2016年12月18日 説教要旨
ローマ人への手紙9章25~33節
(25~26)旧約の時代から神は異邦人を救う計画をもっておられたことをホセア書からパウロは教えています。私たちをもあわれみの器として選んで下さったのです。
(27~29)イスラエルについては残された者だけが救われると書かれている通り、イスラエルの歴史においては、いつもわずかの神を信じ従う人々を通して神はイスラエルを導いてこられました。イスラエルは神に対して頑なになってしまいました。(ただ、イスラエルには神の手がおかれており、最後の再臨の時、イスラエルは待ち望んでいた救い主がイエス・キリストであることを悟り、救われます)
(30~32)イスラエル人は律法が与えられていましたが、それは人には守れないこと、自分が罪人であることに気づき、神の恵みにより頼み、キリストの救いに導くものでしたが、彼らはかえって律法を自己流に行うことに熱心になり、自分の知恵と力によって歩むことをやめませんでした。それで完全な律法であるイエス様が来られたときに、逆につまずいて十字架にかけて殺してしまいました。それに対し、異邦人は信じ受け入れ救われていきました。イスラエル人は「信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」
(33)彼(イエス・キリスト)に信頼する者は失望させられることがないとあります。私たちが神を信じ、神のことばを信じて従うときに失望しない結果が起こります。困難や問題が許されたときも、祈り、すべての事を感謝し、従っていくときに具体的な神の業をみます。ただ、信頼しない(信仰を用いない)時に生ける神の業を見ることができません。小さな事にも信仰を用いていきましょう。小さなことで信仰の解決を受けることは重要です。それは大きな問題の解決の原則と変わらないからです。
小さなことも大きなことも神には同じであり、簡単だからです。