう(二一六~二一七ページ)。

 祖父は彼〔庄吾〕の十五の時に死んだ。所帯が大きいので、十五の彼には、まだ家を切りもりして行くわけにはいかなかった。それで親類の者が後見人になった。維新のどさくさまぎれに、この後見人が財産をごまかしたことは、あとになって分かったが、その当時は衣食になんの不自由もなかったから、庄吾は「若だんな様」と立てられて、いゝ気になって暮らしていた。
 しかし、この若だんな様が十八の夏に、村もみにあった。「村もみ」といふのは、村びとから受けとる一種の制裁である。その夏は日照りが続いて、地割れがするほど、イナ田に水がなくなってしまった。百姓たちは氏神(うぢがみ)さまに祈ったり、お寺にあま乞ひを頼んだりしたが、なかなか雨が降らなかった。そこで村かたの者は、一同そろって、おほ山さまにあま乞ひに行くことになった。愛川のところにも、その回状がまはってきたので、庄吾も出て行かないわけにはいかなかった。ご一新前であったら、この村の郷士(がうし)として、百姓ふぜいと同席するいはれもなく、百姓の取り締まりである名ぬしでさへも、はるかに眼下に見くだしでゐたのだから、もとより、そんなものに加はるわけはないのだが、時勢がすっかり変はってしまったので、もう昔のやうなことはいってゐられなかった。けれども、おれのうちは、百姓なぞとは身分がちがふんだといふ考へがどうしても抜けないから、わらぢをはいて、彼らといっしょに、三里もあるおほ山さまに歩いて行くことは、バカくさかった。彼はちんじゅ様の森で勢ぞろひをした時には顔をだしたが、途中からそっと姿を隠してしまひ、うちへ帰ってひる寝をしてゐた。神佛に頼まうが、頼むまいが、降る時には降るし、降らない時には降らないのだと、彼はあふ向けに寝そべってゐた。ところが、これが問題になって、おほ騒動が持ちあがった。もし、このとき雨が降ったら、それほどの事もなかったのだらうが、百姓たちが最も信仰(しんかう)してゐるおほ山さまに祈願をしても、あいにく、ひとつぶの雨も落ちてこなかった。さうすると、村びとたちは雨の降らない責めを、みんな庄吾になすりつけてしまった。村かた一統のお願ひといふのに、庄吾がずるけて行かなかったから、おほ山さまがおこって、雨を降らさなかったのだ、さういふいひがかりをつけて、村民はどやどやと愛川の家に押し寄せてきた。「小せがれをだせ。」「なまけ者をだせ。」とわめきながら、彼らは門や家をぶちこはしにかゝった。後見人はみんなの前に出て、ひらあやまりにあやまったが、たけり狂ってゐる村びとはなかなか承知しなかった。仲裁する人があって、庄吾はやっと袋だたきにされることだけはまぬがれたけれども、そのかはりに愛川の家では米三十俵と、二十両の金を村民の前にださなければならなかった。

 内容もなかなか興味深いが、ここでは、「文字の使用法」に注目してみよう。
 かなづかいは、基本的に「旧かなづかい」のままである。ただし、促音では、小さい「っ」が用いられている。
 漢字は、基本的に旧字のままであるが、「所帯」の「帯」、「帰って」の「帰」などは、「新字」を採用している。また、「いゝ気になって」の気は、ここでは「気」と表記しておいたが、原文では、「氣」でも「気」でもなく、「米」、「メ」の部分に「ノ」が入る試行的な活字が用いられている。こうした試行的な活字は、同書には、これ以外にも何種類か見られ、、たとえば、「來」は、今日の「来」ではなく、「耕」の左側部分になっており、また「銭」は、金偏を除いた右側部分になっている。
 さらに、読んでおわかりのように、極力、漢字を使わぬよう努めている形跡がある。「若だんな様」、「百姓ふぜい」、「ちんじゅ様」などである。「イナ田」、「あま乞ひ」、「おほ山」、「おほ騒動」を、それぞれ「稲田」、「雨乞ひ」、「大山」、「大騒動」としなかったのは、振りがなに頼らずに、読みを指定しようとしたものであろう。
「氏神(うぢがみ)」、「郷士(がうし)」、「信仰(しんかう)」とあるのは、原文のままである。「振りがな廃止」の方針に従って、このような形で読みを示しているのである。
 というわけで、この『新篇路傍の石』もまた、『戦争とふたりの婦人』と同様、国語表記の歴史の上では、貴重な資料のひとつである。さいわい『新篇路傍の石』には、日本近代文学館とほるぷ出版の企画による復刻版(一九七九)があり、入手は比較的容易である。

今日の名言 2012・1・10

◎「村もみ」といふのは、村びとから受けとる一種の制裁である

 山本有三『新篇路傍の石』(岩波書店、1941)に出てくる言葉。同書の主人公・愛川吾一の父・庄吾は、若いころ、「村もみ」と呼ばれる制裁を受けたことになっている。上記コラム参照。

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