ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「9・11」

2011-08-06 10:11:04 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「9・11」という本を読んだ。
サブタイトルには「あの日のニューヨークは……」となっていた。
静岡放送の記者が、あの事件に遭遇した時の記述であるが、いささか臨場感に欠ける。
放送局の記者としては文面から臨場感が迫ってこない。
放送記者であって、ものを書く方は苦手であったかもしれないが、その場にいた人間のレポートとしては、いささかもの足りなさを感じる。
というのは、その内容の力点が、放送記者としての立場を優先させる余り、テロの本質や、アメリカの本質に迫るものが少ないので、そういう印象を受けるのかもしれない。
しかし、この本を読んでいても、戦後の日本人は実に不思議な人種だと思う。
というのは、人が生きるということは、本質的に生存競争を生き抜くということであるが、戦後の我々はそういう認識ではなく、世界には悪と善があって、近代的な先進国は善の世界を築き上げて悪の世界を否定してしかるべきだという論理に陥っている。
だから日本人の視点から見て、善と悪が往々にして入り混じってしまって、昨日まで悪であったものが一夜明けると善になり替わるということもしばしばあるようだ。
この筆者は、世界貿易センターのビルが崩れ落ちるのを目の当たりにしながら「これは戦争だ!」と思ったと自ら記している。
しかし、ブッシュ大統領が同じ言葉を発すると、この大統領が瞬間的に感じた同じ思いを否定的なニュアンスで捉えて、さも好戦的な思考かのように報じている。
ニューヨークの世界貿易センターに2機の旅客機が突っ込んで、ビルが崩れ落ちるのを目撃したアメリカ人は「これは戦争だ!」と思ったし、この本の著者も同じ思いをした。
ところがその一瞬後の思考となると、アメリカ人は「そのテロリストを叩け」という思考になったが、日本人の場合、この期の及んでも仕事優先の思考に至ったわけで、まさしくワーカホリックそのものである。
そこには殴られたら殴り返せという思考、発想は微塵も存在していない。
人が生きるということは生存競争を生き抜くことなわけで、アメリカがああいうテロ攻撃にあえば、アメリカ国民、アメリカ市民、アメリカの人々は、当然のこと「敵を倒せ!」という心境に陥ることは当然のことだと思う。
それでこそ普通の人間であり、自然の感情の発露であって、自然人の真の姿だと思う。
人間の自然のままの姿というのは極めて赤裸々な闘争心に満ちているので、それを別の表現で言えば、報復の連鎖反応が何時まで経っても収集しない、ということになって、無限の殺し合いが継続するということになる。
それでは人類の消滅に至ってしまうので、あまりにも赤裸々な闘争心は、教養知性で覆い隠しましょう、というのが、人類の智恵として認知されてきたのではないかと私は考える。
しかし、人間がこの地球上で生きていくということは、何処まで行っても生存競争であることに変わらないわけで、その基底の部分には人類の潜在意識としての闘争心が脈々と流れている。
この地球上で多民族が共存共栄しようとすれば、当然のこと自己主張があるわけで、それは国益であったり、民族益であったり、ナショナリズムであったりするわけで、生存競争の場で自己主張するには、どうしても力の誇示をしなければそれが通らない。
戦後の日本人は国際連合というものに非常に価値を置いているが、国際連合などというものは、そんなに権威のあるものでもなければ、正義の具現でもないわけで、ただ単なる仲良しクラブに過ぎない。
そもそも誕生の経緯からして不純な動機で、第2次世界大戦の戦後処理の機関であったわけで、連合軍側が如何に勝利の線引きをするか、というのが発足の動機であった。
最初から正義を掲げたものではなく、領土配分を計った話し合いの場に過ぎなかったはずである。
しかし、第2次世界大戦の後では「もうああいう悲惨な戦争はご免こうむりたい」という願望を人々が共有したいと願ったので、国際連合もそういう線に沿った平和活動に比重が移った。
発足当時の国際連合には米・英・ソ・にフランスと中国が入っていたが、その後の経緯からすれば、中国は元々は中華民国であったものが中華人民共和国に替わり、ソ連はロシアに替わったということは、全く整合性が無いにもかかわらず、国連としては何の弁明もしていない。
つまり、この国際連合という仲良しクラブには、入会規定というものが無いわけで、その意味では日本の入会もドイツの入会もその根拠は極めて曖昧なままだということが言える。
こういう国連を、戦後の我々はまさしく正義の具現化でもあるかのように、真から信じようとしているが、それはイワシの頭を拝むような極めて根拠の薄い行為だということに気が付くべきだと思う。
この本の中で記述されていることで、9・11の翌年、アメリカが正にイラクを攻撃しようとしているとき、広島市長はブッシュ大統領にその攻撃を自重すべく手紙を届けに行ったと書かれている。
その手紙の内容たるや、「我々は仕返しをしなかった、アメリカも耐るべきだ」というものだからその不甲斐なさにはあいた口が塞がらないではないか。
広島の原爆慰霊碑には「もう二度と過ちは繰り返しません」となっているが、この発想を我々はどう考えたらいのであろう。
やられたら遣り返す、足を踏まれたら踏み返す、という人間としての自然の生き様を全否定するわけで、これでは生きた人間を愚弄する思考ではなかろうか。
やられたら遣り返す、足を踏まれたら踏み返す、殴られたら殴り返す、これが生きた人間の自然の有り体であって、仕返しを自重するなどということは神や仏のすることで、生きた人間のすることではない。
我々は生きた人間であって、口で美味しものを食べ、下から糞として出し、日々、身の周りのことに一喜一憂しながら喜怒哀楽の中で生かされているからこそ、自然のままで居れるのである。
人間が自然のままでいるからこそ、泥棒がいたり、人殺しがあったり、痴漢がいたり、汚職する役人がいたり、被災地にボランテイアーとして活躍する人がいたり、老人介護に精を出す若者がいたするわけで、アメリカ軍のアフガンやイラクの攻撃も、そういう生きた人間のある種の生きんが為の行為に過ぎない。
殴られたから殴り返す。理不尽な行為に対する仕返し・報復というのは、あきらかにそういうテロに対する生きた人間の生きている証であって、それをしない人間は、もう既に精神的に死んだ人間と同じだと思う。
広島と長崎に原爆を投下されて、「もう二度と過ちは繰り返しません」などと言っているような人間は、当然のこと、もう既に死んだ人間の泣きごとなわけで、こういう死んだ人間の言うことなど、生きた人間には何の意味も成さないわけで、「馬の耳に念仏」という感である。
「殴られたら殴り返す」という言葉を、文字通り暴力の応酬と捉える人がいたら、これ又、イマジネーションの乏しい人と言わなければならない。
66年前の暑い夏に広島に落とされた原子爆弾に対して、何故に我々の側が「もう二度と過ちは繰り返しません」となるのだ。
「もう二度と原爆は使わせません」というのならばまだ文言に整合性があるが、我々の側が「過ちを繰り返しません」という文言は一体どこから出てくる言葉なのであろう。
アメリカとの戦争では、我々は罠に嵌められたではないか。我々の側が被害者ではないか。
被害者の側が謝罪すると言うことは一体どういうことなのだ。被害者だからこそ謝罪するのか。
原爆を落とされた側が「もう二度とく過ちは繰り返しません」というのもおかしなことだが、そこの市長がアメリカ大統領に「9・11事件の仕返しをするな」と進言するというのも愚劣極まりない僭越な行為だし、不正常な行為だと思う。
市長ともあろう者がこういう行為に出るということは、本人自身が、人間が生きるということの真の本質を知らないということだと思う。
生存競争の中で生き抜くということを真剣に考えたことが無いということだと思う。
思えば、我々は戦後自分で自分のことを考えたことが無いわけで、常にアメリカと抱き合わせでものごとを考えて来たので、講和条約で独り立ちしたとは言うものの、それは名目だけであって、アメリカという後見役の居ない場では何一つ決らめれなかった。
石原慎太郎氏はアメリカに対して辛口の評論を成しているが、彼はその分アメリカの本質を見抜いているので、アメリカに対して急所を突くもの言いが出来るのであろう。
戦後と言わず戦前も含めて、日本人はどうしても表層の現象に流される傾向があって、ものの本質をえぐり抜いて理解するというよりも、表層の動きに付和雷同して時流に翻弄される傾向があるが、これは言わるゆる大衆に迎合するという意味で、非常に軽薄な思考である。
戦争と平和、どちらが良いかといえば、答えは問う前から判っているわけで、まさしく愚問という他ないが、こういう禅問答をいくら繰り返しても物事は進化しない。
進化はしないがそれを騒ぎ立てることで売文業者は糊塗を凌ぐことは出来るので、大勢の文化人がその禅問答に参加することで禄を食んできた。
そういう不毛の議論をいくら重ねても、実のある答えは無いので、議論は延々と堂々巡りをすることになるが、その間、世界の情勢からは立ち遅れてしまうことになる。
この本を読んでいてもう一つ引っかかるところがあった。
それは仮に中国の農村の映像がテレビで報じられているとすると、日本人ならばその映像を見て、「貧しそうだが精神的には我々よりも豊かかもしれない」という印象を持つ。
ところがアメリカ人ならば「まあ可愛そう。何とか助けてあげなければ」という発想になるので、これがトラブルの元だと述べている。
自分よりも貧しいものを見たとき、その相手を「助けてあげなければ!」という発想を、この著者は要らぬお節介と見ているようだが、この要らぬお節介こそ人間の本質的な愛だと思う。
戦後の我々の平和教育というのは、この人間として心の内側から湧き出てくる他者の苦難に対する要らぬお節介を全否定したところに、倫理観の崩壊が潜んでいるものと考えざるを得ない。
戦後の平和教育の中で行われてきた中途半端な個人主義を、要らぬお節介を排除する形で蔓延化したわけで、それは別の言い方で表現すればプライバシーの確立でもあったわけだ。
プライバシーを声高に叫べば、要らぬお節介の入り込む隙は無くなるわけで、人のことに構わずほっといてくれという言い分に繋がる。
そういうわけで、アメリカの立場からキューバ、ベトナム、イラク、イラン、アフガンという国々を見ると、こういう国々は見るからに貧しいわけで、このまま放置しておくと共産主義の国になってしまうかもしれない、という危惧もあって、援助しなければということになる。
ここでのアメリカの行為がそれこそ要らぬお節介なわけで、アメリカの気高い慈悲の精神が、現地の人々の精神を逆なでしてしまうのである。
9・11テロのテロリストの言い分でも、アメリカの繁栄を恨んでいるわけで、「アメリカがイスラム文化圏の人々を抑圧したからテロをするのだ」という言い分になっているが、それはただの整合性を欠いた言い訳に過ぎない。
アメリカにもイスラム文化圏の人々は一杯いるわけで、サダム・フセインやオサマ・ビンラデインの言い分は整合性を欠いているが、アメリカはアメリカで要らぬお節介を自分たちの大儀だと思って貫き通している。
この様相は正真正銘の生存競争の実態であるので、そこには正義とか善という綺麗ごとの価値観は入り込めない。
あるのは生きるか死ぬかの修羅場の駆け引きだけであって、負けた側が「過ちを犯しません」などという陳腐な宣言の入り込む隙は全くない。
戦争に負けるということは、奴隷にされても仕方がないことで、にもかかわらず我々は生かされたということは、ひとえにアメリカの慈悲であったのである。
「戦争に負けた方を奴隷にしてはならない」ということは国際条約に書かれているが、国際条約などというものは、元々何の拘束力もないわけで、結局は巨大な軍事力の前では無力であって、その部分が熾烈な生存競争の修羅場だと言っているのである。
そこでは正だとか邪だとか、善だとか悪だとかいうもっともらしい倫理観は何の価値もないわけで、あるのは自然人の感情のみである。
人間が自然人であるということは、好むと好まざると、戦いを避けて通れないということであるが、戦後の日本人は、このことを亡失してしまって、諍いを避けて通ることを習い性としてしまった。
広島と長崎に原爆を落とされたので、本来ならば「半世紀後にはワシントンとニューヨークに原爆を落とそう」というのが自然人の自然の感情だと思う。
殴られたら殴り返すのは自然人として当然のことで、アメリカ人も当然、人間の自然の思考として、日本人が原爆投下の仕返しをすることを想定して、そうあってはならじと戦後の日本人を愚民化することを計ったのである。
このアメリカの日本人愚民化政策は見事に功を奏して、戦後の我々は見事にアメリカの妾と成り下がってしまったのである。
日米安保はアメリカにすれば瓶の蓋であったわけで、日本が独自に戦力をもつことを見事に防いだことになり、アメリカの日本愚民化政策の見事な成功例である。
原爆を落とされた側が何故「もう二度と過ちは犯しません」と謝るのか甚だ不可解だが、戦後の我々は、それに何の疑問も抱かずに、アメリカとハートナーシップなどと言って有頂天になっている姿というのは、世界的な視野で見れば陳腐そのものではなかろうか。
これは突き詰めれば、我々の政治感覚の未熟さの表れであって、我々日本民族というのは四周を海で囲まれた島国なるがゆえに、異民族との接触が極めて稚拙で、他者への説得と自己PRが極めて下手なので、異民族に言葉で翻弄されてしまうのである。
先の戦争、太平洋戦争は、中国人の宋3姉妹、特に次女の宋慶齢と三女の宋美齢が、アメリカのルーズベルト大統領の説得に成功したから始まったようなもので、我々はシナの二人の女に国土を灰にされたようなものである。
あの戦争で、我々の側は、アメリカと開戦すべきかすべきでないか、突き進むべきか避けるべきか、迷いに迷っていたが、その同じ時に、シナの二人の女がルーズベルト大統領を一生懸命説得をしていたわけで、結果としてルーズベルトは日本の全権大使の言うことよりも、シナの女の話を聞いたわけだ。
日本人の話というのは、このように信用も無ければ説得力も無かった。
外国人、つまり日本人以外の人間は、我々をマスとして捉えているので、我々がマスとして一塊になった時、彼らは異様な恐怖感を我々に対して抱くようだ。
俗に「日本の常識は世界の非常識で、世界の常識は日本の非常識」と言われているが、この常識の乖離を世界は非常に恐れているのかもしれない。
第一次世界大戦が終わったあとで国際連盟が出来た時、日本は人種差別の撤廃を提起したが、新興国の日本がそういう堤案をすること自体、世界は驚いたに違いない。
人種差別の撤廃は、その時点では如何にも先鋭的な提案で、他の先進国にはそれぞれ利害得失が絡まっていて、時期尚早ということで却下されたが、こういう提案をして来ること自体、彼らには恐怖であったに違いない。
そこにも「日本の常識は世界の非常識で、世界の常識は日本の非常識」があったわけで、日本が戦争に負けても、「過ちは二度と起こしません」と反省するのも、それに通じる何かがあるのかもしれない。
だから広島市長がブッシュ大統領に「仕返しを思いとどまってくれ」と言う論理も、日本の常識と世界の常識の乖離の延長かもしれないが、殴られても殴られたままで我慢するというのも、何とも情けない生き方ではなかろうか。
自然界に生きる自然のままの人間としては、唾棄すべき類の人間と言えるのではなかろうか。
人間としての誇りを投げ捨てて、ただただ自己の生命を延命させるだけの奴隷根性丸出しの生き様が、世界から称賛されるわけがないではないか。
国の為、日本民族の為、同胞の生存のため、敵艦に飛行機ごと突っ込んで行く特攻隊の精神も、それこそ日本の常識が世界の非常識であった顕著な例であろうが、こういう事例があったからこそ、世界の人々は日本に対して一目おいて、敬意を表していた。
ところが、名誉も誇りも失った日本人であったとしたならば、奴隷として徹底的にこき使おう、という発想に至るのも当然のことである。


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