◎これで私も一人前になりました(焼け出された隊員)
浜松空襲・戦災を記録する会編集・発行『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、高橋国治の「防空監視隊副隊長として」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
昭和十七年〔1942〕四月十八日、午後零時三十分頃から、帝都を中心とする京浜地区をはじめ、中京方面、阪神方面の各地は米機の初空襲をうけた。それをきっかけに米機は来襲しはじめた。十九年〔1944〕一月隊員の制服が決定した。
十九年十一月からマリアナ諸島からの米機B29の本土空襲は定期的にはじまった。
敵機B29は富士山を目標に進入し、本県〔静岡県〕上空から目的地に進路を変えるために、ほとんどが浜松上空を通過するので通報は忙しい。「一番御前崎、零時十八分、敵大型三機、高度三〇〇〇、北へ進行中――」
ついで各監視哨からの電話が一斉に鳴りひびき、九台の電話機が忙しい。
浜松市も十九年十二月、中島町〈ナカジマチョウ〉・向宿町〈ムコウジュクチョウ〉を皮切りに二十七回にわたる被害をうけた。
隊員の家庭も大部分が戦災をうけ焼け出された。「これで私も一人前になりました。これからは、心おきなく働けます」と悲壮な合言葉をかわすようになった。
各家ごとに防空壕を作り、防火用水を備え、砂袋やバケツ、火叩き〈ヒタタキ〉、ムシロなどを用意し、防空頭巾や鉄カブトをかぶり、女はモンペをはいた。隣組で防空監視・防火訓練が行なわれた。早朝から在郷軍人、青壮年に、夕方は婦人団体が竹槍訓練の日課であった。私は毎日指導にあたった。
昭和二十年〔1945〕に改まった正月二日間は、敵機来襲はなかったが、三日から又始まった。
中島飛行機製作所近くに爆弾が投下された。
B29は青空高く銀翼をかがやかせて飛行雲を白く長くひいて悠々と飛行して行く。
友軍の迎撃する高射砲弾も届かない超高度のため、アレヨ、アレヨと眺めるばかり――。敵機来襲は毎日二、三回定期便のようにやってくる。【以下、次回】
1942年4月18日の「初空襲」とは、いわゆる「ドーリットル空襲」のことである。
ドーリットル空襲については、当ブログでも、何度か採りあげた。「松尾文夫氏、ドーリットル空襲・隊長機を目撃」(2015・8・19)、「積極防空の隙をついたドウリットル空襲」(2017・6・22)、「松村秀逸『大本営発表』(1952)のウソ」(2017・6・27)など。ご参照いただければ幸いである。
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