2015年9月20日 説教要旨
使徒の働き16章25~41節
パウロとバルナバは冤罪によって訴えられ、何度もムチで打たれて奥の牢に入れられてしまいました。しかし、その場所で彼らは主に祈りつつ賛美の歌を歌っていました。彼らも肉体を持ち、感情もありますから、理不尽な仕打ちに対する思いはあったと思いますがその感情に従うのではなく、そこで主を認め信仰を用いていきました。
信仰を用いるというのは感情や思索がどうであってもみことばに従って対応することです。
また、彼らは二人でそのことをしていきました。私たちも共に祈る人、賛美する人をもちましょう。それによって神が働かれ私たちの信仰は強まるのです。また、教会で共に祈り、賛美することは強力な神の力を見ていくことになります。
そして彼らが賛美した時、囚人たちが聞き入っていました。神の臨在がそこにあったのです。すると突然、地震が起こって牢のとびらが全部開いて、くさりが解けてしまいました。神の力が解き放されて奇蹟が起きたのでした。
看守は囚人が逃げてしまったものと思い、自殺しようとしますが、パウロが大声でそれを止めました。誰も逃げていなかったのです。看守はあり得ない状況に驚いて、思わずひざまずき、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と聞き、ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と答えます。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語り、全員が救われ、バプテスマを受ける事ができました。リバイバルが起こったのです。さっきまで支配する者と支配される者との関係でしたが、神の前に一人の人間として出て、救われるためにはどうしたらよいと救いを求めるようになること、これがリバイバルで
す。これから世界において、日本においても福岡においても私たちの身近な人たちにもこのことが起こってきます。すでにリバイバルは始まっていますが、目に見える形で顕著に多くの人々の救いが起こってきます。信仰を用いて主に従っていきましょう。
使徒の働き16章25~41節
パウロとバルナバは冤罪によって訴えられ、何度もムチで打たれて奥の牢に入れられてしまいました。しかし、その場所で彼らは主に祈りつつ賛美の歌を歌っていました。彼らも肉体を持ち、感情もありますから、理不尽な仕打ちに対する思いはあったと思いますがその感情に従うのではなく、そこで主を認め信仰を用いていきました。
信仰を用いるというのは感情や思索がどうであってもみことばに従って対応することです。
また、彼らは二人でそのことをしていきました。私たちも共に祈る人、賛美する人をもちましょう。それによって神が働かれ私たちの信仰は強まるのです。また、教会で共に祈り、賛美することは強力な神の力を見ていくことになります。
そして彼らが賛美した時、囚人たちが聞き入っていました。神の臨在がそこにあったのです。すると突然、地震が起こって牢のとびらが全部開いて、くさりが解けてしまいました。神の力が解き放されて奇蹟が起きたのでした。
看守は囚人が逃げてしまったものと思い、自殺しようとしますが、パウロが大声でそれを止めました。誰も逃げていなかったのです。看守はあり得ない状況に驚いて、思わずひざまずき、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と聞き、ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と答えます。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語り、全員が救われ、バプテスマを受ける事ができました。リバイバルが起こったのです。さっきまで支配する者と支配される者との関係でしたが、神の前に一人の人間として出て、救われるためにはどうしたらよいと救いを求めるようになること、これがリバイバルで
す。これから世界において、日本においても福岡においても私たちの身近な人たちにもこのことが起こってきます。すでにリバイバルは始まっていますが、目に見える形で顕著に多くの人々の救いが起こってきます。信仰を用いて主に従っていきましょう。