説教要旨とみことば

いのちの冠福岡教会の礼拝説教の要旨と聖書のことばです。

2016年9月18日 説教要旨

2016-10-11 23:24:59 | 説教要旨
2016年9月18日 説教要旨 
ローマ人への手紙7章1~6節

1節で、「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか──私は律法を知っている人々に言っているのです。──」と律法の範囲について言っています。律法とはモーセの十戒を中心とした神の戒めです。旧約時代は神と人との関係は律法を通して結ばれていました。律法によって裁かれ、罪に対してはいけにえを捧げるという形で罪の赦しを受けてきました。しかし、旧約時代に生きていた人でも死んだら、律法は生きている間の取り決めですから、律法は効力を失うことになります。どこの国の法律でも人は死んだら法の裁きからは解放されます。私たちも死んだら解放されます。聖書は私たちがイエス・キリストの十字架を信じた時に、罪の赦しを受けるのですが、同時にちがう言い方をしています。「罪に対して死んだ」「世に対して死んだ」「自我に対して死んだ」と言っています。信じた時にキリストと一体となり、十字架で死んで、律法の裁きから解放されたのです。2~3節は夫と妻の関係について同じことが語られています。妻は夫が生きている間は夫と結ばれていますが、死んだら律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。4~6節それと同じように、私たちもキリストの体によって、律法に対しては死んでおり、他の人、死者の中からよみがえった方と結ばれて神のために実を結ぶようになったのです。つまり、私たちは信じる前は律法という夫に結ばれており、その制約の中にありましたが、よみがえられたキリストと結ばれてまったく違う支配の中に生きるようになったのです。私たちはもう、行いによって神に裁かれることはありません。ですから、信仰によって受け取り、そのような歩みをする時に新しくされた実質が現わされてきます。ただ、救われても、肉によって歩む(自分の力で律法を全うしようとする)こともできますし、御霊によって歩む(信仰を用いる、祈り、感謝、悔い改め、聞き従う、等)こともできます。御霊によって歩みましょう。


2016年9月11日 説教要旨

2016-10-08 23:23:55 | 説教要旨
2016年9月11日 説教要旨 
ローマ人への手紙6章12~23節

5節で私たちはキリストに継ぎ合わされたと言われています。キリストという罪の無い方(神)が、私たちの罪の身代わりに十字架のかかって死んでくださり、よみがえられたことを信じる時、私たちはキリストに継ぎ合わされ、一体となったのです。(キリストという台木に接ぎ木された)私たちは自分の外側を見ると救われた後も変わらない部分や性格があり、それを見て変わっていないと思うことがあります。しかし、本質は全く変わっており、神の前に罪に死に、新しいいのちに生かされているのです。そのことを信仰によって受け取ること、信じることは重要です。その信仰の歩みの中で、新しく生かされた者としての実質がより現わされてきます。(14)私たちは律法の下にではなく、恵みの下に生かされているということを語っています。律法から言えば、私たちは罪人であり、永遠の滅びに定められた者です。しかし、信仰によってキリストの贖いの恵みの中に入ったので、罪によって裁かれ、支配され、滅びに向かう歩みから解放されたのです。律法の支配から、恵みの支配に移されたのです。例えば、私たちは失敗をする者ですが、恵みの中を歩む時に主は建て上げて下さるのです。罪を悔い改め、すべてを感謝し、神に従っていく時、失敗したことさえも益に変えて下さり、神の栄光を現わす者としていってくださいます。(15~)パウロはここで、恵みの下にあるのだから、罪を犯そうという間違った教え、屁理屈に対し、絶対そんなことはないと否定しています。神は罪を赦して下さいますが、罪の中をあえて歩んではいけないのです。人間はいつも何かの奴隷です。神から離れ、自由だと言いながら罪の奴隷となってしまうのです。十字架を信じてからは、従順の奴隷、義の奴隷になりました。そのことを自覚する必要があります。そして、私たちには罪を選ぶことも、御霊に従う歩みをする選択が与えられています。これは支配の原則があるので、選択の最初に神の方を選ぶということが重要なポイントです。