ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「戦う!サバイバル」

2011-08-05 10:52:37 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「戦う!サバイバル」という本を読んだ。
サブタイトルには「最悪から身を守れ」となっているが、要するにサバイバルのハウツーものである。
今年の3月11日の東日本大震災と、それに関連した東京電力福島第1発電所の事故が念頭にあったわけではないが、ついつい無意識のうちに関心がそういう方面に向いていたのであろう。
話は飛躍するが、7月23日、中国の高速鉄道鉄の事故の報に接して、新たに日本の安全ということに思いが至った。
日本と中国で、同じ鉄道という舞台で話を展開すると、日本ではあの震度9にも及ぶ東日本大震災の揺れ体験しても、走行中の列車には安全装置が機能して、見事にその場で停車して、一人の怪我人も出さなかった。
東北新幹線は創業した直後で、当初はさまざまな初期トラブルに見舞われたが、あの震災に関しては見事に安全装置が機能して、本来の性能を発揮した。
震災の被害の大きさの隠れて、その新幹線の安全性の素晴らしさは、一言もメディアで報じられることはなかったが、中国で事故が起きて、私個人としてはそのことの意義が覚醒された。
事故というのは、現実に起きた場合、その被害の状況は克明に報道され、事故に至る経緯が克明に解明されるが、それはそれで事故の原因究明のためには必要不可欠なことではある。
しかし、安全装置が完全に機能して、事故に至らなかったという事実も、極めて重要なことだと思う。
事故というのは、その安全装置が想定された状況で完全に機能しなかったから事故に至るわけで、それが当然だと言って安易に考えてはならないと思う。
その意味で、東京電力の原子力発電所の事故も、詳細に時間経過で追ってみると、原子炉自体は地震の振動を感知して緊急停止している。
つまり、安全装置は規定通り作動したということが言える。
地震による津波がなければ、ここで原子炉を冷却する機能が自動的に作動する筈であったが、この時は地震と津波で、その炉を冷却すべき冷却装置が破損してしまったので、結果的にメルトダウンにまで行ってしまったということだと思う。
ここまでは原子力発電所の安全装置は正常に機能していたといえるが、地震の振動と津波が炉心を冷やす冷却装置を破壊してしまったので、結果として最悪の事態を招いてしまったということになった。
ここまでは確かに天災と言えるであろうが、その後の対応となると明らかに人災の意味合いが大きくなってしまう。
地震とそれに伴う津波は明らかに天災であるが、その天災に如何に対抗措置をとるかということは、人為的な思考の発露が大問題になるわけで、そこを克服すべきテクニックがサバイバルそのものなのであろう。
新幹線の安全は地震の振動を感知して、列車がそこで止まれば一応の安全装置の機能は充分に機能したと言えるが、原子炉の場合は、運転を止めただけではまだ不十分で、その後で炉を冷却するという作業が残っていたのである。
その部分の機能が地震の振動と津波で破壊されてしまったので、結果として最悪の事態にまで至ってしまったわけだ。
この原子力発電所の人災にあたる部分は、東京電力という会社をはじめとして、政府を巻き込んだ組織論に行き着いてしまうわけで、技術的な問題よりも、組織としてのメンツの問題に成り変わってしまっていると思う。
原子炉がメルトダウンしたということは、もう完全に戦闘態勢に入ってしまっているわけで、安全問題を超越してしまっているように思う。
メルトダウンしてしまった以上、後は放射能という敵と如何に闘うか、という問題意識で掛からねばならないと思うが、民主党政権はそういう発想には至っていなかった。
牛の食べる藁にまでセシウムが入っているとか、これから取り入れる稲までセシウムが入っているかどうかという問題は、完全に放射能との戦いという概念で捉えなければならないと思う。
この問題意識の持ち方で、ただのトラブルと考えるか、放射能との戦争と考えるかの違いになるが、我々は戦後66年間も真の危機管理ということを考えたことがないので、これを放射能との戦争という認識に至らないのである。
原子炉が爆発したとしても、それは水素爆発であって、敵が銃器をもって攻め込んでくる状況ではないので、何処まで行っても事故という認識でしかない。
この危機管理の認識の甘さが、今日の事後処理の遅延に繋がっていると思うが、民主党政権はとにかく国民に金をバラ撒くことを政治と勘違いしている向きがある。
野菜の出荷停止、牛乳の出荷停止、牛肉の出荷停止ということは、すなわち補償金をバラ撒くということで、結局のところ、金で国民の安全安心を解決するということに直結している。
ならば「消費者に放射能に汚染された食品を黙って提供すべきか」となると、そうではないが、放射能に汚染されたからと言って、食べて直ぐに死んでしまうというわけではないので、その安全性が極めて重要なポイントになる。
ところが、その部分ではまだ確かな数値が出ていないわけで、ただただ危機感を煽っているだけのように見える。
危機管理を最高度に煽っておけば、補償金の供出には立派な大義名分が成り立つわけで、民主党は良い政治をしたという評価に繋がりやすい、
人間の健康にとっては、微量な放射能であったとしても、有るよりは無い方が良いわけで、「将来、子供の成長に心配がある」と言われると反論のしようもなくなるが、こういう不毛の議論を前提として金をバラ撒く思考というのは、ある意味で無責任極まりない発想だと思う。
ただただ人気取りに過ぎないように思えてならない。
「地震、雷、火事、親父」というのは我々の古来の認識からすれば天災なわけで、天災にあった被害者は気の毒ではあるが、それは天命という認識でもって、潔くあきらめることも大事なことだと思う。
「気の毒だから皆で助け合わねば」という発想は、素晴らしいことではあるが、あまりにも理想主義的で綺麗ごと過ぎる。
津波という天災の被害に遭うという点についても、ある程度の自己防衛の余地はあったわけで、古代の古老の言い伝えを守っていた集落は被害をまぬかれた例を見ても、そういう努力をした人もしなかった人も一律に「可哀そうだから金をバラ撒く」という論理はあまりにも綺麗ごとすぎる。
人の死については如何なる理由でもこじつけが可能だと思う。
病気で畳の上で死んでも、「国家がその病気の研究を怠ったから国家の責任だ」という論理も成り立ってしまうではないか。
このように「風が吹くと桶屋が儲かる」式の論理の目的は、国からカネをバラ撒かせることにあるわけで、その為にはどんな不整合、非整合、つじつまの合わない論理でも罷り通ることになる。
良識ある社会ならばそういうことを通らせてはならないと思う。
人間が生きる過程においては、あきらめということも大事だと思う。
物事には人間の人知の及ばないことも多々あるわけで、そういう出来事にああでもないこうでもないと屁理屈をくっつけて、国家から金をバラ撒かせようという発想は、人間の驕りだと思う。
人が生きるということは、如何に自己防衛をするかということに尽きるわけで、その事はこの本のタイトルそのままでサバイバルそのものだ。

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