◎「乞食」の言葉で自殺を思いとどまった上田操
元・大審院判事の上田操は、戦後、すべてを失って自殺を考えていたとき、日比谷公園にいた「乞食」に話しかけられ、自殺を思いとどまったという。この話も、野村正男『法曹風雲録』下巻(朝日新聞社、一九六六)に出てくる。
――終戦の頃はほんとうにいやな思い出ですね。
「私には一物もないでしょう。家内はないでしょう、子供も戦争の為に支那の奥地にゆくし、また戦災で怪我したり、その上に一万円余の退職金も封鎖されるし。恩給は僅かばかりでしかも支払われないので食べてゆくことができなくなりました。しようがないので、これははなはだお恥ずかしい次第ですけれども、色紙に絵を描いて日本橋の友人の店を借りて進駐軍の将校たちに売ったのです。ところがこれが割合よく売れましてね」
――人生のどん底時代ですね。
「当時のことを思い出しますとたしかに行詰ってどうにも生きてゆくことがむずかしいという状態でした。その頃三笠宮の奥方の親御さんと私は懇意でありましたのですが、その人が採集箱を持って秩父の山奥で野たれ死〈ジニ〉をしたことがありました。また私の学習院時代の恩師で憲法の清水澄〈トオル〉先生、あの先生が熱海の錦ケ浦で飛込んで死なれました。私はこうした事件に強いショックをうけましたのです。そんなことを考えまた行詰った自分の身辺のことを考えているうちに、私はいっそ死んでしまおうかと思うようになりました。その頃の或る日、ちょうど秋でした。私は日比谷公園のベンチでじっと考えていたら、〝モシモシ〟という人があってね。それが乞食なんですが、立派な恰幅の人で、〝あんた死にやせんか、死ぬ気になっているのじゃないか〟というので、〝そのとおりです〟〝どうもあんたの様子はただごとではない。私は戦前満州で大官であった、あんたも役人かなにかやっていたろう〟というのです。〝わしは大官であったけれども着のみ着のまま、妻子もみんな亡くなってしまい、ボロボロの姿で日本に帰って来たときには、もう同僚は偉くなって相手にしてくれない。それで私は、こんなことをしていてはいかんと思って断然身を落した。そして乞食になった。そうしたら食うものは銀座の裏に行けばたくさんあるし、寝るに不足はないし、金は共同便所のところに行くと落ちている。それで、金はあるし食べることや寝るのに不自由はない。どうだ君もひとつ決心せんか、そんなことをしておったらいのちがないぞ〟というのです。それで一週間目に返事をするという約束をしたわけです。ところが、その約束をした晩かその翌晩のこと、寝ていたら夢で、なにか神様みたいなものが出て来て、〝お前は乞食になる必要はない。お前は絵を描いて生抜け〟というお告げみたいたものがあったのです。それで私はガバッと起きて、戦前いつも色紙を買ったりなんかしていた店が護国寺のわきに焼け残ったのがあったので、そこへ行って、そのときに千円しかもっていなかったですよ。そのうち六百円出して筆や墨や紙や絵の具やを買おうとしたら、そこの主人が〝こんな金いらん〟というのです。しかしそれを無理に受取らしてそれらの材料を買って来て、その晩から暗い電気の下で絵を描いたのです。その乞食の人にはとうとう会いに行かなかったのです。それが一つの大きな転機になりましてね。描けば一枚で百円取れるのですからね」
――街頭で。
「街頭というよりも、友人の計理土の小さい事務所が空いていたんで、そこの一室をただで貸してもらっていたのです。当時OSS〔Overseas Supply Store〕が白木屋百貨店にあって、そこへ通ってくる進駐軍の海軍の将校に買ってもらったのです。みんな大学ぐらいは出たような人々で、墨絵で富士山をかけとかバラや百合の花をかけと言うのですよ。そのうちに〝明日出発するから五枚かけ〟とかいうことになり、だんだん多くなってなんともしようがなくなってしまったのです。私も疲れるし、電気は暗いし、目が疲れてしまうので、しまいにはとうとう廃業しましたけれどもね」
上田操は、小学校時代から近衛文麿と親しく、京都大学時代は、原田熊雄・木戸幸一と同じ下宿だったという。
文中に出てくる清水澄は、高名な憲法学者で、最後の枢密院議長。日本国憲法施行の年に、「幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス」などの言葉を残し、投身自殺した。
今日の名言 2013・6・14
◎どうだ君もひとつ決心せんか、そんなことをしておったらいのちがないぞ
元・大審院判事の上田操が自殺を考えていたのを見抜いた「乞食」は、上田にこう話しかけたという。上記コラム参照。