例によって図書館から借りてきた本で「防衛省の真実」という本を読んだ。
著者は元防衛庁長官を務めたこともある中谷元氏である。
彼が自衛隊出身ということは知っていたが、レインジャーであったということは知らなかった。
防衛大学出で、元レインジャーであったということは素晴らしいことだと思う。
彼が防衛大学に進んだ動機というのは、あまり確たる信念で選択したというわけでもない、という点に大いに共感を覚える。
私も航空自衛隊に5年間いて、自衛隊を内部から知る者の一人として、自衛隊にそう過大な期待を抱いて入隊してわけでもないので、そのあたりの事情は実によく理解し得る。
自衛隊の外のものが、自衛隊の本質を詳しく知らないのは当然のことで、誰しも内容を知った上で入る者はいないと思う。
私は世代的に旧軍を知るものではないが、旧軍に比べると自衛隊というのは根本的に進化した組織で、簡単には比較できないと思う。
とはいうものの、その主とする舞台、つまり陸上を主とするか、海上を主とするか、空を主とするかという場面で、それぞれ根源的に相通じる部分はあるので、それが伝統のようなものを引きづることはいた仕方ないと思う。
ただ自衛隊と言いつつも、それは戦争を想定した組織であることは間違いなく、戦争を想定して国を守るという部分で、国民の合意がないことには国を守るということ自体が成り立たないことは論をまたない。
自衛隊が国を守るという場面で、自国防衛の専門的な行動は自衛隊に任せるが、それをするにおいても後ろで国民的な合意がないことには、それさえもできないわけで、そこが今日の最大の問題だと思う。
国を守るということにおいても、国民の間には大きなコンセンサスの相違があるわけで、このコンセンサスの相違が一つに収斂されてこなければ、自衛隊がいくら専門知識をもった集団であったとしても、それを生かすことができない。
そのことは、自衛隊自身よりも国民の側に国を守るという意義と、意味と、意識が醸成されないことには、成り立たないことだと思う。
今の日本国憲法は、その第9条で戦争放棄をうたい、紛争解決のためには武力を行使しない、ということを内外に宣言しているわけで、これを崩すということは日本人の誰一人考えていないと思う。
自衛隊はもちろんのこと、かなり右傾化した人でも、憲法を改正して紛争解決のために武力行使を是認しようなどと考えている人はいないはずである。
にもかかわらず、この憲法の9条を少しでも触ると、すぐにでも自衛隊が戦争をおっぱじめるというような論調になるが、こういう無知、あるいは荒唐無稽な論理が国を守るというときに最大の障壁になるのである。
憲法9条を少しでも触ると、自衛隊がすぐに戦争をおっぱじめるにちがいない、という憶測に陥るということは、あまりにも日本国民、強いて言えば自分の同胞をばかにした話だと思う。
完全に悪意に満ちた詭弁でしかないわけで、それを知識人というような人が、真顔で口にすべきことではないはずである。
今の人間の生き方というか在り方を見てみると、地球上の人々は国境を越えて相互に行き来して、地域的にはそれぞれに様々な人々が混在して生きている。
日本にいる外国人、海外に出ている日本人、その有様を見ると、もう第2次世界大戦のような国と国の戦争というのは成り立たないようにみえる。
中国の人も、韓国の人も、北朝鮮の人も、ロシアの人も、アメリカ人も、日本にいるわけで、そこに古典的な先制攻撃、奇襲作戦で日本を攻撃をすれば、自分の国の国民を巻き込んでしまうわけで、そういうことはありえないと思う。
ここで日本の平和ボケの人々は、「ならば自衛隊はいらないではないか」という論議になるが、そこが無知であり、能天気な部分である。
戦争というのは映画やテレビドラマのように鉄砲を撃ちあってドンパチを演ずるものばかりではない、ということを知るべきである。
主権国家というのは、それぞれに主権をもっているわけで、この主権の侵害ということは、直接には国民の生命財産に影響を及ぼすものではないが、犯された主権は断固として抗議しなければならないわけで、それを怠るとだんだんとその侵害が拡張してくるものである。
卑近な例で示せば、隣家との境界線をあいまいにしておけば、隣家はどんどんと自分の土地に入ってくるのと同じで、その境界はきちんと話し合って決めておかなければならない。
この話し合いが紳士的に行われて、双方で納得できる解決に至れば問題はないが、その過程で、こちらが弱腰で安易に妥協する気配を相手が察知すれば、ごり押しされるのが落ちである。
そこで、こちらの強い意志を表明すれば、相手もことを荒だ立てては損だ、という認識に至り、妥協する気にもなる。
これこそが外交の妙であるが、こういう外交が成り立てば、血で血を洗う戦争というのは回避される。
こういう外交を成立させるためには、国民の側に自分の国は自分で守る、主権侵害は断固拒絶するという盤石な信念がないことには、その外交そのものが成り立たないわけで、そのためにも実行能力としての自衛隊をフォローする国民的コンセンサスが必要になる。
話し合う場、いわゆる外交の場でも、衣の下に鎧を隠して臨まねばならないのである。
話し合い場で、表面的にはお互いに衣を着てその場に臨んでいるが、その衣の下に鎧が見え隠れするのとでは、会議の雰囲気が随分とことなると思う。
主権の侵害などということは、国民の日常生活には縁遠いことなわけで、国民の側としては、そんなものはくれてやってもいいではないか、ということになりがちであるが、それこそ亡国の思想である。
我々は今非常に恵まれた環境の中で生きているが、これは我々日本人だけの力で築きあげたわけではない。
日本を取り巻くすべての国が、日本に物を売り、日本から物を買う状況を維持してくれたから今日があるわけで、そういう環境に抱かれた日本は、アメリカにつぐ経済大国になったが、そのことは同時に大きな格差を生むことでもあった。
第2次世界大戦が終わった時点では、世界の国々は皆同じスタートラインに並んだような状況であった。
ただアメリカ一国は世界唯一の戦勝国として突出していたが、他の国々はそれこそ無からのスタートで、その意味では皆同じスタートラインであったと言わなければならない。
それから63年後には今日見るような格差が出来てしまったわけで、それは一重に日本が自ら国を守ることに金を掛けてこなかったことも大きな原因ではあろう。
自ら自分の手で自分の国を守るということは、普通の国ならばそれこそ普通の認識なわけで、それを我々は普通にしてこなかった。
自分の国を守るということをアメリカに一任してしまったわけで、その意味では、我々はアメリカの属国という位置付けで甘んじてきたことになる。
アメリカの属国であったとしても、我々の戦後63年間というものは、良き時代であったわけで、国民の一人一人は自分がアメリカ人の奴隷の位置にいるなどということを意識せずに済んできた。
考えてみれば、63年前に我々が車を持てる生活などというものは想像さえできなかったわけで、そのことを考えれば、この世がこれからもずっと続くことを願う気持ちもわからないではない。
しかし、日本の経済力がアメリカにつぐ世界第2の大国になったとすれば、その国力に応じた世界貢献を求められるのも当然の成り行きではある。
日本の戦後の発展が、世界の平和と安定の賜物であったとすれば、それに対して何らかの返礼的な意味の世界貢献を求められるのも当然のことである。
今世界で緊急の課題は、経済の格差に依拠する不平不満の発露としてテロに訴える過激派の存在である。
その背景には、宗教が大きく作用していることはいなめないが、そういう動きに対して、日本が貢献できる分野は基本的には日本の知識人の非戦の説得でなければならない。
テロという実力行使に対して、その無意味さを相手に説き、テロという手段を使わずに話し合いのテーブルに着くように相手を説得することである。
ところが相手はそういう説得に応じる相手ではないわけで、ここで血の応酬が繰り返されることになる。
日本の知識人の反戦運動、非戦の運動というのは、日本の国内だけの運動であって、それはまさしくお釈迦様の手のひらで大暴れして悦に入っている孫悟空のようなもので、日本以外では何の神通力も発揮できないでいる。
日本の知識人の言うこと成すことが世界に通用しないということは、彼らの言っていることが普遍性をもっていないということで、世界的な視野で見れば間違っているからである。
世界は明らかに弱肉強食、優勝劣敗の厳然たる事実の中で動いているわけで、理想、理念という夢を食う獏ではなく、現実の利害得失で動いているのである。
だからこそ格差が生じるのであって、理念、理想を建前とした社会主義は完全に否定されたではないか。
人間が自由に生きようとすれば、結果的に富めるものとそうでないものが必然的に生まれる。
今、テロを繰り出している国、あるいは地方というのは、いわゆる低開発国である。
もっとわかりやすい表現をすれば野蛮国である。
アフガニスタンにしろ、イラン、イラクにしろ、北朝鮮にしろ、開発から取り残された地域で、なぜ開発から取り残されたかと問えば、それは彼ら自身の選択であったわけだ。
宗教が近代化を自縛しているとすれば、その自縛を説くのは彼ら自身の問題なわけで、他者の所為にしてはならないはずだ。
ビンラデインがアメリカを憎むのはおかど違いである。
日本が第2次世界大戦に敗北して、その後憲法で戦争放棄を盛り込んだのは、我々自身の選択であったわけで、最初はアメリカの強要という部分もあったが、それにもかかわらずそれ維持し続けたのは我々、日本民族の英知であった。
我々は、第2次世界大戦の敗北を、我々の政治の失敗だったと明らかに自覚し、反省して、再びそういう失敗をしてはならないと肝に銘じて生きてきたわけだが、日本を取り巻くアジアの国々には、そういう反省をしていないところもある。
中国でも韓国でも、日本がアジアで悪いことをしたという認識であるが、自分達がそれを許した、自分達が怠惰であった、自分達が無知であった、という反省は一言もないわけで、被害者意識のみが旺盛で、それを乗り越えようという自意識は極めて希薄である。
すべてを他者の所為にするところは極めてアジア的というか、傲慢というか、未開な部分だと思う。
中国にしろ、韓国にしろ、彼らの潜在意識からすれば、日本が経済発展するということは、身の毛のよだつような嫌悪感にさいなまれると思う。
彼らの日本蔑視の意識は、有史以来刷り込まれているわけで、日本が経済的に成功するということは、かれらの潜在意識を逆なですることだと思う。
よって、日本が戦争放棄して、自分の方からは決して手を出しませんといえば、彼らはいい気になってチョッカイを出してくるのである。
こちらが弱みを見せればすぐに増長するわけで、これは彼らの本質であって、彼らの自然の姿である。
大昔からの遺伝子なわけで、それが良いとか悪いという議論は成り立たないはずである。
こういう民族の確執というのは、地球上にいくらでも転がっているわけで、それがテロを生む温床でもある。
日本の知識人とマスメデイアは、日本の非戦あるいは反戦の思想を、そういう人々に対して熱心に説くべきで、その意味で彼らは怠惰だと思う。
「井戸の中の蛙」で自分の井戸の中で大合唱をするのみで、他に対しては何の影響力も行使していない。
戦後63年間も平和な時代に暮らしていると、戦争というものの本質を見失いがちである。
あの戦争中でさえも、戦争の本質を見失っていた軍人がいたことを考えると、戦争を考えるということは、人間の思考を掘り下げて考えるということだと思う。
あの大戦争の中で、陸軍と海軍が仲が悪かったという事実は、どう考えたらいいのであろう。
一言でいえば、究極のセクショナリズムで、陸軍の戦争であり、海軍の戦争であったわけで、陸軍や海軍の枠をはずして、何が何でも勝つという意識に欠けていうたということだと思う。
アメリカが敵である前に、海軍が敵であり、陸軍が敵であったわけで、同胞同士が敵対していたということではなかろうか。
陸軍でも海軍でも、戦争をリードしたのはそれぞれのエリートであったわけで、そのエリートがセクショナリズムで戦争を私物化した結果が、完膚なきまでの敗北であったわけだ。
だとすれば、このエリートはどこがどういうふうにエリートだったのか、ということを問い直さなければならない。
国民を塗炭の苦しみに追い込んだのが軍人エリートであるとするならば、生き残った国民は、そういう元の軍人エリートからそれに見合う対価を返してもらわなければならないのではなかろうか。
この著者、元防衛庁長官中谷元氏も、防衛大学校を卒業した元自衛官であるが、この防衛大学校も創立してすでに53年、半世紀以上を経ているわけで、ここで平成の軍人エリートが養成されていることは論をまたないが、問題は半世紀以上にわたる歴史の積み重ねである。
卒業生の中には、当然、組織のトップに上り詰めた人もいるに違いなかろうが、エリート養成機関に入り、そのままその組織の延長に居残るということは、それこそ「井戸の中の蛙」的な発想に陥る可能性がぬぐえない。
要するに、外からの新鮮な空気の入れて、よどんだ空気を排除する機能をもたせなくてもいいか、空気の入れ替えをしなくても大丈夫か、という危惧である。
こういう特殊な集団は、長い年月の間には、やはりそれ相当の独自の社会を形作るのが普通であって、中身の新陳代謝が活発であれば、そういうことも心配する必要はないが、それがあるかないかは外からはわからないわけで、そこが心配の種ではある。
旧軍における海軍兵学校でも陸軍士官学校でも、ある意味で軍人の純粋培養の機関であったわけで、そういう所で純粋培養された人たちが、無謀な戦争に駆り立てたわけで、そういう場所で純粋培養させれていたからこそ、世界の動きを見誤り、西洋列強、特にアメリカの罠に見事にはまってしまったわけである。
このアメリカの罠が見抜けなかったというところが、当時のエリートの底の浅さである。
そして中国戦線では、日本軍が時の声を挙げて突撃すれば相手は一目散に逃げるが、ここでも相手の本質を知らなったばかりに、それが相手の作戦であったということに負けるまで気がつかなかった。
これで戦争のプロといえるであろうか。
あの戦争中は、日本人の誰も彼もがこういう無能な軍人エリートを崇めていたわけで、結果として日本が負けるのは当然のことであった。
とはいうものの、この愚挙の責任は、むしろメデイアが負わなければならない。
昔も今も、メデイアというのはあくまでも狼少年であって、それ以上でも以下でもない。
「狼が来る、狼が来る」と騒ぎ立てるだけの役目であって、ことの責任を負うものではないわけで、人々はメデイアに情報を漏らしてはならないのである。
またメデイアの煽ることを信用してはならないのである。
メデイアというのは、どこまで行ってもインテリやくざ・狼少年の枠を出るものではなく、メデイアに信を置いたり、真に受けたり、追従していては結局は身を破滅させる。
情報公開というのは、こういうインテリやくざが自分達の商いをしやすいようにする我田引水の方策であって、善良な市民は決してメデイアの言うことに踊らされてはならない。
メデイアに対しては、徹底的に見ざる、聞かざる、言わざるに徹すべきで、信用してはならない。
メデイアが世論を喚起するということは、メデイアの思う通りに世間が動いた時は、そういう啓蒙を吹聴するが、あの戦争中に日本人の全てが軍国主義に陥ったのは、当時のメデイアがそれを煽りに煽ったからであって、見事にメデイアの啓蒙にのせられたわけである。
あの戦争が勝利していれば、メデイアの啓蒙運動は見事に功を奏したことになるが、敗北となった時、メデイアはどういう対応をしたか深く考えて見るべきである。
軍国主義華やかなときは、軍部のちょうちん持ちの記事で飾り、戦争が失敗だったとなると、手のひらを返したように糾弾するわけで、メデイアというのはこのように実に日和見なわけである。
その時々、あるいは場所に応じて、一見もっともなことを言っているように見えるが、結局は嘘を言っているわけで、我々はそれに騙されてはならない。
メデイアの取材には嘘で応えるべきである。
国を守るという場合も、如何にメデイアをコントロールするかということも実に重大なことで、今の日本のメデイアにかかったら売国奴さえも英雄になりかねない。
国家機密、軍事機密を守るということになれば、明らかにメデイアとは対立する関係になるわけで、ゆめゆめ油断は許されない。
メデイアが自分たちの体制、政府に協力的でなければ国を守るということは成り立たない。
先の大戦でも当時のメデイアは完全に軍の妾の地位に甘んじており、軍国主義を吹聴しまくり、兵士たちを戦場に送りだし、軍国の母を褒め称えてきたわけで、軍人エリートのミスリードに油を注いで来たではないか。
こういうメデイアの国威啓蒙運動、ないしは軍国主義賛歌に押されて、当時の日本の若者は戦場に尽き、若い命を落としていったわけで、だからこそ日本はあそこまで戦えた。
あの戦いの世界的評価は、日本軍の高級将校は世界一バカだったが、日本軍の下部の方の兵士たちは実に立派な戦いをしたというものである。
やはり世界の目は現実を素直に直視している。
戦いの結果は敗北であったが日本の兵隊は善戦したということは言える。
が、トップの方の将官連中は、世界でも最低の将官であり、最低の参謀であったわけだ。
戦争に負けたことがその立派な証明である。
著者は元防衛庁長官を務めたこともある中谷元氏である。
彼が自衛隊出身ということは知っていたが、レインジャーであったということは知らなかった。
防衛大学出で、元レインジャーであったということは素晴らしいことだと思う。
彼が防衛大学に進んだ動機というのは、あまり確たる信念で選択したというわけでもない、という点に大いに共感を覚える。
私も航空自衛隊に5年間いて、自衛隊を内部から知る者の一人として、自衛隊にそう過大な期待を抱いて入隊してわけでもないので、そのあたりの事情は実によく理解し得る。
自衛隊の外のものが、自衛隊の本質を詳しく知らないのは当然のことで、誰しも内容を知った上で入る者はいないと思う。
私は世代的に旧軍を知るものではないが、旧軍に比べると自衛隊というのは根本的に進化した組織で、簡単には比較できないと思う。
とはいうものの、その主とする舞台、つまり陸上を主とするか、海上を主とするか、空を主とするかという場面で、それぞれ根源的に相通じる部分はあるので、それが伝統のようなものを引きづることはいた仕方ないと思う。
ただ自衛隊と言いつつも、それは戦争を想定した組織であることは間違いなく、戦争を想定して国を守るという部分で、国民の合意がないことには国を守るということ自体が成り立たないことは論をまたない。
自衛隊が国を守るという場面で、自国防衛の専門的な行動は自衛隊に任せるが、それをするにおいても後ろで国民的な合意がないことには、それさえもできないわけで、そこが今日の最大の問題だと思う。
国を守るということにおいても、国民の間には大きなコンセンサスの相違があるわけで、このコンセンサスの相違が一つに収斂されてこなければ、自衛隊がいくら専門知識をもった集団であったとしても、それを生かすことができない。
そのことは、自衛隊自身よりも国民の側に国を守るという意義と、意味と、意識が醸成されないことには、成り立たないことだと思う。
今の日本国憲法は、その第9条で戦争放棄をうたい、紛争解決のためには武力を行使しない、ということを内外に宣言しているわけで、これを崩すということは日本人の誰一人考えていないと思う。
自衛隊はもちろんのこと、かなり右傾化した人でも、憲法を改正して紛争解決のために武力行使を是認しようなどと考えている人はいないはずである。
にもかかわらず、この憲法の9条を少しでも触ると、すぐにでも自衛隊が戦争をおっぱじめるというような論調になるが、こういう無知、あるいは荒唐無稽な論理が国を守るというときに最大の障壁になるのである。
憲法9条を少しでも触ると、自衛隊がすぐに戦争をおっぱじめるにちがいない、という憶測に陥るということは、あまりにも日本国民、強いて言えば自分の同胞をばかにした話だと思う。
完全に悪意に満ちた詭弁でしかないわけで、それを知識人というような人が、真顔で口にすべきことではないはずである。
今の人間の生き方というか在り方を見てみると、地球上の人々は国境を越えて相互に行き来して、地域的にはそれぞれに様々な人々が混在して生きている。
日本にいる外国人、海外に出ている日本人、その有様を見ると、もう第2次世界大戦のような国と国の戦争というのは成り立たないようにみえる。
中国の人も、韓国の人も、北朝鮮の人も、ロシアの人も、アメリカ人も、日本にいるわけで、そこに古典的な先制攻撃、奇襲作戦で日本を攻撃をすれば、自分の国の国民を巻き込んでしまうわけで、そういうことはありえないと思う。
ここで日本の平和ボケの人々は、「ならば自衛隊はいらないではないか」という論議になるが、そこが無知であり、能天気な部分である。
戦争というのは映画やテレビドラマのように鉄砲を撃ちあってドンパチを演ずるものばかりではない、ということを知るべきである。
主権国家というのは、それぞれに主権をもっているわけで、この主権の侵害ということは、直接には国民の生命財産に影響を及ぼすものではないが、犯された主権は断固として抗議しなければならないわけで、それを怠るとだんだんとその侵害が拡張してくるものである。
卑近な例で示せば、隣家との境界線をあいまいにしておけば、隣家はどんどんと自分の土地に入ってくるのと同じで、その境界はきちんと話し合って決めておかなければならない。
この話し合いが紳士的に行われて、双方で納得できる解決に至れば問題はないが、その過程で、こちらが弱腰で安易に妥協する気配を相手が察知すれば、ごり押しされるのが落ちである。
そこで、こちらの強い意志を表明すれば、相手もことを荒だ立てては損だ、という認識に至り、妥協する気にもなる。
これこそが外交の妙であるが、こういう外交が成り立てば、血で血を洗う戦争というのは回避される。
こういう外交を成立させるためには、国民の側に自分の国は自分で守る、主権侵害は断固拒絶するという盤石な信念がないことには、その外交そのものが成り立たないわけで、そのためにも実行能力としての自衛隊をフォローする国民的コンセンサスが必要になる。
話し合う場、いわゆる外交の場でも、衣の下に鎧を隠して臨まねばならないのである。
話し合い場で、表面的にはお互いに衣を着てその場に臨んでいるが、その衣の下に鎧が見え隠れするのとでは、会議の雰囲気が随分とことなると思う。
主権の侵害などということは、国民の日常生活には縁遠いことなわけで、国民の側としては、そんなものはくれてやってもいいではないか、ということになりがちであるが、それこそ亡国の思想である。
我々は今非常に恵まれた環境の中で生きているが、これは我々日本人だけの力で築きあげたわけではない。
日本を取り巻くすべての国が、日本に物を売り、日本から物を買う状況を維持してくれたから今日があるわけで、そういう環境に抱かれた日本は、アメリカにつぐ経済大国になったが、そのことは同時に大きな格差を生むことでもあった。
第2次世界大戦が終わった時点では、世界の国々は皆同じスタートラインに並んだような状況であった。
ただアメリカ一国は世界唯一の戦勝国として突出していたが、他の国々はそれこそ無からのスタートで、その意味では皆同じスタートラインであったと言わなければならない。
それから63年後には今日見るような格差が出来てしまったわけで、それは一重に日本が自ら国を守ることに金を掛けてこなかったことも大きな原因ではあろう。
自ら自分の手で自分の国を守るということは、普通の国ならばそれこそ普通の認識なわけで、それを我々は普通にしてこなかった。
自分の国を守るということをアメリカに一任してしまったわけで、その意味では、我々はアメリカの属国という位置付けで甘んじてきたことになる。
アメリカの属国であったとしても、我々の戦後63年間というものは、良き時代であったわけで、国民の一人一人は自分がアメリカ人の奴隷の位置にいるなどということを意識せずに済んできた。
考えてみれば、63年前に我々が車を持てる生活などというものは想像さえできなかったわけで、そのことを考えれば、この世がこれからもずっと続くことを願う気持ちもわからないではない。
しかし、日本の経済力がアメリカにつぐ世界第2の大国になったとすれば、その国力に応じた世界貢献を求められるのも当然の成り行きではある。
日本の戦後の発展が、世界の平和と安定の賜物であったとすれば、それに対して何らかの返礼的な意味の世界貢献を求められるのも当然のことである。
今世界で緊急の課題は、経済の格差に依拠する不平不満の発露としてテロに訴える過激派の存在である。
その背景には、宗教が大きく作用していることはいなめないが、そういう動きに対して、日本が貢献できる分野は基本的には日本の知識人の非戦の説得でなければならない。
テロという実力行使に対して、その無意味さを相手に説き、テロという手段を使わずに話し合いのテーブルに着くように相手を説得することである。
ところが相手はそういう説得に応じる相手ではないわけで、ここで血の応酬が繰り返されることになる。
日本の知識人の反戦運動、非戦の運動というのは、日本の国内だけの運動であって、それはまさしくお釈迦様の手のひらで大暴れして悦に入っている孫悟空のようなもので、日本以外では何の神通力も発揮できないでいる。
日本の知識人の言うこと成すことが世界に通用しないということは、彼らの言っていることが普遍性をもっていないということで、世界的な視野で見れば間違っているからである。
世界は明らかに弱肉強食、優勝劣敗の厳然たる事実の中で動いているわけで、理想、理念という夢を食う獏ではなく、現実の利害得失で動いているのである。
だからこそ格差が生じるのであって、理念、理想を建前とした社会主義は完全に否定されたではないか。
人間が自由に生きようとすれば、結果的に富めるものとそうでないものが必然的に生まれる。
今、テロを繰り出している国、あるいは地方というのは、いわゆる低開発国である。
もっとわかりやすい表現をすれば野蛮国である。
アフガニスタンにしろ、イラン、イラクにしろ、北朝鮮にしろ、開発から取り残された地域で、なぜ開発から取り残されたかと問えば、それは彼ら自身の選択であったわけだ。
宗教が近代化を自縛しているとすれば、その自縛を説くのは彼ら自身の問題なわけで、他者の所為にしてはならないはずだ。
ビンラデインがアメリカを憎むのはおかど違いである。
日本が第2次世界大戦に敗北して、その後憲法で戦争放棄を盛り込んだのは、我々自身の選択であったわけで、最初はアメリカの強要という部分もあったが、それにもかかわらずそれ維持し続けたのは我々、日本民族の英知であった。
我々は、第2次世界大戦の敗北を、我々の政治の失敗だったと明らかに自覚し、反省して、再びそういう失敗をしてはならないと肝に銘じて生きてきたわけだが、日本を取り巻くアジアの国々には、そういう反省をしていないところもある。
中国でも韓国でも、日本がアジアで悪いことをしたという認識であるが、自分達がそれを許した、自分達が怠惰であった、自分達が無知であった、という反省は一言もないわけで、被害者意識のみが旺盛で、それを乗り越えようという自意識は極めて希薄である。
すべてを他者の所為にするところは極めてアジア的というか、傲慢というか、未開な部分だと思う。
中国にしろ、韓国にしろ、彼らの潜在意識からすれば、日本が経済発展するということは、身の毛のよだつような嫌悪感にさいなまれると思う。
彼らの日本蔑視の意識は、有史以来刷り込まれているわけで、日本が経済的に成功するということは、かれらの潜在意識を逆なですることだと思う。
よって、日本が戦争放棄して、自分の方からは決して手を出しませんといえば、彼らはいい気になってチョッカイを出してくるのである。
こちらが弱みを見せればすぐに増長するわけで、これは彼らの本質であって、彼らの自然の姿である。
大昔からの遺伝子なわけで、それが良いとか悪いという議論は成り立たないはずである。
こういう民族の確執というのは、地球上にいくらでも転がっているわけで、それがテロを生む温床でもある。
日本の知識人とマスメデイアは、日本の非戦あるいは反戦の思想を、そういう人々に対して熱心に説くべきで、その意味で彼らは怠惰だと思う。
「井戸の中の蛙」で自分の井戸の中で大合唱をするのみで、他に対しては何の影響力も行使していない。
戦後63年間も平和な時代に暮らしていると、戦争というものの本質を見失いがちである。
あの戦争中でさえも、戦争の本質を見失っていた軍人がいたことを考えると、戦争を考えるということは、人間の思考を掘り下げて考えるということだと思う。
あの大戦争の中で、陸軍と海軍が仲が悪かったという事実は、どう考えたらいいのであろう。
一言でいえば、究極のセクショナリズムで、陸軍の戦争であり、海軍の戦争であったわけで、陸軍や海軍の枠をはずして、何が何でも勝つという意識に欠けていうたということだと思う。
アメリカが敵である前に、海軍が敵であり、陸軍が敵であったわけで、同胞同士が敵対していたということではなかろうか。
陸軍でも海軍でも、戦争をリードしたのはそれぞれのエリートであったわけで、そのエリートがセクショナリズムで戦争を私物化した結果が、完膚なきまでの敗北であったわけだ。
だとすれば、このエリートはどこがどういうふうにエリートだったのか、ということを問い直さなければならない。
国民を塗炭の苦しみに追い込んだのが軍人エリートであるとするならば、生き残った国民は、そういう元の軍人エリートからそれに見合う対価を返してもらわなければならないのではなかろうか。
この著者、元防衛庁長官中谷元氏も、防衛大学校を卒業した元自衛官であるが、この防衛大学校も創立してすでに53年、半世紀以上を経ているわけで、ここで平成の軍人エリートが養成されていることは論をまたないが、問題は半世紀以上にわたる歴史の積み重ねである。
卒業生の中には、当然、組織のトップに上り詰めた人もいるに違いなかろうが、エリート養成機関に入り、そのままその組織の延長に居残るということは、それこそ「井戸の中の蛙」的な発想に陥る可能性がぬぐえない。
要するに、外からの新鮮な空気の入れて、よどんだ空気を排除する機能をもたせなくてもいいか、空気の入れ替えをしなくても大丈夫か、という危惧である。
こういう特殊な集団は、長い年月の間には、やはりそれ相当の独自の社会を形作るのが普通であって、中身の新陳代謝が活発であれば、そういうことも心配する必要はないが、それがあるかないかは外からはわからないわけで、そこが心配の種ではある。
旧軍における海軍兵学校でも陸軍士官学校でも、ある意味で軍人の純粋培養の機関であったわけで、そういう所で純粋培養された人たちが、無謀な戦争に駆り立てたわけで、そういう場所で純粋培養させれていたからこそ、世界の動きを見誤り、西洋列強、特にアメリカの罠に見事にはまってしまったわけである。
このアメリカの罠が見抜けなかったというところが、当時のエリートの底の浅さである。
そして中国戦線では、日本軍が時の声を挙げて突撃すれば相手は一目散に逃げるが、ここでも相手の本質を知らなったばかりに、それが相手の作戦であったということに負けるまで気がつかなかった。
これで戦争のプロといえるであろうか。
あの戦争中は、日本人の誰も彼もがこういう無能な軍人エリートを崇めていたわけで、結果として日本が負けるのは当然のことであった。
とはいうものの、この愚挙の責任は、むしろメデイアが負わなければならない。
昔も今も、メデイアというのはあくまでも狼少年であって、それ以上でも以下でもない。
「狼が来る、狼が来る」と騒ぎ立てるだけの役目であって、ことの責任を負うものではないわけで、人々はメデイアに情報を漏らしてはならないのである。
またメデイアの煽ることを信用してはならないのである。
メデイアというのは、どこまで行ってもインテリやくざ・狼少年の枠を出るものではなく、メデイアに信を置いたり、真に受けたり、追従していては結局は身を破滅させる。
情報公開というのは、こういうインテリやくざが自分達の商いをしやすいようにする我田引水の方策であって、善良な市民は決してメデイアの言うことに踊らされてはならない。
メデイアに対しては、徹底的に見ざる、聞かざる、言わざるに徹すべきで、信用してはならない。
メデイアが世論を喚起するということは、メデイアの思う通りに世間が動いた時は、そういう啓蒙を吹聴するが、あの戦争中に日本人の全てが軍国主義に陥ったのは、当時のメデイアがそれを煽りに煽ったからであって、見事にメデイアの啓蒙にのせられたわけである。
あの戦争が勝利していれば、メデイアの啓蒙運動は見事に功を奏したことになるが、敗北となった時、メデイアはどういう対応をしたか深く考えて見るべきである。
軍国主義華やかなときは、軍部のちょうちん持ちの記事で飾り、戦争が失敗だったとなると、手のひらを返したように糾弾するわけで、メデイアというのはこのように実に日和見なわけである。
その時々、あるいは場所に応じて、一見もっともなことを言っているように見えるが、結局は嘘を言っているわけで、我々はそれに騙されてはならない。
メデイアの取材には嘘で応えるべきである。
国を守るという場合も、如何にメデイアをコントロールするかということも実に重大なことで、今の日本のメデイアにかかったら売国奴さえも英雄になりかねない。
国家機密、軍事機密を守るということになれば、明らかにメデイアとは対立する関係になるわけで、ゆめゆめ油断は許されない。
メデイアが自分たちの体制、政府に協力的でなければ国を守るということは成り立たない。
先の大戦でも当時のメデイアは完全に軍の妾の地位に甘んじており、軍国主義を吹聴しまくり、兵士たちを戦場に送りだし、軍国の母を褒め称えてきたわけで、軍人エリートのミスリードに油を注いで来たではないか。
こういうメデイアの国威啓蒙運動、ないしは軍国主義賛歌に押されて、当時の日本の若者は戦場に尽き、若い命を落としていったわけで、だからこそ日本はあそこまで戦えた。
あの戦いの世界的評価は、日本軍の高級将校は世界一バカだったが、日本軍の下部の方の兵士たちは実に立派な戦いをしたというものである。
やはり世界の目は現実を素直に直視している。
戦いの結果は敗北であったが日本の兵隊は善戦したということは言える。
が、トップの方の将官連中は、世界でも最低の将官であり、最低の参謀であったわけだ。
戦争に負けたことがその立派な証明である。