ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「現代中国女工哀史」

2011-08-03 07:45:54 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「現代中国女工哀史」という本を読んだ。
著者は中国系アメリカ人のレスリー・T・チャンという女性であるが、ウオールストリートジャーナル紙の記者というだけあって非常に優れた筆力である。
昨年の1月に発刊された本で、まだ新しくその頃から大きな本屋さんの書棚には並んでいた。
手にとってみて、読みたいなと思っていたが、金2800円が年金生活の身には容易ならざる金額で、とうとう自分の金を投ずることはなかった。
英語圏で活躍している中国人女性には実に素晴らしいジャーナリストがいる。
数年前に読んだ『マオ』、あるいは『ワイルド・スワン』のユン・チャン女史などもそういうグループに入るのであろうが、作家という枠組みを超えて、中国の国益を擁護するという意味で、英語圏で活躍する中国女性の存在というのは実に目を見張るものがある。
この本の標題も日本語では『現代中国女工哀史』となっているが、原題は『Factory Girls』であって、我々のイメージからすれば、やはり女工哀史がもっともマッチした訳なのであろう。
「女工哀史」というフレーズから、私の個人的なイメージとしては、どうしても「ああ!野麦峠」を思い浮かべるが、21世紀の女工はとてもそういう時代とは様変わりしている。
しかし、その様変わりの現実の中にも、昔から全く変わらない部分と、大きく変わった部分が混在しているところが非常に興味あるところである。
この本、実に分厚く、読みでのある本であったが、その中には今の中国の現実が余すところなく記されている。
現実の今の中国の人々の本音の部分がそのまま記されているが、その姿は、やはり中国人固有の生き方を踏襲しているように見える。
やはり21世紀の中国の人々も、過去5千年の歴史を引きずりながら生きているように見えてならない。
その内容の大部分は、香港、深圳の近くの東莞という町の工場で働く女子工員に密着取材して、彼女たちの生態から今の中国の普通の市民の深層心理を解き明かそうとしたものである。
東莞という町そのものが、改革開放政策の流れの中で、経済特区に指定され、外国資本による新しい産業基盤の整備にあてがわれた場所なので、完全なる市場経済の自由競争の場になっている。
その分、人々は、自分の才覚で以て生存競争を生き抜く修羅場を演じているわけで、それは我々の国が明治維新から太平洋戦争に敗北するまでの経済発展をわずか半世紀の間に濃縮したようなものである。
我々が100年掛けてやってきた事を、わずか25年でそれと同じことをなそうとしているわけで、そのひずみは当然これから噴出するに違いない。
「女工哀史」というフレーズからは、私と同世代のものならば、「ああ!野麦峠」とか「蟹工船」を思い浮かべるであろうが、21世紀の中国の女工哀史は、それとは全くイメージが異なっている。
第一、携帯電話を皆が持っていて、それで情報交換しながらよりよい収入を目指して次から次へと転職するというのだから、我々のような思考のシーラカンスではついていけない。
全体の傾向としては、我々が過去に歩んできた道と同じに見えるが、その道を取りまく周囲の状況が全く異なっているので、同じに比較が出来ない。
ただそうは言うものの、この本を読んでいても、我々日本人と中国人では、ものの考え方が根本的に異なるなということは実感として迫って来る。
我々、日本人の戦後の復興期においても、中学を出たばかりの若年労働者の需要というのは、産業界に根強くあったわけで、それを学校も企業も、温かく送り出し温かく迎え入れたわけで、当人たちも最初の就職先で出来る限り努力することが暗黙の了解事項として横たわっていた。
ある意味で、社会全体がそういう「金の卵」を大事にして、家庭も、学校も、企業も、そういう人々を温かく見守ったと言える。
確かに、あの時期の労働が世間一般に過酷であったことはいなめないであろうが、当時はそれが当たり前であったわけで、それも徐々に解消されていったが、こういう人たちの待遇改善が結局のところ人件費の高騰という形で今跳ね返って来ているわけで、それが日本の工場が国内で成り立たないようになった最大の理由でもある。
その余波が、中国の東莞という町に代表される経済特区という形でシフトして行ったのである。
日本の戦後の復興期の「金の卵」と称せられた若年労働者の在り様と、この本で描かれている「ファクトリー・ガール」の在り様には、見事に民族の本質が露呈してしまっている。
この本の中には、日本のかつての「金の卵」に関するに記述は一言もないが、その実態を知っている我々からすれば、その対比は実に安易なことだ。
この本に描かれているファクトリー・ガールは、あどけない少女でありながら、最初から金儲けの階梯をかけ登る腹つもりで故郷を後にしているが、その動機は個人の野望を満たす為と割り切っているので、少しでも条件の良い職場があれば、安易に転職することを厭わない。
ところが我々の方の「金の卵」たちは、恐らく家を出るときには家族から「つらいことがあっても我慢するのだよ。主人には尽くしなさいよ」と言われて家を出てきていると思うが、その背景にある心情は日本人の連帯意識であろうと推察する。
ただただ自分の至福だけを追い求めるのではなく、社会に対する奉仕の精神、感謝の念を思い描いて生きよということを諭していると思う。
中国人は、同じように若い世代であっても、自己の意思で物事を決めているようだが、我々日本人は、純粋に自己の意思を貫き通すには、いくばくかの逡巡が残るわけで、そう単純に竹を割ったようには割り切れない。
我々は自分一人と思っても、自分の回りには家族や、友人や、会社の同僚や、学校時代の友達や、そういう目に見えない絆で結ばれていることを何となく意識していて、それらを綺麗さっぱり捨てきれない。
ところが中国人は、何処まで行っても自分は自分で、自分以外は何も信じられないわけで、ある意味で究極の個人主義に徹しきっている。
我々の発想では「友達の友達は友達だ」というフレーズに何の違和感も持たないが、彼らはこういうフラットな思考は決してしないようで、「個の確立」というと我々のイメージでは、自己の主張を確実に持った、自立した人格というイメージになりがちであるが、これは自分と相手を極端に際立たせる思考であって、相手と敵対することを是認した発想だと思う。
つまり、相手との差別化を毅然と宣言しているわけで、彼らの使う言葉の端々に、この差別意識が顔を覗かせている。
そのもっとも顕著な例が、地方の農民を蔑視する感情で、これは全ての中国人に共通して垣間見れることであるが、地方出身の農民を明らかに蔑視している。
あの中国の暗黒の10年と言われる文化大革命のとき、都会のインテリー層を下放と称して地方の農村に送り込んで、そこで農作業をさせた。
つまり、地方の農村で生きること自体が懲罰になっているわけで、こんなバカな話があるものかと私は思う。
確かに農作業というのは過酷な労働で、肉体労働をしたことのない都会のインテリーには、大いに懲罰の意味があるであろうが、ならば先祖代々その地で農業を営んできた人たちは、牢獄の中で生きていたということだろうか。
文化大革命の前に中華人民共和国が誕生した時に、都会の人と農村の人を分けて戸籍を作るという発想そのものが、完全なる差別意識の具現であって、民主主義を標榜する共産主義のテーゼと完全に矛盾しているではないか。
都会と農村、この間には同じ民族、同じ国民、同じ同胞という意識は最初から成り立っていないわけで、この二つの人間集団は、まるで外国人のような感覚で語られている。
私も本の前の人間という意味で、中国の実態を知る由もないが、この本から窺い知る範囲では、21世紀の今日においても、中国の田舎というのは2千年前と大して変っていないようにも見える。
確かに、テレビはどんな田舎にも浸透しているようだが、田舎にはそもそも最初から仕事が無いわけで、人々は何もすることがなく、ただ昼間からテレビを見ているというのだから、都会の人から蔑視されるのも、むべなるかなという部分はある。
2千年前の生活に、文明の利器としてのテレビだけが入り込んできたので、物質的な欲求は際限なく浸透して、それに伴う情報も人々の欲求を大いに刺激したにちがいない。
この道は、かつての日本が歩んだ道と同じであるが、我々は、それを自分の力量に応じて自らの欲求を満たしてきたが、中国人は自らの力量をいささかも勘案することなく、目一杯、一足飛びに実現すべく足掻いているようにみえるが、それはあまりにも過度な反応だと思う。
日本でも中国でも、15、6歳の若年労働者の思考が、その後の国の発展に大きな影響を与えるようになると思うが、その部分で余りにも個人主義が際限なく浸透すると、社会の粘着力が失われて、社会が壊れてしまうと思う。
我々の経験した戦後復興期の「金の卵」と言われた世代も、今はリタイアーの時期に達しているが、この人たちが戦後の日本の経済を立ち上げた主役であったことは間違いない。
この人たちがあの時代に頑張ったので、日本は高度経済成長を達成し得たのであるが、それは同時に人件費の高騰を招き、結果として今の中国に工業生産の基軸がスライドしたということだ。
世の中というのは、内側も外側も同時に動いてしまうので、定点的に観測することが難しいわけで、そこを見極めるべき立場のものが、本来、学識経験豊富な知識人というものでなければならないが、こういう人たちは須らく学校秀才なわけで、実務においては何の役にも立たないのが現実である。
この本の著者が、一人の取材対象者の実家にまで密着取材で乗り込んでみると、そこに展開されていた状況は、まさしく2千年前の人間の生活と同じことが展開されていたのである。
狭い耕地にしがみつき、村の人間は全部親戚同士で、農業といいつつ自分の家族の食いぶちを得るのが精一杯の有り様で、貧乏人の子沢山の子供は、他の場所に出稼ぎに出て、その仕送りがなければ一族郎党が餓死寸前にまで落ちてしまうという有り様なのである。
家を出た子供が帰省しても、本人には家の仕事も村の仕事も何も無いわけで、結果として1日中何もせず、ただテレビを見て過ごすだけで終わってしまう。
何だか自分のことを言われているような感じがする。
しかし、こういう状況の中に携帯電話が入り込み、パソコンが入り込むとなると、我々の想像も出来ない社会になることになるが、果たして本当にここで書かれているように、中国の山間僻地にまで携帯電話の基地局が普及しているものだろうか。
それにパソコンの操作でも、田舎の中学出のものがそうそう安易にキーボードの操作が出来るものだろうか。
携帯電話にしろ、パソコンにしろ、その普及率には目を見張るものがあるとはいえ、そうそう誰でも彼でも手に出来るものではないと思う。
現代社会を論ずる際に、携帯電話やパソコンの存在を抜きには語れないと思う。
これの無い社会と、在る社会では全く違う社会だと思う。
こういう近代文明の利器が、中国における排日運動や、共産党批判、中国政府批判に直結しているというのは極論であろうが、大きなツールになっていることは確かで、こういうものが国民の底辺にくまなく普及した社会は、今まで人類が経験したことのない社会である。
中国の歴史は、北から攻め入る野蛮人を、万里の長城で阻止するという発想であったが、21世紀のIT技術は、そういう発想を根底から覆してしまったわけで、どんな遠方からでも意図も安易に言いたいことが言え、意見を表明出来るわけで、「人の口には戸が立てれない」ということが現実になってしまったということだ。
そういう目の前の現実はさておき、我々が考えなければならないことは、彼らのものの考え方であって、彼らはまさしく人を踏み台にしても自分が頭を出したいと願っているわけで、ただただ追い求めるものが自己の至福以外にないのである。
このバイタリテ―が中国人の特質になっているものと考えられる。
この本の中では、田舎から出てきあどけない少女が、如何にたくましく修羅場としての社会を生き抜くかという形で、個人の生き方としてそれを克明に描いているが、それはそのまま国家としての中国の在り方にも通じているわけで、中国という国家が世界という修羅場で如何に振舞って国益を維持するかという、国家の在り方そのものに現れている。
国家というのは個人の集大成なわけで、当然のこと、個人の生き方が国家の運営にもそのままの形で反映することは往々にしてあると思う。
中国という国の、国家としての立ち居振る舞いには、確実に中国人の個人としての立ち居振る舞いがそのままの形で表れている部分があるように見受けられる。
とにかく周りの人の存在など頭から無視して、当たり構わず大声でどなり散らして、自分の言いたいことだけを一方的に言い募って、自分の利益だけを声高に主張するという態度で、こういう態度は日本人の価値観からすれば一番下品で、卑しく、下劣な品位ということになっている。
我々日本人は、武士道という価値観を誇りに思っているが、彼ら中国人にはこういう誇りは中華思想であって、中国こそが世界で一番優秀な民族で、他のものはそれこそ夷狄という野蛮人であって、中国人を敬うのが当然だ、という価値感がぬぐい切れていない。
武士道の真髄は「謙譲の美徳」であって、人前で尊大な振る舞いをすることは、はしたない行為という位置付けであるが、中国には「謙譲の美徳」という価値観は存在しないので、相手に謙れば己の弱さを曝すことだと勘違いされかねない。
俗に「日本の常識は世界の非常識で、世界の非常識は日本の常識」と言われているが、私自身もつい最近までこれを日本の負のイメージとして認識していた。
日本の常識を世界の常識に合わせなければ、世界から爪はじきされると思い込んでいたが、この俚言は実に日本の優れた部分を表した言葉と最近考えるようになった。
世界に人種差別の撤廃をいち早く言い立てたのは我々日本であったし、あの未曾有の太平洋戦争の日本の眼目は、アジアの解放であって、それは今日のASEANの構想を先取りしたようなものであった。
まさしく我々の考えていたことは世界の非常識であったことになる。
同じく、戦前の日本の台湾や朝鮮の統治も、西洋列強の植民地経営とは全く異なった形態であったわけで、それこそ世界的視野で眺めれば非常識であったわけで、こういう我々の無意識の下の思考は、中国の人達には到底理解し難いことだと考える。
我々日本人には「謙譲の美徳」という概念があるので、口角泡を飛ばして議論する行為を、はしたない行為という認識がある。
以心伝心こそ、価値ある意思の疎通の極意だと思っているが、これはあきらかに時代錯誤であって、現代にマッチしていない上に、世界の非常識なので、そのために我々は非常に不利な立場に立たされている。
この本の著者の御祖父さんは、旧満州で共産党員か国民党政府軍か、そのどちらかに殺害されているので、御祖母さんに連れられて台湾に逃れ、そこからアメリカにわたっているが、こういう生き方の選択は我々日本人にはありえない。
明治維新のとき、幕府側に身を置こうとも新政府側に身を置こうとも、自分の立場が不利になったからといって、第3国に逃げようという発想は我々にはありえない。
ところが中国人は人の群れとして、マスでそういうことをしているわけで、それがいわゆる華僑と呼ばれる中国人の集団である。
外国に逃れ、その国に骨を埋める気でいても、それでも尚、自分が中国人、シナ人というアイデンテイテイ―を完全には捨てきれず、先祖がえりを願っている節がある。
この本の著者も、それを見事にこの作品の中で行っているわけで、自分が今現在ウオールストリートジャーナル紙の北京特派員という立場でありながら、自分のルーツ探しをしているわけで、その事は、自分の出自にいささかの未錬を引きずっているということなのであろう。
この本は実に良く書かれた本であって、今の中国人の生き方を隈なく言い表しているが、その中国人の生き方は、そのまま中国の国家の在り方と軌を一にしている。
人としての生き方に謙虚さが微塵もないわけで、ただただ目先の利益を追い回すのみで、他者に対する思いやりも無ければ、心配り、気配りも全く無いわけで、ただ自分さえ良ければ、後は野となれ山となれという態度が露骨に表れている。