◎ソ連を刺戟するようなことをするな(昭和天皇)
この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月二〇日の日記を紹介する。
なお、この「近衛日記」は、同年七月二四日の記事が、最後の記事である。
二十日朝
松平〔康昌〕秘書官長より電話あり「岡田〔啓介〕大将も事情判明、賛成せり」と。
(付期、後刻聞くところによれば、阿部〔信行〕大将は、昨夜、賛意を表せるにかかわらず今朝に至り断然反対せる由)
同日午後二時三十分
鈴木貞一〈テイイチ〉中将来訪
鈴木氏いわく
東條〔英機〕と寺内〔寿一〕を入れ代えなかったのは大失策だ。寺内を現地から呼べるかどうか東條に聴いたのは取り返しのつかぬ大失策だ。東條を東京に置くことは禍根をなすであろう。早くも重臣の陰謀など言い触らし、部内の東條反対者まで、そういうことを言っている云々。
小磯〔国昭〕内閣の流産、東條内閣の居据わり、大命再降下等々を夢み、策謀に狂奔しおるものの如し。
同日午後四時
宮中西溜の間において重臣会議開催
これは新首相と重臣との間に組閣前において、十分懇談の機会を作るために開催せられたるなり。小磯大将は同四時過ぎ着京、羽田空港より直ちに参内、まず内大臣〔木戸幸一〕と懇談す。やがて重臣会議列席中の米内〔光政〕大将を呼び、小磯、米内両大将相伴いて御前に参進、
両人協力して組閣せよ。
との大命を拝して退下、西溜の間に来りて小磯大将より挨拶す。
ただ今陛下より二人に組閣の大命が降下致しました。なお、陛下より、憲法を尊重せよ、ソ連を刺戟するようなことをするな、との御言葉がありました云々。
(註、ソ連云々の御言葉は恐らく、いわゆる皇道派の内閣割込防止の御思召にあらずやと拝察せらる。今日、どこにもソ連を刺戟せんと欲する馬鹿はあらじ。むしろ憂とするところは外務、陸軍、大東亜各省とも、親ソ空気充満し、如何にせば対ソ媚態【びたい】可能なりやとほとんど媚態【びたい】を競う有様なり。随【した】がって、此の御言葉は恐れながら全く時局に適応せず。結局、皇道派を抑止すること以外考え得べからず)
小磯大将の挨拶終るや、木戸内大臣、
米内君は重臣会議の模様は御存じだが、小磯大将は重臣と十分御懇談を願いたい。
と、特に予〔近衛文麿〕の方を向き、
此の間の話は重要と思うから、ここで話されたら如何。
と慫慂【しようよう】し、原〔嘉道〕枢密院議長も、
極めて重要だから、小磯大将の耳に入れて置かれたらよかろう。
と促す。予もまた、一言し置きたく思いしも、陛下の対ソ云々の御言葉を聴き、変な気持になりたれば、
此の際は一刻も早く組閣を急がれたがよかろう。いろいろ心配していることもあるが、それをいうと一時間もかかるばかりでなく、他の重臣はすでに聞いておらるることであるから、今はやめておく。組閣後一、二時間を割愛してくれられるなら、その節お目にかかってお話したい。此の際は早速組閣に着手せられることを希望する。
というに止め〈トドメ〉たり。かくて小磯、米内両氏は一同に挨拶を済ませて、まず退席す。予と平沼〔騏一郎〕男両人は居残り、赤問題は平沼男も心配していることなれば、予より「予も話さんと思えど、貴下は特に小磯と懇意なれば、よく話してもらいたし」と依頼し、
皇道派から人を採ることは、思想問題その他の点から観て、此の際必要と思う。陛下の御言葉もあるから、あるいはむずかしいかも知れぬが……。
というや、男は「同感だ」と言い、
荒木〔貞夫〕か柳川〔平助〕を採ることを組閣中でも会って話してみよう。
という。
かくて男と袂【たもと】を分ち、最後に内府と会見す。内府いわく
東條がなお万々一策動するなら、呼びつけて御言葉を賜わることにしよう。海軍の要望は米内海相、末次〔信正〕部長【ママ】ということに一致しており、米内もその積りらしいが、 陛下は絶対に末次がおきらいだ。今、そんなことをいうと米内の意気が阻喪【ママ】するか ら言えないが、今に米内は板挟みになって困るだろう。これが今から頭痛だ云々。
注1 大東亜省 【略】
注2 柳川平助 【略】
近衛文麿という人物には、どうも不可解なところがある。自分の発案による「連立内閣」が実現したにもかかわらず、小磯国昭に対して、その趣旨を説明することを保留し、「一刻も早く組閣を急がれたがよかろう」などと言っている。
昭和天皇の「ソ連を刺戟するようなことをするな」という言葉が気になって、「変な気持」になっていたからだという。近衛の解釈によれば、昭和天皇のこの言葉は、組閣の際、皇道派を入閣させるなという意味らしい。この解釈が妥当なのかどうか、いま判断がつかないが、この段階にいたって、皇道派の入閣にこだわっている近衛の神経を疑う。喫緊の課題は、戦争の終結であって、皇道派の復権ではない。はたして近衛には、そういう自覚があったのか。
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