例によって図書館から借りてきた本で「マンハッタン、9月11日」という本を読んだ。
言うまでもなく2001年、アメリカ、ニューヨークで起きた世界貿易センタービルにおけるテロ攻撃のことを記述したものであるが、あの事件に生き残った人の証言記録であった。
私はあの事件をテレビの映像で見て、紛れもなくテロ行為だと頭から信じていたが、最近になって、どうもそうではなさそうだという見解が、巷に溢れて出てきているように見受けられる。
アメリカのケネデイー大統領暗殺が1963年のことで、この映像も私はテレビで見た記憶がある。
この時は、確か、日本とアメリカの衛星中継の初日の出来事で、アメリカからどんなニュースが報じられるかという期待で待っていたように記憶している。
その最初の一声が、アメリカ大統領暗殺のニュースで、たまげた記憶があるが、そういういきさつであったので、後あとまでこのケネデイー大統領暗殺については興味を持ち続け、その後で出た「ウオーレン報告書」も、翻訳したものではあったが私なりに読んでみた。
この時は、最初の狙撃犯と言われたオズワルドも、警察署の前で狙撃されて死んでしまい、それを行ったジャック・ルビーという男も、また狙撃されるということで、結局のところ謎が謎をよんで、最終的にはわけがわからなくなってしまったようだが、事件が迷宮入りになるとCIAとかFBIの仕業ということになってしまうが、結論がそうなるということは、完全なる迷宮入り事件ということで落ち付いてしまった。
何でも訳のわからないことは、CIAとかFBIの仕業ということしておけば、整合性が維持できるということになりがちである。
しかし、単純な事件でも難しい理屈をくっつけて迷宮入りにしてしまう傾向があるようにも見受けられる。
そういう時の常套句が、「CIAかFBIの仕業」というフレーズを使うということだ。
この9・11事件でも、あの飛行機がビルに突っ込んで行く映像を世界中が見ていたにもかかわらず、「あの映像に不審な点がある」という言い分は、私に言わしめれば「風が吹くと桶屋が儲かる」式の何の根拠もない言い係のような気がしてならない。
もっともらしい説明を聞くと、何となくそういう風にも見えないことはないが、だからといって、それがCIAとかFBIの陰謀というのは何とも論理の飛躍のような気がしてならない。
この話題に関して、インターネット上にはあらゆる情報があふれ返っているが、そういうものを拾い読みすると、確かにあのビルデイングが下に沈みこむように崩れていく姿は、古いビルの解体工事のとき行われる爆破による解体の映像と酷似してはいる。
しかし、誰が何のために旅客機の衝突とタイミングを合わせてそんなことが出来るのか、という面で不可解な点も数多くあるではないか。
仮に、爆薬であのビルを瞬間的に解体したとしても、誰が何のために、という問いは残ったままだし、飛行機の突入に合わせてそれをするなどということは、どうしても考えれない。
世界貿易センターは過去にもイスラム系の原理主義者による自爆攻撃に曝されているわけで、イスラム原理主義者が、あのビルを狙う理由も甚だ不可解千万である。
イスラム原理主義者のいう論旨が、我々の常識では理解し難い面があることは否めないが、「アメリカがこの世で一番の強者だから気に入らない」と言い分は甚だ迷惑な話であって、そういう独りよがりな言い分が罷り取っているから、アメリカに抑圧される地位に甘んじざるを得ないのである。
聖戦などと称して自爆テロをすれば、天国で良い地位に招かれる、などというバカげたことを信じているからこそ、近代化に立ち遅れるのであって、彼らの精神を呪縛している宗教を捨てれば、それこそ精神的な自由に身を委ねられるが、ムスリムに精神を束縛されている間は、何処に住んでも不平不満はついて回るであろう。
不平不満というものは、如何なる人間にもある程度は付きまとうものであるが、その原因とか理由を他者の所為にするかしないかが宗教の違いだと思う。
イスラム以外の宗教は、個人の不平不満を内側に向けて、自己の内部で克服するように説くが、イスラム教徒は、それを他者の所為にするので、常に他者との諍いが避けられないのである。
アメリカの繁栄はアメリカ人が自らの力で築いたもので、昔の黒人奴隷のように他から無理やり持ってきたものではなく、アメリカ人の努力の賜物だと思う。
イスラム教徒は、彼らのテリトリーの中で、民主主義とか技術革新とか、宗教改革というような、西洋キリスト教文化圏が経験したような文化的な脱皮を経ているであろうか。
有史以来のイスラムの原理に忠実たらんと、21世紀に至っても、なおそれに固執していては、やはりキリスト教文化圏の合理主義には対抗できずに、格差はますます広くなっていくと思う。
彼らは、テロの手段としては、キリスト教文化圏の文明の利器を最大限利用するにもかかわらず、その利用目的がただただ人殺しのみに限定されているではないか。
こんなバカな話があるかと言いたい。
如何なる宗教にも原理主義というのはあると思う。
自らの宗教の本質に忠実たらんとする人の塊は、あっても何ら不思議ではないが、そもそも宗教の本旨は、魂の救済なわけで、それを差し置いて他者を悪し様にののしり、他者の存在を否定するような思考が、宗教たり得ないではないか。
自分の隣に哀れな者がおれば、救済の手を差し伸ようという思考は、あらゆる宗教の基底に流れていると思うが、それを否定するような宗教は、宗教たり得ないではないか。
自分の隣人を助けるという行為は、宗教の壁を乗り越えた、生きた人類の普遍的な愛だと思う。
生きた人間であれば、助けを乞う隣人には、自分の与えうるすべてのものを分け与える、というのが生きた人間の生の魂の声で、別の表現で言えばそれは「慈悲」という言葉だと思う。
ましてそれを日本人が考察するとなると、国際的な知的ゲームに参加するような印象を受ける。
この本は、旅客機がビルに突っ込んで、そのビルの崩壊で逃げ惑った人々の証言をあつめた作品であるが、ここで我々日本人とアメリカ人の根源的な潜在意識の相異が自ずから炙り出されている。
というのは、飛行機がビルに突っ込んで行くのを見て、その場にいたアメリカ人は「これは戦争だ!」と認識している点だ。
パールハーバーと同じだと認識している点である。
「だったら仕返しなければならない!」と自然の感情を抱いた点である。
今年の3月に日本も東日本大震災に見舞われて、多くの被害をこうむった。
中でも東京電力の福島第1原子力発電所の事故は、甚大なる被害を出して、5か月たった今頃ようやく避難地域の解除に漕ぎつけたが、こういう状況下で、我々同胞の愛国心というのは、実に貧弱なものだと思わざるを得ない。
というのも、野菜やその他の食べ物に対する風評被害とか、その地域からの被災者に対する差別とか、随分と自己中心主義の跋扈があちらこちらで散見された。
発災直後、被災地に救援物資を運ぶことさえ忌避したものがいたわけで、放射能汚染地域がそのまま伝染病に犯された地域と同じような感覚で、そこに行くことさえ拒むという行為は、無知と同時に、同胞愛に欠けた、人類愛に欠けた鬼畜並みの思考である。
こういう人間が我々の同胞というだけで、我々の仲間の中に居るというだけで、我が祖国の行く末が案じられる。
世の中には、捨てる神がいれば拾う神もいるわけで、人の苦難を見てその苦難を分かち合おうと言う人もいれば、人の苦難などに目もくれず、我が道を行くと言う人がいるとことは、世の東西を問わないと思う。
9・11事件の時のアメリカ人にも、当然、二種類の人間がいただろうと思う。
しかし、その時の状況を後世に伝えようとした時、人間の良い面を強調して伝えた方が、後に続く人々の為には良いことだし、語る方もそういう話題の方が語りやすいと思う。
人の醜い面、汚い面を言い募るよりも、良い面を語り継いだ方が、精神的にもストレスにならないと思うが、本来、憂うべき事は、悪い面をもった人の存在である。
自分の居るビルが今にも崩れ落ちるかもしれないという時に、我先に人のことなどいささかも顧みることなく、自分さえ助かれば、後のことは知ったことではない、と考える人も当然いると思う。
日本で起きた、東電の福島第1原子力発電所のメルトダウンで、放射能が周辺地域に飛び散ったので、その地域に救援に行くのは嫌だという思考も、突き詰めればこういうことなわけで、自分ではリスクをいささかも負いたくない、ということを正直に言っている。
大勢の中には、こういう人がいることは当然予想されることであって、我が身が何よりも可愛いいというのは、生きた人間の普通の真理であって、それは当然のことである。
しかし、人類の人類たる所以は、そういう自然の摂理、自然の感情、自然の動物的思考を人としての理性で以てコントロールして、自己愛よりも他者を愛する心情に価値を見出している点にある。
そういう考えをもった人を、動物並みの思考をもった人よりも価値ある人間として認めあっているわけで、野生動物並みの自己愛で固まった人には、人としての価値は皆無ということになる。
しかし、自然災害とか、テロの起きた現場で、我先に逃げ出す人が立派な人という評価はあり得ないが、中にはそういう人がいても何ら不思議ではない。
でも、あのビルに巨大な旅客機が突っ込む映像を見て、下から消防士が機材を担いで掛け上がって行く姿というのは、まさしく戦場に向かう戦士の姿そのものであるが、論理的に考えて、あれは太平洋戦争中の日本軍の特別攻撃隊、特攻隊の出撃と酷似しているように思えてならない。
100階以上もあるビルの真ん中あたりに旅客機が突っ込めば、当然火災が起きて、旅客機の燃料であるケロシンが流れ出し、炎は上から下に燃えだすと思う。
そういう状況下で、下から消防隊が制圧に向かうということは、送り出す方の頭の中には、ビルが崩落することも想定していたと思う。
火のついた航空燃料は、上から雨のように降って来る中に、ビルの中にはまだ生存者が一杯いるわけで、消防隊としてもビルが崩落することが判っていても、「危険だから」「自分がやられかねないから」といって傍観しているわけにもいかなかったに違い。
消防隊の指揮官は、恐らく苦渋の選択をしていたに違いなかろうと思う。
ただ個々の消防隊員は、全体の詳しい情報は持ちあせていなかったのではないかと想像する。
2011年に起きた東日本大震災における東電福島第1原子力発電所の事故も、明らかに危機管理の課題を呈しているが、我々の側には、そういう危機管理という意識が満ちていなかったのではないかと思う。
究極の危機管理は戦争であるが、9・11事件に遭遇したニューヨークッ子は、「これは戦争だ!」と直感的に考えたが、我々の被った東電福島第1原子力発電所の事故では、そういう認識は一切なかったわけで、こういう点に初動操作の遅れが現れたに違いない。
この場合、ニューヨークの9・11事件と違って、空から人間がばらばらと落ちてくるわけではないので、危機管理の意識が希薄であったとしても致し方ないが、統治する側に原子力事故の認識が甘かったことは否めないだろうと思う。
日本でもアメリカでも統治、あるいは行政といった場合、トップの人が万能でないことはいうまでもないことで、ある特殊な事例については、ずぶの素人以下のことも往々にしてあると思う。
しかし、そういう状況下においては、何もかも自分で采配する必要はないわけで、適当なべテラン、適任者に、権力を移譲させて、その人の采配に任せればいいわけで、そういうことも政治の絶妙な手練手管である。
判りもしないのに、何でもかんでも自分で采配を振おうとすると、ちぐはぐな対処療法になってしまうわけで、結果として統治の失敗ということに繋がってしまう。
この9・11事件では、アメリカ国民は全て愛国者になってしまったが、アメリカ国民が一致団結してしまえば、国連の決議よりもアメリカ国民の意向が優先してしまう。
あの9・11事件が陰謀だという説の根拠は、このアメリカ国民の意向を一つの方向に集約する、如何にもアルカイダのテロにみせて9・11事件を演出し、アメリカ国民の心を一つにして、イスラム原理主義者の集団を叩き潰す、という目的達成のために仕組まれたという論旨であるが、私個人としてはどうにも今一、信じがたい面がある。
旅客機を乗っ取ってビルに突っ込ませたのは紛れもなく正真正銘のアルカイダのメンバーであって、そういうテロリストにどうしてCIAやFBIが呼応しなければならないのか、甚だ不合理な論理ではないか。
またテロリストが、ビル爆破の手法でWTCのビルを破壊したとして、何故、旅客機の突入と同時にそれをしなければならなかったのか、甚だ不可解ではないか。
ただあのWTCのビルに旅客機が突っ込む映像は、世界の人が見ているわけで、そういう万人に公開された映像に対して、様々な講釈を付けることも、これ又容易なことだと思う。
ビルの崩落があまりにも見事で、誰かに仕組まれたとすれば、その手際は完ぺきに近いが、誰が何のためにそのように手間暇かけた演出をする必要があったのであろう。
2機の旅客機がビルに突っ込むだけで、テロの目的は十分果たしたことになるのではなかろうか。
奇しくも今年は2011年で、あの事件の日から数えて10周年目に当たるので、今年の9月11日にはそれにまつわる記念式典があるかもしれない。
言うまでもなく2001年、アメリカ、ニューヨークで起きた世界貿易センタービルにおけるテロ攻撃のことを記述したものであるが、あの事件に生き残った人の証言記録であった。
私はあの事件をテレビの映像で見て、紛れもなくテロ行為だと頭から信じていたが、最近になって、どうもそうではなさそうだという見解が、巷に溢れて出てきているように見受けられる。
アメリカのケネデイー大統領暗殺が1963年のことで、この映像も私はテレビで見た記憶がある。
この時は、確か、日本とアメリカの衛星中継の初日の出来事で、アメリカからどんなニュースが報じられるかという期待で待っていたように記憶している。
その最初の一声が、アメリカ大統領暗殺のニュースで、たまげた記憶があるが、そういういきさつであったので、後あとまでこのケネデイー大統領暗殺については興味を持ち続け、その後で出た「ウオーレン報告書」も、翻訳したものではあったが私なりに読んでみた。
この時は、最初の狙撃犯と言われたオズワルドも、警察署の前で狙撃されて死んでしまい、それを行ったジャック・ルビーという男も、また狙撃されるということで、結局のところ謎が謎をよんで、最終的にはわけがわからなくなってしまったようだが、事件が迷宮入りになるとCIAとかFBIの仕業ということになってしまうが、結論がそうなるということは、完全なる迷宮入り事件ということで落ち付いてしまった。
何でも訳のわからないことは、CIAとかFBIの仕業ということしておけば、整合性が維持できるということになりがちである。
しかし、単純な事件でも難しい理屈をくっつけて迷宮入りにしてしまう傾向があるようにも見受けられる。
そういう時の常套句が、「CIAかFBIの仕業」というフレーズを使うということだ。
この9・11事件でも、あの飛行機がビルに突っ込んで行く映像を世界中が見ていたにもかかわらず、「あの映像に不審な点がある」という言い分は、私に言わしめれば「風が吹くと桶屋が儲かる」式の何の根拠もない言い係のような気がしてならない。
もっともらしい説明を聞くと、何となくそういう風にも見えないことはないが、だからといって、それがCIAとかFBIの陰謀というのは何とも論理の飛躍のような気がしてならない。
この話題に関して、インターネット上にはあらゆる情報があふれ返っているが、そういうものを拾い読みすると、確かにあのビルデイングが下に沈みこむように崩れていく姿は、古いビルの解体工事のとき行われる爆破による解体の映像と酷似してはいる。
しかし、誰が何のために旅客機の衝突とタイミングを合わせてそんなことが出来るのか、という面で不可解な点も数多くあるではないか。
仮に、爆薬であのビルを瞬間的に解体したとしても、誰が何のために、という問いは残ったままだし、飛行機の突入に合わせてそれをするなどということは、どうしても考えれない。
世界貿易センターは過去にもイスラム系の原理主義者による自爆攻撃に曝されているわけで、イスラム原理主義者が、あのビルを狙う理由も甚だ不可解千万である。
イスラム原理主義者のいう論旨が、我々の常識では理解し難い面があることは否めないが、「アメリカがこの世で一番の強者だから気に入らない」と言い分は甚だ迷惑な話であって、そういう独りよがりな言い分が罷り取っているから、アメリカに抑圧される地位に甘んじざるを得ないのである。
聖戦などと称して自爆テロをすれば、天国で良い地位に招かれる、などというバカげたことを信じているからこそ、近代化に立ち遅れるのであって、彼らの精神を呪縛している宗教を捨てれば、それこそ精神的な自由に身を委ねられるが、ムスリムに精神を束縛されている間は、何処に住んでも不平不満はついて回るであろう。
不平不満というものは、如何なる人間にもある程度は付きまとうものであるが、その原因とか理由を他者の所為にするかしないかが宗教の違いだと思う。
イスラム以外の宗教は、個人の不平不満を内側に向けて、自己の内部で克服するように説くが、イスラム教徒は、それを他者の所為にするので、常に他者との諍いが避けられないのである。
アメリカの繁栄はアメリカ人が自らの力で築いたもので、昔の黒人奴隷のように他から無理やり持ってきたものではなく、アメリカ人の努力の賜物だと思う。
イスラム教徒は、彼らのテリトリーの中で、民主主義とか技術革新とか、宗教改革というような、西洋キリスト教文化圏が経験したような文化的な脱皮を経ているであろうか。
有史以来のイスラムの原理に忠実たらんと、21世紀に至っても、なおそれに固執していては、やはりキリスト教文化圏の合理主義には対抗できずに、格差はますます広くなっていくと思う。
彼らは、テロの手段としては、キリスト教文化圏の文明の利器を最大限利用するにもかかわらず、その利用目的がただただ人殺しのみに限定されているではないか。
こんなバカな話があるかと言いたい。
如何なる宗教にも原理主義というのはあると思う。
自らの宗教の本質に忠実たらんとする人の塊は、あっても何ら不思議ではないが、そもそも宗教の本旨は、魂の救済なわけで、それを差し置いて他者を悪し様にののしり、他者の存在を否定するような思考が、宗教たり得ないではないか。
自分の隣に哀れな者がおれば、救済の手を差し伸ようという思考は、あらゆる宗教の基底に流れていると思うが、それを否定するような宗教は、宗教たり得ないではないか。
自分の隣人を助けるという行為は、宗教の壁を乗り越えた、生きた人類の普遍的な愛だと思う。
生きた人間であれば、助けを乞う隣人には、自分の与えうるすべてのものを分け与える、というのが生きた人間の生の魂の声で、別の表現で言えばそれは「慈悲」という言葉だと思う。
ましてそれを日本人が考察するとなると、国際的な知的ゲームに参加するような印象を受ける。
この本は、旅客機がビルに突っ込んで、そのビルの崩壊で逃げ惑った人々の証言をあつめた作品であるが、ここで我々日本人とアメリカ人の根源的な潜在意識の相異が自ずから炙り出されている。
というのは、飛行機がビルに突っ込んで行くのを見て、その場にいたアメリカ人は「これは戦争だ!」と認識している点だ。
パールハーバーと同じだと認識している点である。
「だったら仕返しなければならない!」と自然の感情を抱いた点である。
今年の3月に日本も東日本大震災に見舞われて、多くの被害をこうむった。
中でも東京電力の福島第1原子力発電所の事故は、甚大なる被害を出して、5か月たった今頃ようやく避難地域の解除に漕ぎつけたが、こういう状況下で、我々同胞の愛国心というのは、実に貧弱なものだと思わざるを得ない。
というのも、野菜やその他の食べ物に対する風評被害とか、その地域からの被災者に対する差別とか、随分と自己中心主義の跋扈があちらこちらで散見された。
発災直後、被災地に救援物資を運ぶことさえ忌避したものがいたわけで、放射能汚染地域がそのまま伝染病に犯された地域と同じような感覚で、そこに行くことさえ拒むという行為は、無知と同時に、同胞愛に欠けた、人類愛に欠けた鬼畜並みの思考である。
こういう人間が我々の同胞というだけで、我々の仲間の中に居るというだけで、我が祖国の行く末が案じられる。
世の中には、捨てる神がいれば拾う神もいるわけで、人の苦難を見てその苦難を分かち合おうと言う人もいれば、人の苦難などに目もくれず、我が道を行くと言う人がいるとことは、世の東西を問わないと思う。
9・11事件の時のアメリカ人にも、当然、二種類の人間がいただろうと思う。
しかし、その時の状況を後世に伝えようとした時、人間の良い面を強調して伝えた方が、後に続く人々の為には良いことだし、語る方もそういう話題の方が語りやすいと思う。
人の醜い面、汚い面を言い募るよりも、良い面を語り継いだ方が、精神的にもストレスにならないと思うが、本来、憂うべき事は、悪い面をもった人の存在である。
自分の居るビルが今にも崩れ落ちるかもしれないという時に、我先に人のことなどいささかも顧みることなく、自分さえ助かれば、後のことは知ったことではない、と考える人も当然いると思う。
日本で起きた、東電の福島第1原子力発電所のメルトダウンで、放射能が周辺地域に飛び散ったので、その地域に救援に行くのは嫌だという思考も、突き詰めればこういうことなわけで、自分ではリスクをいささかも負いたくない、ということを正直に言っている。
大勢の中には、こういう人がいることは当然予想されることであって、我が身が何よりも可愛いいというのは、生きた人間の普通の真理であって、それは当然のことである。
しかし、人類の人類たる所以は、そういう自然の摂理、自然の感情、自然の動物的思考を人としての理性で以てコントロールして、自己愛よりも他者を愛する心情に価値を見出している点にある。
そういう考えをもった人を、動物並みの思考をもった人よりも価値ある人間として認めあっているわけで、野生動物並みの自己愛で固まった人には、人としての価値は皆無ということになる。
しかし、自然災害とか、テロの起きた現場で、我先に逃げ出す人が立派な人という評価はあり得ないが、中にはそういう人がいても何ら不思議ではない。
でも、あのビルに巨大な旅客機が突っ込む映像を見て、下から消防士が機材を担いで掛け上がって行く姿というのは、まさしく戦場に向かう戦士の姿そのものであるが、論理的に考えて、あれは太平洋戦争中の日本軍の特別攻撃隊、特攻隊の出撃と酷似しているように思えてならない。
100階以上もあるビルの真ん中あたりに旅客機が突っ込めば、当然火災が起きて、旅客機の燃料であるケロシンが流れ出し、炎は上から下に燃えだすと思う。
そういう状況下で、下から消防隊が制圧に向かうということは、送り出す方の頭の中には、ビルが崩落することも想定していたと思う。
火のついた航空燃料は、上から雨のように降って来る中に、ビルの中にはまだ生存者が一杯いるわけで、消防隊としてもビルが崩落することが判っていても、「危険だから」「自分がやられかねないから」といって傍観しているわけにもいかなかったに違い。
消防隊の指揮官は、恐らく苦渋の選択をしていたに違いなかろうと思う。
ただ個々の消防隊員は、全体の詳しい情報は持ちあせていなかったのではないかと想像する。
2011年に起きた東日本大震災における東電福島第1原子力発電所の事故も、明らかに危機管理の課題を呈しているが、我々の側には、そういう危機管理という意識が満ちていなかったのではないかと思う。
究極の危機管理は戦争であるが、9・11事件に遭遇したニューヨークッ子は、「これは戦争だ!」と直感的に考えたが、我々の被った東電福島第1原子力発電所の事故では、そういう認識は一切なかったわけで、こういう点に初動操作の遅れが現れたに違いない。
この場合、ニューヨークの9・11事件と違って、空から人間がばらばらと落ちてくるわけではないので、危機管理の意識が希薄であったとしても致し方ないが、統治する側に原子力事故の認識が甘かったことは否めないだろうと思う。
日本でもアメリカでも統治、あるいは行政といった場合、トップの人が万能でないことはいうまでもないことで、ある特殊な事例については、ずぶの素人以下のことも往々にしてあると思う。
しかし、そういう状況下においては、何もかも自分で采配する必要はないわけで、適当なべテラン、適任者に、権力を移譲させて、その人の采配に任せればいいわけで、そういうことも政治の絶妙な手練手管である。
判りもしないのに、何でもかんでも自分で采配を振おうとすると、ちぐはぐな対処療法になってしまうわけで、結果として統治の失敗ということに繋がってしまう。
この9・11事件では、アメリカ国民は全て愛国者になってしまったが、アメリカ国民が一致団結してしまえば、国連の決議よりもアメリカ国民の意向が優先してしまう。
あの9・11事件が陰謀だという説の根拠は、このアメリカ国民の意向を一つの方向に集約する、如何にもアルカイダのテロにみせて9・11事件を演出し、アメリカ国民の心を一つにして、イスラム原理主義者の集団を叩き潰す、という目的達成のために仕組まれたという論旨であるが、私個人としてはどうにも今一、信じがたい面がある。
旅客機を乗っ取ってビルに突っ込ませたのは紛れもなく正真正銘のアルカイダのメンバーであって、そういうテロリストにどうしてCIAやFBIが呼応しなければならないのか、甚だ不合理な論理ではないか。
またテロリストが、ビル爆破の手法でWTCのビルを破壊したとして、何故、旅客機の突入と同時にそれをしなければならなかったのか、甚だ不可解ではないか。
ただあのWTCのビルに旅客機が突っ込む映像は、世界の人が見ているわけで、そういう万人に公開された映像に対して、様々な講釈を付けることも、これ又容易なことだと思う。
ビルの崩落があまりにも見事で、誰かに仕組まれたとすれば、その手際は完ぺきに近いが、誰が何のためにそのように手間暇かけた演出をする必要があったのであろう。
2機の旅客機がビルに突っ込むだけで、テロの目的は十分果たしたことになるのではなかろうか。
奇しくも今年は2011年で、あの事件の日から数えて10周年目に当たるので、今年の9月11日にはそれにまつわる記念式典があるかもしれない。