礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大槻文彦による『広日本文典』と『言海』

2013-06-18 11:53:57 | 日記

◎大槻文彦による『広日本文典』と『言海』

 昨日の続きである。山田孝雄〈ヨシオ〉は、その著書『国語史要』(岩波全書、一九三五初版)において、大槻文彦〈オオツキ・フミヒコ〉の業績を高く評価している。
 なお、山田孝雄もまた、すぐれた国語学者であるようだが、まだその代表作を読んだことがない。『国語史要』を読み、簡潔にして明晰な文章を書く人だという印象を持った。独学によって研鑽し、ついに名を成した人のようだが、その武器は、ことによると、その明晰な文章にあったのはないだろうか。

 本書〔大槻文彦『広日本文典』一八九七〕はかくの如く欠陥が少くないものであるけれども、大局から見れば、その範疇の名目は西洋文典によつたけれども、実質は国語の特性を破ることなく、従来の研究の要をつくして組織した功は認めねばならぬ。顧みれば、鶴峯〔戊申〕以来西洋文典の組織に目を奪はれ模倣をなし、折衷を試みて来たこと、ここに六十余年、はじめて国語をそこなふことの少い折衷文典を得たと評すべきである。而して、その前後に於いて国文法の本が多く出たけれど、本書に及ぶものなく、本書が出てからは本書の影響を受けないものは稀である。その間文部省は明治十九年に英国人チヤンバレンを聘して東京大学に於いて国語の講義をさせ、又日本小文典を編纂させて明治二十年に文部省から出版したが、別に反響を起すことも無くて立消〈タチギエ〉の姿となつた。これはそれが国語の本質に触れないものであるから、当然の事である。
 大槻文彦の国語学の業績は広日本文典よりも言海の上に存するであらう。この書は真正の意味に於ける国語辞典のはじめといふべきものである。抑も〈ソモソモ〉本邦の辞書は上にいふやうに倭訓栞〈ワクンノシオリ〉ではじめてその整つたものを見たといふべきものであるけれども、その名を倭訓栞といふ通りに国語をば漢字の付属物の如くに見るといふ弊が無いでも無かつた。倭訓栞前後の他の辞書は既に述べたが、明治時代に入つては先づ文部省に於いて日本辞書編纂の企てがあり、編纂寮の事業として之を行つたが、二三年で中絶した。その時に成稿したものは「あいう」の部だけだつたと見えて、それを語彙と名づけて出版したのが、「あ」の部五巻は明治四年十一月に「い」の部五巻「う」の部二巻は明示十四年五月に刊行せらた。かの語彙別記、語彙活語指掌といふのはこの語彙の付録としたのである。その後、明治八年三月に文部省は大槻文彦を召して新に辞書を編纂させたのであるが、その功を卒へたのは明治十七年十二月であつて、その稿本が言海なのである。その後明治二十一年に至り、文部省からその稿本を下賜せられ、私著として出版することを許されたから明治二十年から出版して、明治二十四年に到つて完成した。これより先、明治十年には物集高見〈モズメ・タカミ〉の日本小辞書といふもの一冊、明治十八年に近藤真琴の「ことばのその」五冊、明治二十一年に物集高見の「ことばのはやし」一冊、又高橋五郎の和漢雅俗いろは辞典といふやうなものも出たが、いづれもその規模の上、取材の上、組織の上などから見て、不十分と評しなければならないものであつた。言海はい上数書の後に出たものであるけれども、その体例の整うてゐる点、その解釈の確かな点等で、それらを凌駕したもので、辞書らしい辞書が本邦に在るのはこれをはじめとする。ただ、語数の少いのと、例証を省いてある点との二は大きな欠点といはねばならぬ。しかしながら、言海は昨今までも国語辞書の標準と目せられてゐる。

*昨日のコラム「森有礼の国語全廃論と馬場辰猪の国語擁護論」は、アクセスが多く、歴代8位でした。「馬場辰猪の国語擁護論」については、若干、補足したいと考えています。

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家康が知っていた倭国年号 (いしやま)
2013-12-16 23:11:59
最近珍しい書籍を教えてもらいましたので、ご存知かもしれませんが、紹介します。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て、日本語教科書を作るため、茶道を含む、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。
興味深いことに、この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、倭国年号から大和年号に継続する522年善記からの年号が記載されています。この頃あった、古代からの日本の歴史についての考を知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、家康はこの倭国からの王朝交代を知っていたはず。明治以後にはこの歴史認識は失われてしまった。日本大文典のこの内容は、ウィキなどにも出ていないようです、もう既に見ていますか。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年日本紀と 日本書紀 は別物という考証があります。
宜しくお願いします。
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