例によって図書館から借りてきた本で、「星の草原に帰らん」という本を読んだ。
モンゴル人の女性の一生を綴った本であったが、その大部分は中国批判である。
ある国が、国民からこれほど糾弾され、嫌われ、恨まれるということは、まことに不幸なことだと思う。
主権国家の国民として当然統治する側とされる側の立場の相違というのは、いつの時代、いつの世でもついて回る構図であって、国民が自分達の政治、為政者、統治者を崇めたてまつる状況というのは、ありえないことだとは思う。
いくら善政を敷いたとしても、国民の側が真からそれを喜ぶという光景は極めて希有なことだと思う。
国民が自分の国、自分達の為政者に不平不満を述べるというのは、ごくごく正常な市民感情だと思う。
我々の祖国でも、あの戦争に嵌り込んだ為政者の責任は未だに問われ続けているわけで、その反省の上に立って戦後の政治が成り立っていることは十分に理解できることである。
しかし、その反省に依拠して現実の社会的な事象を考察すべきなのに、その争点がずれて、反省を顧みるというポーズのみが独り歩きして、議論がかみ合わず、反省が反省足りえていないこともしばしば起きる。
ところがこれを自分の国の外から、自分の国に向かって祖国を批判するということとなると、ことはそう単純ではないと思う。
例えば、「ワイルド・スワン」を書いたユン・チャンのように、中国の共産党の幹部でいながら、自分が権力抗争に巻き込まれて迫害を受けると、それを祖国に敵対する陣営にぶちまける、ということは素直な気持ちで受け入れ難い。
自分もさんざん人を糾弾しておきながら、矛先が自分に向けられると、その相手を糾弾するという態度は、私としては受け入れ難い人の倫理もとる行為にしか見えない。
自分はさっさと安全地帯に逃げて、残された祖国を売るという行為は我慢ならない。
戦後の日本でも、自分達の政府を批判することが進歩的文化人の処世術として大手をふって罷り通っていたが、これはいわば井戸の中の蛙の大合唱のようなもので、あくまでも井戸の中という枠の中でのことである。
ところがユン・チャンの場合は、完全に枠の外から井戸の中のことを糾弾しているわけで、これは見方を変えれば祖国に対する裏切りである。
自分の祖国は、ことほど左様にめちゃめちゃなことをしているから寄ってたかって叩きのめしてください、と世界に向かって言っているようなものである。
国の外からこういうことを言われるということは、その国の人間としては実に由々しきことだと思う。
国の政策に対する批判というのは、統治される側としては当然であるが、祖国を売るような発言は当然してはならないし、民族の誇りを自ら捨てるようなもので、人間として褒められたことではない。
A国が自分の国益との兼ね合いでB国を糾弾するのとはわけが違う。
少し前の中国や韓国が、国民の不平不満のガス抜きとして、対日批判をしているのとは訳が違う。
A国の人間がB国に行ってA国の悪口を言う図である。
しかし、政治は人が行うわけで、人が行うという意味では誰がやっても同じという面も併せ持っている。
共産主義国の政治も、その共産主義に心から心酔している人も大勢いるわけで、そういう人が共産主義体制というピラミットを形つくっており、その意味では、戦前の日本が軍国主義一点張りで、国民の心が一致していたことと同じである。
戦時中の日本の軍人の独断専横を糾弾することは残されたものとして当然であるが、戦後になって、当時の軍国主義の齟齬を声高に叫ぶ日本の知識人の発言に信を置きかねるのも、そういう意味から世の中の流れに敏感に反応して身を処す彼らの生き方に我慢ならないものを感じる。
戦時中は、日本の全ての国民が大なり小なり軍国主義者だったわけで、それを上から強制された軍国主義だと言って、自分を枠の外に置いて罪を逃れようとする知識人には鼻もちならないものを感ずる。
「軍国主義者であらねば生きておれなかった」という意味では、旧ソビエット連邦や中国の文化大革命の時と同じなわけで、そのことを考えれば、人のすること、つまり政治というのは主義主張を超えて全く同じだということがいえる。
我々は今になって旧ソビエットの初期の段階でスターリンがどういうことをしたか知ることが出来る。
また、中国の文化大革命の時にはどういうことが行われていたか知ることができる。
スターリンのした粛清、毛沢東のした文化大革命で犠牲になった人々、こういう犠牲は日本の大東亜戦争における同胞の犠牲と似たり寄ったりなわけである。
ただ違うのは、同じ死でも「国家のため」という誇りを前面に出した死と、犯罪者という罪状を背負わされた死の違いである。
しかし、この死の意味の違いは極端に大きな違いがある。
計り知れない大きな相違がある。
しかし、これもその国の国民の選択であったことには違いがない。
ロシア革命も、ロシアの人々の選択であったわけだし、中国の共産主義革命も彼らの選択であったわけだ。
だがそれぞれの国でも、全員がその道を選んだわけではなく、体制側につく人とそうでない人が混在することになるが、ここで体制側についたが人が真面目だと世間が大混乱に陥るのである。
政治体制が確立するということは、それぞれの主義主張に順応した大勢の人がいたということで、その人達は真面目にそれぞれの主義主張に心酔していたに違いない。
こういう共産主義革命で、共産主義が至上のものだと真面目に、真摯に、素直に、思い込んでしまった人が、自分のみならず他人にまでそれを強要しようとするから、世の中が大混乱に陥るのである。
我々の戦前の日本でも、それと同じことが演じられたわけで、真面目な人ほど軍国主義を真に受けて、忠君愛国、欲しがりません勝つまでは、というスローガンを真摯に受け取っていたのである。
政府が「戦争には勝つ」と言っていたので、最後の最後までそう信じて疑わなかったわけで、政府を懐疑的にみていた人は、その馬鹿ばかしさに気がついていたに違いない。
しかし、当時はそれを言うわけにもいかなかったので沈黙せざるを得なかったが、ここで体制に順応した真面目な人は、そういう懐疑的な人をあぶりだすことに正義感を感じていた人も数多いたと思う。
そのことはすなわち旧ソビエットのスターリン体制、中国の文化大革命において、時の勢いに便乗して、周りの人を苦境に追い込んだ人も大勢いたのとおなじで、国の指針が、政治の状況によって、ある時は軍国主義、ある時は共産主義というもので確定したとき、その国の国民としては好むと好まざるとその指針の通りに生きざるを得ないわけで、いわば提灯持ちの選択もやむを得ない場合がある。
そういう体制の中で生き抜くためには、周囲の人間に罪を覆い被せて、自分自身が生き延びなければならない状況もありうると思う。
人の倫理には背くかもしれないが、自分が生き残るためにはいた仕方ない選択であったかもしれない。
我々の国でも、軍国主義の中で、特攻隊に自ら進んで命を投げ出さざるを得ない状況が、周囲の目には見えない圧力となっていたことが、往々にしてあったものと推察する。
つまり、自分は特攻隊などの行きたくはないが、郷里の母の名誉のため、親類縁者の誇りのため、あるいは人から弱虫と後ろ指をさされないように、という動機で志願した人も少なからずいたと思う。
我々の場合は、それを他者が無理に強要するわけではないが、それでも言わず語らずのうちに、無言の圧力として、本人とその家族にはのしかかっていたものと推察する。
これを戦後になって、この時代を生き延びた知識人たちは「軍が強要した」という形で告発しているが、それこそあの時代を生き延びた同胞としての知識人の裏切りに他ならない。
時代状況がすっかり変わった後になって、あれは「軍が強要した」と言ってみたところで、その時知識階層としては何をし得たかと問いかけなければならない。
すると、「治安維持法があってものが言えなかった」という返答になるが、我々はそもそもそれほど法を厳格に順守する民族であったろうか。
戦後の物価統制法のもとで、法律をきちんと順守して死んだ人は裁判官が一人いただけで、他の同胞は皆法の網を潜って生き抜いたわけで、治安維持法だとてその気になって法の下を潜ろうと思えばできたはずである。
でも、それをしなかったのは、知識人たちに勇気がなかっただけのことである。
そういう自分達の不甲斐なさを、他者の所為にして責任転嫁するというところが、知識人の極めて狡猾なところであって、こういう知識人が時には体制べったりになるところが恐ろしい。
こういう体制べったりの人たちは、自分の身は体制が保障してくれているので、異端者、異分子、反体制の人々を虐め抜いたとしても、その痛みを理解しきれていないので、悲劇がさらに拡大する。
更に悪い事に、こいう体制の側に身を置くと、自分が真面目であればある程、他者に対する心配りに気が回らないわけで、人の痛みを悼みとして理解しない。
そして虐める側も、自分がそれをしないと自分自身も虐められる側になってしまうので、不本意でも皆の前で自分の意志表示を明らかにするため、しなくてもいい虐めに手を貸すということになるのである。
このあたりの状況は、我々日本人も、中国人も、ロシア人も、人間としての行いとしては何ら遜色ない。
することは同じだ。弱いものを虐める心理というのは民族を超えて同じようなものだ。
悪いのはその主義主張を真面目に実践せしめようとする、素直さや、従順さや、気真面目さである。
政治・外交を語るとき、その時々の政府に、主義主張を超えて本当に人間らしい判断力と洞察力と愛情をもって人々の幸福を語る場がないことである。
日本の政治というのは、この幸福を追い求める点では与野党とも同じであるが、そのプロセスが違っているだけにもかかわらず、これが素直にことが運ばない。
日本の場合、与野党で見解の相違があっても、そのことですぐに殺されるということはないが、旧ソビエットでも中国でも反対意見をゆるさないわけで、そういう政治体制を最高のものだと思い違いをした日本の学者諸氏に対して、我々はどういう制裁を加えるべきなのであろう。
間違ったことを教え、さとし、喧伝した知識人、大学教授という人たちには、なにがしかの責任を負ってもらうことが必要なのではなかろうか。
旧ソビエットでも新生中国でも、こういう場合の責任の所在というのは実に明快で、ただちに身をもって意見の違いを償い、軽くても牢獄に放り込まれるわけだが、日本の知識人の中には、こういう国をユートピアだと思い込んだ馬鹿がいる。
新生中国が誕生した時、我が事のように喜んだ同胞、日本人がいたが、こういう人に対して我々はどういう評価を下したのであろう。
こういう間違った認識を広めた人は、やはりそれなりの償いを負ってもらわなければならないのではなかろうか。
かって、日本が対米戦に嵌り込んだ理由は、第一義的にはアメリカが日本を罠に嵌めたという面が大きいが、その罠に嵌った我が方の認識では、アメリカの実力を侮っていたことが最大の原因である。
アメリカの罠に嵌る愚も、新生中国をユートピアと喧伝する愚も、共に相手のことを知らなすぎるという点に共通項があるわけで、相手を知らなすぎるという点が、我が方の決定的な弱点である。
我々、日本人がアメリカ人や中国人の本質を見抜けないということは、自分の目線で相手を見ているからだと思う。
我々のいう自分の目線というのは、日本人の価値判断で相手を見るということで、我々はついつい世界というのは善良な人々の集まりだと思いがちであるが、世界は決してそんなに甘いものではない、という認識に至らないからである。
この本は、ツェベクマというモンゴル女性の自叙伝のようなものであるが、その女性が幼き日に日本女性から教育を受け、それが生涯を通じて心の支えてなっていたというものであるが、この本の中にもしばしば登場するが、このモンゴルというのが旧ソ連の支配地で、旧ソ連時代にはこの地でも日本の抑留者たちが都市の建設そのものに携わっていたことが語られている。
シベリア各地には、このように日本の抑留者によって作られた施設が沢山あるはずであるが、そういうものを今、掘り起こす作業は重要だと思う。
無理やり、戦争のどさくさの中で、抑留という形で働かされた日本人は、数字の上では60数万人もいるわけで、この抑留ということ自体、国際条約から見て、あるいは戦争法規から見て、あるいはジュネーブ協定から見て不合理なものだと思うが、そういう不合理に対しては正面からそれを正す手段をこうじるべきだと思う。
相手が聴く聞かないの問題を超越して、言うべきことは、とことん言うべきだと思うが、我々はともすると実利を優先させて、筋を曲げる傾向がある。
特に経済界は国益よりも、自分達の私利私欲を優先させる傾向があるので、それは民族の誇りを相手に売り渡すようなことで、長い目で見れば真の国益にはならないと思う。
この実利を優先させて、筋を通すことにこだわらない、という態度が相手の狡猾な手段に弄ばれる最大の理由だと思う。
モンゴルという国も、冷戦中は中国とソビエットという大国に挟まれて翻弄されたということであるが、ある意味で陸の中の孤立した島のような地勢的条件の中にいるのだから、それもある程度はいた仕方ない。
人間の作りだす文明には、それぞれに固有の特徴を備えていると思う。
なにも皆が均一の文化を共有することはないわけで、違った場所と地域で、それぞれに固有の文化を育めばいいわけだが、問題はそれを担う人々が如何に幸福感を味わうかということだと思う。
モンゴルにはモンゴルの文化があり、その文化をモンゴルの人々が継承すればいいわけだが、ここで他を羨む気持ちが入り込むと、その継承が素直にいかなくなる。
ここで、この本の著者と司馬遼太郎氏との出合いということになるが、司馬遼太郎氏にしてみれば、こういう著者のような人の取材というのは汲めども汲めども尽きない興味の源泉であろう。
モンゴルで生まれ、日本人の女性から初等教育を受け、新生中国の人間として青春を過ごし、再びモンゴルに帰って草原に生きた人であってみれば、彼の興味の対象にならない方がおかしいぐらいなもので、その意味では司馬遼太郎とも意気投合する部分が多々あったことを容易に推察できる。
しかし、そのモンゴルでモンゴルの英雄・ジンギスカンについて語れない時代があったということは、返す返すも不幸な時だったと言わざるを得ない。
こういう締め付けをする思想、共産主義というものに対する人々の怒りというのは、どういうふうに表現すればいいのであろう。
それは元より、真生の主義主張に問題があるのではなく、それを司る人間の方に誤りがあったわけで、その誤りに気がついただけでもモンゴルの人々が進化したということなのであろう。
モンゴル人の女性の一生を綴った本であったが、その大部分は中国批判である。
ある国が、国民からこれほど糾弾され、嫌われ、恨まれるということは、まことに不幸なことだと思う。
主権国家の国民として当然統治する側とされる側の立場の相違というのは、いつの時代、いつの世でもついて回る構図であって、国民が自分達の政治、為政者、統治者を崇めたてまつる状況というのは、ありえないことだとは思う。
いくら善政を敷いたとしても、国民の側が真からそれを喜ぶという光景は極めて希有なことだと思う。
国民が自分の国、自分達の為政者に不平不満を述べるというのは、ごくごく正常な市民感情だと思う。
我々の祖国でも、あの戦争に嵌り込んだ為政者の責任は未だに問われ続けているわけで、その反省の上に立って戦後の政治が成り立っていることは十分に理解できることである。
しかし、その反省に依拠して現実の社会的な事象を考察すべきなのに、その争点がずれて、反省を顧みるというポーズのみが独り歩きして、議論がかみ合わず、反省が反省足りえていないこともしばしば起きる。
ところがこれを自分の国の外から、自分の国に向かって祖国を批判するということとなると、ことはそう単純ではないと思う。
例えば、「ワイルド・スワン」を書いたユン・チャンのように、中国の共産党の幹部でいながら、自分が権力抗争に巻き込まれて迫害を受けると、それを祖国に敵対する陣営にぶちまける、ということは素直な気持ちで受け入れ難い。
自分もさんざん人を糾弾しておきながら、矛先が自分に向けられると、その相手を糾弾するという態度は、私としては受け入れ難い人の倫理もとる行為にしか見えない。
自分はさっさと安全地帯に逃げて、残された祖国を売るという行為は我慢ならない。
戦後の日本でも、自分達の政府を批判することが進歩的文化人の処世術として大手をふって罷り通っていたが、これはいわば井戸の中の蛙の大合唱のようなもので、あくまでも井戸の中という枠の中でのことである。
ところがユン・チャンの場合は、完全に枠の外から井戸の中のことを糾弾しているわけで、これは見方を変えれば祖国に対する裏切りである。
自分の祖国は、ことほど左様にめちゃめちゃなことをしているから寄ってたかって叩きのめしてください、と世界に向かって言っているようなものである。
国の外からこういうことを言われるということは、その国の人間としては実に由々しきことだと思う。
国の政策に対する批判というのは、統治される側としては当然であるが、祖国を売るような発言は当然してはならないし、民族の誇りを自ら捨てるようなもので、人間として褒められたことではない。
A国が自分の国益との兼ね合いでB国を糾弾するのとはわけが違う。
少し前の中国や韓国が、国民の不平不満のガス抜きとして、対日批判をしているのとは訳が違う。
A国の人間がB国に行ってA国の悪口を言う図である。
しかし、政治は人が行うわけで、人が行うという意味では誰がやっても同じという面も併せ持っている。
共産主義国の政治も、その共産主義に心から心酔している人も大勢いるわけで、そういう人が共産主義体制というピラミットを形つくっており、その意味では、戦前の日本が軍国主義一点張りで、国民の心が一致していたことと同じである。
戦時中の日本の軍人の独断専横を糾弾することは残されたものとして当然であるが、戦後になって、当時の軍国主義の齟齬を声高に叫ぶ日本の知識人の発言に信を置きかねるのも、そういう意味から世の中の流れに敏感に反応して身を処す彼らの生き方に我慢ならないものを感じる。
戦時中は、日本の全ての国民が大なり小なり軍国主義者だったわけで、それを上から強制された軍国主義だと言って、自分を枠の外に置いて罪を逃れようとする知識人には鼻もちならないものを感ずる。
「軍国主義者であらねば生きておれなかった」という意味では、旧ソビエット連邦や中国の文化大革命の時と同じなわけで、そのことを考えれば、人のすること、つまり政治というのは主義主張を超えて全く同じだということがいえる。
我々は今になって旧ソビエットの初期の段階でスターリンがどういうことをしたか知ることが出来る。
また、中国の文化大革命の時にはどういうことが行われていたか知ることができる。
スターリンのした粛清、毛沢東のした文化大革命で犠牲になった人々、こういう犠牲は日本の大東亜戦争における同胞の犠牲と似たり寄ったりなわけである。
ただ違うのは、同じ死でも「国家のため」という誇りを前面に出した死と、犯罪者という罪状を背負わされた死の違いである。
しかし、この死の意味の違いは極端に大きな違いがある。
計り知れない大きな相違がある。
しかし、これもその国の国民の選択であったことには違いがない。
ロシア革命も、ロシアの人々の選択であったわけだし、中国の共産主義革命も彼らの選択であったわけだ。
だがそれぞれの国でも、全員がその道を選んだわけではなく、体制側につく人とそうでない人が混在することになるが、ここで体制側についたが人が真面目だと世間が大混乱に陥るのである。
政治体制が確立するということは、それぞれの主義主張に順応した大勢の人がいたということで、その人達は真面目にそれぞれの主義主張に心酔していたに違いない。
こういう共産主義革命で、共産主義が至上のものだと真面目に、真摯に、素直に、思い込んでしまった人が、自分のみならず他人にまでそれを強要しようとするから、世の中が大混乱に陥るのである。
我々の戦前の日本でも、それと同じことが演じられたわけで、真面目な人ほど軍国主義を真に受けて、忠君愛国、欲しがりません勝つまでは、というスローガンを真摯に受け取っていたのである。
政府が「戦争には勝つ」と言っていたので、最後の最後までそう信じて疑わなかったわけで、政府を懐疑的にみていた人は、その馬鹿ばかしさに気がついていたに違いない。
しかし、当時はそれを言うわけにもいかなかったので沈黙せざるを得なかったが、ここで体制に順応した真面目な人は、そういう懐疑的な人をあぶりだすことに正義感を感じていた人も数多いたと思う。
そのことはすなわち旧ソビエットのスターリン体制、中国の文化大革命において、時の勢いに便乗して、周りの人を苦境に追い込んだ人も大勢いたのとおなじで、国の指針が、政治の状況によって、ある時は軍国主義、ある時は共産主義というもので確定したとき、その国の国民としては好むと好まざるとその指針の通りに生きざるを得ないわけで、いわば提灯持ちの選択もやむを得ない場合がある。
そういう体制の中で生き抜くためには、周囲の人間に罪を覆い被せて、自分自身が生き延びなければならない状況もありうると思う。
人の倫理には背くかもしれないが、自分が生き残るためにはいた仕方ない選択であったかもしれない。
我々の国でも、軍国主義の中で、特攻隊に自ら進んで命を投げ出さざるを得ない状況が、周囲の目には見えない圧力となっていたことが、往々にしてあったものと推察する。
つまり、自分は特攻隊などの行きたくはないが、郷里の母の名誉のため、親類縁者の誇りのため、あるいは人から弱虫と後ろ指をさされないように、という動機で志願した人も少なからずいたと思う。
我々の場合は、それを他者が無理に強要するわけではないが、それでも言わず語らずのうちに、無言の圧力として、本人とその家族にはのしかかっていたものと推察する。
これを戦後になって、この時代を生き延びた知識人たちは「軍が強要した」という形で告発しているが、それこそあの時代を生き延びた同胞としての知識人の裏切りに他ならない。
時代状況がすっかり変わった後になって、あれは「軍が強要した」と言ってみたところで、その時知識階層としては何をし得たかと問いかけなければならない。
すると、「治安維持法があってものが言えなかった」という返答になるが、我々はそもそもそれほど法を厳格に順守する民族であったろうか。
戦後の物価統制法のもとで、法律をきちんと順守して死んだ人は裁判官が一人いただけで、他の同胞は皆法の網を潜って生き抜いたわけで、治安維持法だとてその気になって法の下を潜ろうと思えばできたはずである。
でも、それをしなかったのは、知識人たちに勇気がなかっただけのことである。
そういう自分達の不甲斐なさを、他者の所為にして責任転嫁するというところが、知識人の極めて狡猾なところであって、こういう知識人が時には体制べったりになるところが恐ろしい。
こういう体制べったりの人たちは、自分の身は体制が保障してくれているので、異端者、異分子、反体制の人々を虐め抜いたとしても、その痛みを理解しきれていないので、悲劇がさらに拡大する。
更に悪い事に、こいう体制の側に身を置くと、自分が真面目であればある程、他者に対する心配りに気が回らないわけで、人の痛みを悼みとして理解しない。
そして虐める側も、自分がそれをしないと自分自身も虐められる側になってしまうので、不本意でも皆の前で自分の意志表示を明らかにするため、しなくてもいい虐めに手を貸すということになるのである。
このあたりの状況は、我々日本人も、中国人も、ロシア人も、人間としての行いとしては何ら遜色ない。
することは同じだ。弱いものを虐める心理というのは民族を超えて同じようなものだ。
悪いのはその主義主張を真面目に実践せしめようとする、素直さや、従順さや、気真面目さである。
政治・外交を語るとき、その時々の政府に、主義主張を超えて本当に人間らしい判断力と洞察力と愛情をもって人々の幸福を語る場がないことである。
日本の政治というのは、この幸福を追い求める点では与野党とも同じであるが、そのプロセスが違っているだけにもかかわらず、これが素直にことが運ばない。
日本の場合、与野党で見解の相違があっても、そのことですぐに殺されるということはないが、旧ソビエットでも中国でも反対意見をゆるさないわけで、そういう政治体制を最高のものだと思い違いをした日本の学者諸氏に対して、我々はどういう制裁を加えるべきなのであろう。
間違ったことを教え、さとし、喧伝した知識人、大学教授という人たちには、なにがしかの責任を負ってもらうことが必要なのではなかろうか。
旧ソビエットでも新生中国でも、こういう場合の責任の所在というのは実に明快で、ただちに身をもって意見の違いを償い、軽くても牢獄に放り込まれるわけだが、日本の知識人の中には、こういう国をユートピアだと思い込んだ馬鹿がいる。
新生中国が誕生した時、我が事のように喜んだ同胞、日本人がいたが、こういう人に対して我々はどういう評価を下したのであろう。
こういう間違った認識を広めた人は、やはりそれなりの償いを負ってもらわなければならないのではなかろうか。
かって、日本が対米戦に嵌り込んだ理由は、第一義的にはアメリカが日本を罠に嵌めたという面が大きいが、その罠に嵌った我が方の認識では、アメリカの実力を侮っていたことが最大の原因である。
アメリカの罠に嵌る愚も、新生中国をユートピアと喧伝する愚も、共に相手のことを知らなすぎるという点に共通項があるわけで、相手を知らなすぎるという点が、我が方の決定的な弱点である。
我々、日本人がアメリカ人や中国人の本質を見抜けないということは、自分の目線で相手を見ているからだと思う。
我々のいう自分の目線というのは、日本人の価値判断で相手を見るということで、我々はついつい世界というのは善良な人々の集まりだと思いがちであるが、世界は決してそんなに甘いものではない、という認識に至らないからである。
この本は、ツェベクマというモンゴル女性の自叙伝のようなものであるが、その女性が幼き日に日本女性から教育を受け、それが生涯を通じて心の支えてなっていたというものであるが、この本の中にもしばしば登場するが、このモンゴルというのが旧ソ連の支配地で、旧ソ連時代にはこの地でも日本の抑留者たちが都市の建設そのものに携わっていたことが語られている。
シベリア各地には、このように日本の抑留者によって作られた施設が沢山あるはずであるが、そういうものを今、掘り起こす作業は重要だと思う。
無理やり、戦争のどさくさの中で、抑留という形で働かされた日本人は、数字の上では60数万人もいるわけで、この抑留ということ自体、国際条約から見て、あるいは戦争法規から見て、あるいはジュネーブ協定から見て不合理なものだと思うが、そういう不合理に対しては正面からそれを正す手段をこうじるべきだと思う。
相手が聴く聞かないの問題を超越して、言うべきことは、とことん言うべきだと思うが、我々はともすると実利を優先させて、筋を曲げる傾向がある。
特に経済界は国益よりも、自分達の私利私欲を優先させる傾向があるので、それは民族の誇りを相手に売り渡すようなことで、長い目で見れば真の国益にはならないと思う。
この実利を優先させて、筋を通すことにこだわらない、という態度が相手の狡猾な手段に弄ばれる最大の理由だと思う。
モンゴルという国も、冷戦中は中国とソビエットという大国に挟まれて翻弄されたということであるが、ある意味で陸の中の孤立した島のような地勢的条件の中にいるのだから、それもある程度はいた仕方ない。
人間の作りだす文明には、それぞれに固有の特徴を備えていると思う。
なにも皆が均一の文化を共有することはないわけで、違った場所と地域で、それぞれに固有の文化を育めばいいわけだが、問題はそれを担う人々が如何に幸福感を味わうかということだと思う。
モンゴルにはモンゴルの文化があり、その文化をモンゴルの人々が継承すればいいわけだが、ここで他を羨む気持ちが入り込むと、その継承が素直にいかなくなる。
ここで、この本の著者と司馬遼太郎氏との出合いということになるが、司馬遼太郎氏にしてみれば、こういう著者のような人の取材というのは汲めども汲めども尽きない興味の源泉であろう。
モンゴルで生まれ、日本人の女性から初等教育を受け、新生中国の人間として青春を過ごし、再びモンゴルに帰って草原に生きた人であってみれば、彼の興味の対象にならない方がおかしいぐらいなもので、その意味では司馬遼太郎とも意気投合する部分が多々あったことを容易に推察できる。
しかし、そのモンゴルでモンゴルの英雄・ジンギスカンについて語れない時代があったということは、返す返すも不幸な時だったと言わざるを得ない。
こういう締め付けをする思想、共産主義というものに対する人々の怒りというのは、どういうふうに表現すればいいのであろう。
それは元より、真生の主義主張に問題があるのではなく、それを司る人間の方に誤りがあったわけで、その誤りに気がついただけでもモンゴルの人々が進化したということなのであろう。