ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「魔の海に勝て!」

2008-12-08 10:13:54 | Weblog

例によって図書館から借りてきた本で「魔の海に勝て!」という本を読んだ。
太平洋の真ん中で、荒波に船首をもぎ取られた貨物船の救助作業をした船長の話であった。
こういう話はたくさんあると思う。
人類の歴史の中で、船というのは太古から人間の交通手段として大いに利用されてきたわけで、その中では当然遭難もあり、その救助の話もあったに違いない。
あのタイタニック号の話などまさにそれなわけで、海難救助というのはそれだけで一つのストーリーが出来上がる。
日本に船というものがいくつあるかは知らないが、事故というのはいつ誰が遭遇するかわからない。
何十年と船に乗っていても生涯そういう目に遭わない人もいるものと思う。
私も現役の時、いささか消防に関わる仕事をしていたが、実際に火事の現場に出動するような場面には遭遇したことがなかった。
火事とか海難などということは生涯にそう度々あることではないと思う。
このケースの場合、遭難した船の船員が一人の犠牲者も出さずに救出されたという点で大きく評価されたのであろう。
海難事件でもメデイアの取り上げられ方で大きくその評価が左右されているように思う。
私の拙文は主感の塊で、自分の考えたこと、自分の思ったこと、自分の考えそのものを書き連ねているが、メデイアというのは基本的にそうであってはならないと思う。
世の中の公序良俗に従って、少しでも世の中が明るく明朗になり公明正大な方向に向かうべく、読む人を導く心がけがなければならないと思う。
その意味で、メデイアの偏向には世の中の雰囲気が大きくその影を反映していると思う。
このケースの場合、嵐の海で果敢に行われた救助作業が見事に成功したので、メデイアも好意的に大きく取り上げたがこれはこれで結構なことではある。
ただ同じように海難事故に関しても、相手が軍関係の船舶のことなると、日本のメデイアは一斉に体制批判に傾くところが偏向の顕著なところだと思う。
この部分の公明正大という価値感の座標軸が、私ども庶民の感覚とメデイアの感覚の間に、大きな乖離があるわけで、その幅がメデイアの側の偏向となっている。
今年の春先に東京湾上で起きた海上自衛隊のイージス艦と漁船、清徳丸の衝突事件でも、事故を起こしたという意味では海上自衛隊の「あたご」側にも責任の一端があることは認めざるを得ないが、犠牲者を出した清徳丸にもそれ相応の過失はあると思う。
当てられて沈没した清徳丸の親子が死んでしまったので、可哀想だという同情が、イージス艦憎しという嫌悪感に転嫁してしまって、自衛艦側を極悪人という位置づけで報道した。
大きな船の直前を横切ろうという行為は、我々の周囲で起きる交通事故に例えれば、大型トラックの直前を横切るようなもので、危険なことは当然である。
ただ陸上でも海上でも、人を死なせた方が悪者に仕立てられる風潮は、私個人としては我慢ならないことだと思っている。
大型トラックの前を横切って轢かれて、その人が死ねば当然その運転手の罪が問われるが、そのトラックの前を横切った人は死んでしまったがゆえに、何も罪が問われず、轢いた運転手に相手のミスの部分も加算して上乗せする形で悪者に仕立てられる風潮には我慢ならない。
メデイアはこういう風潮に対して警鐘を鳴らしてこそメデイアの使命だと思う。
トラックの直前を横切りうことなど、本人の自殺行為だから運転手に過失はない、といってこそメデイアの本来の姿だと思うが、昨今のメデイアは人を殺した側を何が何でも悪人に仕立て上げている。
海上の交通ルールについては詳しく知るものではないが、陸上でも海上でも交通ルーツとそれに付随する常識というものがあるはずで、それをどちらかが無視するから事故が起きるものと思う。
トラックの前を横ぎる行為も、大型船の前を横切る行為も、常識的に考えれば危険なことに変わりはないわけで、あてた側からすれば想定外のことが起きたと言いたくもなると思う。
ところがメデイアというのは、そいう背景を一切無視して、「人を殺すとは何事か」という言い方で責めるが、それは明らかに偏向した思考だと思う。
特にそれが大型トラックであったり、国家を背景にした機関、例えば海上自衛隊の船であったりすると、その偏向の振幅のトーンが一段と高まる。
普通の常識人の考えからすれば、大型トラックの前を横切ったり、巨大な軍艦の前を横切れば、危険なことは当然で、最初からそういう行為は自ら避けるというのが自己防衛本能だと思う。
事故が起きてしまった後から、トラック運転手の前方不注意だとか、ブリッジの見張り勤務の怠慢だとか、理由をこじつけるが、これは部外者の無責任な論評だと思う。
事故が起きたということは、起こしたこと自体に想定外のことに対処できなかった、という意味で一抹の責任はあるが、それは存在自体を否定しなければならないほどの根本的な過失ではないと思う。
イージス艦「あたご」と清徳丸の場合、清徳丸は3隻で船団を組んでいて、他の2隻は回避しているわけで、当たられた側にもう少し注意力があれば回避できた事件だと思う。
日本のメデイアは、こういう事件の場合、自衛隊側をさも極悪人のようなニュアンスで報じるから私は憤慨を覚えるのである。
私は個人的に海上自衛隊を応援するつもりはないが、ものの見方は公平であるべきだと思う。
メデイアは、このものの見方の公平さを求めて真実に迫るべきで、その真実に迫った結果が偏向していては、何にもならないと思う。
それにもう一つ加えれば、偏向していても構わないが、ならば公明正大ということを表看板から外すべきで、自分のスタンスをはっきりさせて、これこれの考えに基づきこういう思考を述べるのだ、ということをはっきりさせるべきだと思う。
愚痴はこれくらいにして、今の日本の海運界というのは一体どういう状況なのであろう。
詳しくはしらないが、日本の船員は給料が高いので、今では外国人の船員が多いと聞くが果たして現状はどうなんであろう。
その上、船の仕事は、海上勤務が多くて、普通の仕事とは異なっているので今の若い日本人には嫌われていると聞くが、日本男子というのも実に軟弱になったものだ。
昔は海外雄飛とか、海の男というのは若い青少年のあこがれであったと思うが、今ではそういうこと自体が若い日本の青少年からソッポを向かれている、ということを一体どう考えたらいいのであろう。
日本が豊かになった証拠ではあると思う。
豊かな社会にあれば、人々の考えも軟弱になるのは当然だと思う。
社会が豊かになれば、なにも好き好んで苦労を背負うことはないわけで、ほどほどに今ある状況にどっぷりと浸かって、切磋琢磨とか、身を粉にして働くとか、艱難辛苦などということをしなくても、ほどほどに生きていけるわけで、それが今の日本ではなかろうか。
海外雄飛などという言葉は、確かに古き貧乏な時代のスローガンであったわけで、飽食な今の日本の現状には合わないであろうが、我々、日本民族の若者の精神が極めて軟弱になったことだけは真実であろうと思う。
本日、12月8日は太平洋戦争の開始から68年目である。
あの頃の日本は貧しかったと思う。
貧しかったといっても日本全国が同じように貧しかったので、特にみじめさというようなものは感じていなかったが、全体のパイが小さかったので、一人一人がそのパイの拡大を望んでいたことは確かだろうと思う。
それがため日本は世界を相手に戦争を挑んではみたが、完膚なきまでの敗北を期し、その結果として軍事費というものをゼロにしてしまった。
その上、我々は「自分の国を自分で守ることもやめました」と世界に向かって宣言してしまったので、残ったのは物作りだけであった。
ところが、この物作りには自分でも驚くほどの才能が隠れていたわけで、結局その才能で、図らずもアメリカに次ぐ経済大国になってしまった。
この本の著者も、戦後とはいえ、基本的には貧乏からの脱出の手段として船員となったわけだが、今の我々は決して貧乏などではないわけで、当然のこと過酷な仕事を要求される船員などになろうという若者が減ったわけだ。
そういう若者のもう一つ裏の深層心理には、組織の中での仕事が嫌という面があるのではなかろうか。
つまり組織の中で、秩序だったルーチン化した仕事を嫌うという面があるのではなかろうか。
だから極端な例でいえば、文筆業や、音楽家や、芸能人というように時間に束縛されない、自由気ままに自分の好きな時に好きなように働く仕事ならば、どうにかやってみようという気になるが、そんな仕事が誰でも出来るわけではない。
心の奥底でそういうものを求めながら、現実の世界はそう甘くはないので、中途半端なところで宙ぶらりんになる。
それがフリーターであり、アルバイターであり、派遣労働者ということになるのではなかろうか。
普通の社会の仕事というのは、基本的には組織化され、組織で動き、組織の中で問題解決がなされているわけで、組織の中で歯車の一つとして働くことが厭ならば、如何なる職業にもつけないのは当然である。
戦争に負けた我々は、それ以降というもの人権ということを極度に過大視するようになったが、人権を声高さけぶならば、その前にまともな人間ということを真摯に考えなければならず、人権はそういう人の権利ということを真摯に考察しなければならない。
ただ自分の我儘が通らないのは人権侵害だ、というような稚拙な論議に振り回されてはならないはずだ。
人間の型をしていれば、犯罪人も、極悪人も、性格異常者も、お地蔵さんも、すべて同じ人権で括るのは森を見て木を見ないのと同じで、あきらかな行き過ぎだと思う。
人間としての権利ということであれば、ここでいう人間というのは常識的な意味で、普通の倫理をわきまえた普通の市民としての普通の人間であって、人殺すような殺人者まで真面目に生きている人と同じ人権という言葉で括るのはあまりにも綺麗事すぎると思う。