一ヶ月以上放置していたとはどういう了見か。(For自分)
感想を書きたいCDなどは山とある。
それにもかかわらず、音楽について書くことを躊躇させるものがあった。
以下数行、CDの感想の前に、読者の方にはまったく意味不明であろう、この躊躇のことを書こうと思う。
この躊躇というのは、
『具体的な言葉』で音楽を説明することに対する「抵抗感」というか「喪失感」である。
換言すると、言葉を駆使すればするほど、言葉ですくい取れなかった部分が自分の中からこぼれ落ちていく感じ。
また、自分の言葉によって、自分の感じたものが曲げられていくようないやな感覚。
音楽は、本来言葉では表現できないことを表現するものであり、そこに言葉ですくい取れない部分があることは承知の上で感想を書いていた。
感想として、嘘を書いたことは一度もないが、「何かが違う」という感覚が日増しに強くなってきた。
あいまいな、もやっとした感覚を、無理に言葉に整理してしまうことが恐ろしくなってきたのである。
あいまいな部分、言葉で整理できなかった部分にこそ、音楽の重要な部分があったのではないか。
せっかく音楽から受け取った重要な部分を、あっさり言葉でふるい落としていないだろうか。
このような、音楽から得たものを自分で無にしているのではないかという恐ろしさである。
ということで、今後は無理にあいまいな感覚を言葉に置き換えるのではなく、あいまいなところはあいまいなまま受容しつつ、感想を書こうと思う。
この結果、感想が以前より抽象的になるが、この点ご了承いただきたい。
意味不明かつ神経質な駄文失礼。
以下はいつも通りの音楽感想である。
久しぶりの佐野広明氏の音楽CD『そよ風の中で』の感想である。
といっても、これまた古いCDの発掘(?)で、データベースを参照すると、発売日は「1997年」となっている。
『殻の中の小鳥』というゲームのファンディスク、『小鳥の羽飾り』に付属しているCDである。
以前から所有していて、過去の記事にも名前を出したことがある。
『殻の中の小鳥』の音楽のアレンジ6曲と、オリジナル曲2曲の計8曲が入っている。
やはり佐野広明氏の音楽は、自分にとって、他の作曲家では代替できない唯一無二のものである。
曲の雰囲気は種々あるが、一通り聴いて感じるのは、繊細な作りだなという印象。
儚げでありながら、しっとりとした楽曲群は、非常に好みである。
6トラック目の『追想』などは、
しっとりとした雰囲気の中に感傷的なニュアンスがあって、実に自分好み。
加古隆氏の『風のワルツ』のような楽曲が好みの方は、ツボに入るのではないか。
そして特に素晴らしいのが、このCDのタイトルを冠された『そよ風の中で』という曲。
曲調自体は、壮大でありながら、爽やかさ・涼やかさを持ち合わせた感じのもの。
『そよ風の中で』というタイトル通りの雰囲気を持った楽曲。
感情をむやみに煽り立てることのない、ヒーリングミュージック等の作りに近い音楽である。
にもかかわらず、この音楽は、なぜこれほどまでに儚く、哀しく、そして美しいのだろうか。
これはもう、まさに他の作曲家では代替困難な作りの曲である。
BGMというと、ともすれば感情をあおり立てるような、あるいは、感動させんという意識が露骨に表れた曲が散見される。
これが悪いとは言わないし、自分自身そういう曲で好きなものも数多くある。
しかし、そのような曲を繰り返し聴いていると、軽く食傷気味に思うことも事実である。
これに対し、この『そよ風の中で』という曲は、こうした楽曲とは対照的な音楽をやっている。
「叙事的」「間接的」というのだろうか。
たとえば、木々は季節によって色を変えるが、それは我々の心を動かすためのものではない。
しかし、そのような新緑や紅葉を見て、美しいと思う自分がいる。
『そよ風の中で』という曲を聴いていると、それと似たような感覚を受けるのである。
感情を煽られなくても美しいと感じる、一種「間接的」な部分の大きい音楽。
佐野氏の曲の中でも、その部分がかなり前面に出た楽曲に感じる。
(本CDが普通のサウンドトラックではなく、自由度の高い「イメージアルバム」的に構成されていることも影響しているのだろう。)
しかし、これが他では得難い魅力であり、非常に美味なのである。
悲しい曲は数あれど、これほどに第三者的なニュアンスを持ちながら、
心に訴える音楽を作る作曲家は、自分の知る限り(少なくともゲーム業界では)佐野広明氏だけである。
彼を「『なのは』の音楽の人」という認知だけで終わらせるのは、あまりに勿体ないと思う。そんなCD。
感想を書きたいCDなどは山とある。
それにもかかわらず、音楽について書くことを躊躇させるものがあった。
以下数行、CDの感想の前に、読者の方にはまったく意味不明であろう、この躊躇のことを書こうと思う。
この躊躇というのは、
『具体的な言葉』で音楽を説明することに対する「抵抗感」というか「喪失感」である。
換言すると、言葉を駆使すればするほど、言葉ですくい取れなかった部分が自分の中からこぼれ落ちていく感じ。
また、自分の言葉によって、自分の感じたものが曲げられていくようないやな感覚。
音楽は、本来言葉では表現できないことを表現するものであり、そこに言葉ですくい取れない部分があることは承知の上で感想を書いていた。
感想として、嘘を書いたことは一度もないが、「何かが違う」という感覚が日増しに強くなってきた。
あいまいな、もやっとした感覚を、無理に言葉に整理してしまうことが恐ろしくなってきたのである。
あいまいな部分、言葉で整理できなかった部分にこそ、音楽の重要な部分があったのではないか。
せっかく音楽から受け取った重要な部分を、あっさり言葉でふるい落としていないだろうか。
このような、音楽から得たものを自分で無にしているのではないかという恐ろしさである。
ということで、今後は無理にあいまいな感覚を言葉に置き換えるのではなく、あいまいなところはあいまいなまま受容しつつ、感想を書こうと思う。
この結果、感想が以前より抽象的になるが、この点ご了承いただきたい。
意味不明かつ神経質な駄文失礼。
以下はいつも通りの音楽感想である。
久しぶりの佐野広明氏の音楽CD『そよ風の中で』の感想である。
といっても、これまた古いCDの発掘(?)で、データベースを参照すると、発売日は「1997年」となっている。
『殻の中の小鳥』というゲームのファンディスク、『小鳥の羽飾り』に付属しているCDである。
以前から所有していて、過去の記事にも名前を出したことがある。
『殻の中の小鳥』の音楽のアレンジ6曲と、オリジナル曲2曲の計8曲が入っている。
やはり佐野広明氏の音楽は、自分にとって、他の作曲家では代替できない唯一無二のものである。
曲の雰囲気は種々あるが、一通り聴いて感じるのは、繊細な作りだなという印象。
儚げでありながら、しっとりとした楽曲群は、非常に好みである。
6トラック目の『追想』などは、
しっとりとした雰囲気の中に感傷的なニュアンスがあって、実に自分好み。
加古隆氏の『風のワルツ』のような楽曲が好みの方は、ツボに入るのではないか。
そして特に素晴らしいのが、このCDのタイトルを冠された『そよ風の中で』という曲。
曲調自体は、壮大でありながら、爽やかさ・涼やかさを持ち合わせた感じのもの。
『そよ風の中で』というタイトル通りの雰囲気を持った楽曲。
感情をむやみに煽り立てることのない、ヒーリングミュージック等の作りに近い音楽である。
にもかかわらず、この音楽は、なぜこれほどまでに儚く、哀しく、そして美しいのだろうか。
これはもう、まさに他の作曲家では代替困難な作りの曲である。
BGMというと、ともすれば感情をあおり立てるような、あるいは、感動させんという意識が露骨に表れた曲が散見される。
これが悪いとは言わないし、自分自身そういう曲で好きなものも数多くある。
しかし、そのような曲を繰り返し聴いていると、軽く食傷気味に思うことも事実である。
これに対し、この『そよ風の中で』という曲は、こうした楽曲とは対照的な音楽をやっている。
「叙事的」「間接的」というのだろうか。
たとえば、木々は季節によって色を変えるが、それは我々の心を動かすためのものではない。
しかし、そのような新緑や紅葉を見て、美しいと思う自分がいる。
『そよ風の中で』という曲を聴いていると、それと似たような感覚を受けるのである。
感情を煽られなくても美しいと感じる、一種「間接的」な部分の大きい音楽。
佐野氏の曲の中でも、その部分がかなり前面に出た楽曲に感じる。
(本CDが普通のサウンドトラックではなく、自由度の高い「イメージアルバム」的に構成されていることも影響しているのだろう。)
しかし、これが他では得難い魅力であり、非常に美味なのである。
悲しい曲は数あれど、これほどに第三者的なニュアンスを持ちながら、
心に訴える音楽を作る作曲家は、自分の知る限り(少なくともゲーム業界では)佐野広明氏だけである。
彼を「『なのは』の音楽の人」という認知だけで終わらせるのは、あまりに勿体ないと思う。そんなCD。