例によって図書館の本で「大声小声」という本を読んだ。
上坂冬子と曽野綾子の対談集である。
私はどうも自分が馬鹿ではないか、と前々から思っていたが果たして本物のようだ。
というのは、なんとなくこの本は前に読んだ気がしたので、自分のブログを遡って調べてみた。
ところが、ちょっと見た限りでは無いようであったが、代わりに全く思ってもみなかった本がダブっていた。
「戦後っ子」という本は2度もアップしているが、自分では前に読んだという記憶が全くない。
だから論評も全く違うものが2度もアップされていた。
前に読んだ記憶がないのだから、思うことも全く別々なわけで、その間には何の関連性もない。
一度読んだ本のことを何も覚えていないということは、読まなかったというに等しいわけで、ただただ時間の空費にすぎない。
実に情けない話だ。
で、この本は、以前読んだ気がしたがそうではない、ということがわかるとがぜん面白くなって、一気に読み通してしまった。
彼女ら自身が「もの書き界のイクヨ・クルヨ」と自認するだけあって、まさしく漫才のボケと突っ込みである。
読む者を抱腹絶倒させる。
しかし、それは言葉のやりとりの間のことであって、彼女たちの思考は決してそんなうわついた軽佻浮薄なものではない。
今の日本の中で一番の中道というものだと思う。
右にも振れず、左にも振れていない中道というか、中庸というべきか、最もまともな常識の線だと思う。
ただ、この両名は昭和ひとケタ生まれということもあって、昭和史抜きではものが語れないわけで、その中でも上坂氏は政治の視点から物事を眺め、曽野氏は宗教を軸に物事を眺めているという違いはある。
視点の位置の違いはあっても、目の前の現象を、自分の目で見、自分の脳で考え、自分の思考を形つくるという意味では、極めて大人というか、自立したというか、自信と誇りが感じられる。
自分の考えをしっかり持てば、他人の考えとは相いれない場面も当然出てくるわけで、そういう場面でどういう対応をするか、でその人の器量が図れると思う。
上坂氏は昭和史を書き語る中で、ああいう体制の中でさえ人命を大事にし、下々の人々に光明を与えようとした無名の人を題材にしているので、ともすると戦争を肯定しているように受け取られている。
ところが、こういう決めつけがあの戦争を引き起こした遠因でもある。
反戦平和を唱える人々が、こういう一方的な思い込みでスローガンを叫びたてる構図は、明らかに観念論なわけで、「観念ではものごとが解決しない」ということを言うと、右翼と決めつけるのは偏狭な思考である。
この両名は、日本の知性を代表するような女性で、そういう視点から我々の政府や、行政の在り方を見れば、異議申し立てしたいことは山ほどあるに違いない。
行政や官僚のすることには、一事が万事、気にくわないことが多かろうと思う。
ところが、そういう不満不平を言う場と時にもTPOというものがあるわけで、ただただ人を集めて徒党を組んで、自分たちの行動をこれ見よがしにアピールしても意味がないわけで、そういう意味で、極めて常識人だということがいえる。
「日本の常識は世界の非常識で、世界の非常識は日本の常識」といわれているが、この両名の言っていることは、日本の常識と世界の常識が相似となり、世界の非常識が日本の非常識と相似となることを狙っているわけで、日本と世界の常識のねじれを正そうとするところにある。
この日本と世界の常識のねじれ、というのはもっともっと深く考察してもいいところだと思う。
その最大のポイントは、我々、日本国民の基軸であるところの憲法に立ち返ると思うが、憲法などというものは、下々の人間にとっては、有ってもなくても生きていくうえに何の支障もない。
現に我々は、戦勝国よりおし頂いた憲法で以って、半世紀以上生きてきたわけで、この現実から見て、憲法があろうがなかろうが、人々は生きていけるわけである。
だったら、今あるものをわざわざ改正して、新たに物議をかもしだすよりも、ソッとしておいた方が良いではないか、となりがちである。
ところがこういう発想は世界では通用しないわけで、憲法が国民の規範を示すものであるとするならば、それは時の経過とともに変えて、常に時代状況にあったものにしておかねばならない、というのが世界の普遍的な思考である。
憲法というものが「国民の規範を示すもの」という部分では共通認識であるが、「ならば時代状況に合わせるべきだ」、「いやだからこそ不変なものとすべきだ」、という点で見解が正反対になるのである。
ただ我々が今頂いている憲法は、押し付けであることには間違いがないが、その中には、あの過酷な戦いを経たその反省として、人類の理念、悲惨な戦争は繰り返してはならない、という人類の希求に近い願望が刷り込まれていることは確かで、護憲派と称する人々はそれを守ろうとしていうことはよく理解できる。
「悲惨な戦争をもうこれ以上繰り返してはならない」という理念は、今生きている人間にすれば当然の希求であるが、それはあくまでも理念であって、絵に描いた餅ということも厳然たる事実である。
現に、あの悲惨な戦争を経験した後でも、同じような悲惨な戦争を懲りることもなく繰り返しているわけで、それは人類の業のようなものであって、解っていても止められないというのが、現実の人間の姿である。
今の日本の状況を鑑みるに、護憲派といわれる人々の方が、はつらつと活躍しているように見えるが、それは理念を追い求めるというポーズが如何にも理性的で、目の前の困難をものともせずに立ち向かう勇気をたたえ、未来の僥倖にまい進する図に見えるからであって、夢追い人を想定させるからであろう。
ところが、人間というのは夢を食う獏ではないわけで、社会的なシステムを維持しつつ、そのシステムの中で相互依存しつつ、自分の立場持ち場で社会的貢献をしながら生きているわけで、人が現実に生きるということは、夢追い人ではやっていけないわけで、否応なく、現実を直視した堅実な生活を実現しなければならない。
夢追い人のままでいたい、という人たちが、世界的な見地から見て、非常識な論旨を展開するわけで、この部分が世界の常識を否認する根拠でもある。
この本の主役の「もの書き界のイクヨ・クルヨ」と自認する才媛たちは、こういう場面で極めて中道を歩んでいるわけで、その態度には好感がもてる。
人がものを言う、人がものを書くという場合、それは自分の持ち場立場の視点から物を見、それに基づいてものを言い、ものを書くわけで、物を見る視点というのは各人各様に違っている。
こういう状況下で発言しようとする人は、言うまでもなく資本主義社会の中で生きているわけで、資本主義社会の中で生きるということは、自分の生きる糧は自分で得なければならない。
つまり自分で稼がなければならないわけで、その意味で、評論家とかもの書きという人々も、売れる作品、つまり読者が興味を持って買ってくれる作品を目指さなければならない。
この段階で、如何なる言い方、あるいは表現をすれば大衆に受け入れられるか、という意図が測られるのは当然のことで、その判断のもと大衆に受け入れやすい時流に迎合するのである。
一旦、その時流という潮の目を探りあてれば、それが自分のスタンスとなり、自分の視点となり、後はどういう風にでもそれに枝葉を付ければ食いはぐれることがない、というのが評論家やもの書きの生き方なのであろう。
だから戦後の評論家や知識人の書いた評論には、自分自身の潜在意識、つまり本音というのはあまり表面化せずに、食わんがための姑息な売文的な内容のものが出まわり、それを受け取る大衆や、国民、庶民の側は、書かれた評論や論評の肩書に感動して、その肩書に酔いしれていたに違いない。
つまり、朝日新聞の論説委員が書いたものだから正しい、東大の教授が言っているのだから正しい、早稲田の先生が書いたものだから正しい、こういう調子でその評論や論文の中身を自分で検証することなく、書いた人の肩書に惚れて、「だからそういう説は正しいのだ」という思い込みに浸っていたに違いない。
これはそのまま軍国主義時代の我々の在り方と同じなわけで、戦後といえども、あの敗戦の教訓は何一つ得ていないということに他ならない。
言ったり、書いたりする人の肩書が変わっただけのことで、そういうものをありがたく押し頂くわれわれ庶民の側の思考は何一つ変わっていないということである。
そういう背景を斟酌すると、この両名の才媛の言っていることは、特別に勇ましい事を言っているわけではない。
普通のことを普通に語っているだけであるが、問題は、この普通のことが今の日本では普通でないところにある。
革新的な人がいう自由、平等、博愛というのが、自分の都合によって都合のいいところだけ切り取って、それをことさら強調し、声高に叫ぶ風潮に一矢報いているだけのことで、そういう人たちに同調しないところが周りの者からすると勇ましく見える。
この世の諸悪の根源は、私に言わしめればメデイアにあると思う。
メデイアというのは、かならずしも真実を伝えるものではなく、情報操作ということが当然のこと付随しているわけで、それは情報を発信する前の段階から機能している。
武田信玄が「自分の死を隠すように」と言ったのとおなじで、情報を出すか出さないからというところからメデイアの戦いは始まっているわけで、今を生き抜くためには、メデイアを如何にコントロールするかは極めて重要な処世術だと思う。
メデイアも、先に記したもの書きや評論家と同じで、自らの生存のために、大衆、消費者、視聴者、購読者に受け入れられるものを提供しなければならないわけで、その意味でも、真実や、正しい事や、正義を提供しているわけではない。
しかし、メデイアにとって「これは嘘ですよ」、「これは間違っているよ」、ということは自らの口から言えないわけで、自分たちの報じている内容は、すべて正しく、真実で、嘘偽りはないというポーズが不可欠である。しかし、大衆の側はメデイアの報じる内容は正しくて、正確で、嘘偽りはないと思い込んでいるわけで、ここに大きなギャップがあるから現実と理想の乖離が大きくなるのである。
理想を述べるということは、まだ見ぬものを語るわけだから、真実も嘘もあり得ない。
ところが現実というのは、目の前に転がっているわけで、その目の前にあるものを、上から見るのか、下から見るのか、横から見るのかで、同じものでも印象がずいぶん変わるはずである。
メデイアはそれを上からも見、下からも見、横から見てそのまま報道するが、それで全体像が理解できるわけではない。
その一つ一つが真実で嘘偽りはなかろうとも、それをいくら並べても全体像を理解するには至らないのである。
「メクラが像を撫ぜる」という言葉があるが、まさしくメデイアと大衆の間はあれと同じで、像の尻尾を撫ぜたメデイアはその印象で以って「像はこういうものだ」と大声で叫ぶ、像の鼻を撫ぜたメデイアは、その印象で以って「像はこういうものだ」と大声で叫ぶ、メデイアと庶民の関係はこれと同じだと思う。
さまざまなメデイアのさまざまな情報から全体像を積み上げ、それに基づいて国のかじ取りをするのが政治家であり、そのさまざまな情報から全体像を描き出すのが、本来ならば学問の府としての大学でなければならないと思う。
今の大学にそこまで求める事が可能かどうかは定かに知らないが、そのせいかどうかシンク・タンクというものがあり、そこで情報分析が行われているようだが、メデイアというのは、この例から見てもわかるように極めて無責任な存在である。
戦後の一時期、左翼運動が盛んで、反政府運動や反体制運動というのが盛んな時期があったが、その状況をつぶさに見るにつけ、われわれの同胞は如何に扇動に弱いかということである。
ああいう運動の中で、自ら率先して活動の輪に飛び込んで行った連中は、戦時中の特攻隊員と同じ精神構造であったのではないかと思う。
ともに「大義のために」という意識があったはずで、その部分で全学連の戦闘的な闘士と、戦時中の特攻隊員は通じるものがあるように見える。
問題は、この大義が時代によってその価値観が180度転換してしまったので、表面的に見ると全く相いれないように見えるが、その深層心理の部分では同じものではないかと思う。
ともにメデイアに踊らされて、メデイアの言わんとすることの先を行こうとし、大義を率先垂範することに誇りを感じ、大義に殉じることに意義を感じるような、純真さであったわけで、そこにメデイアを疑うことを知らない若者の潔癖さがあるように見える。
戦前、戦中では、そういう若者を惹きつけた要因の一つが当時のメデイアの報ずる軍国主義と国威掲楊であり、戦後はこれが左翼の革命思考になったが、ともにこれからの日本を良くするという点では一致している。
戦後の若者が惹かれた左翼思想というのは、基本的には共産主義で、日本の共産主義者の後には旧ソビエット連邦や中国共産党の支援があったことは確かで、戦後の若者がそういう思想に惹かれたのは、戦中の思想弾圧の反動でもあったに違いない。
一種の揺り戻しという面があったに違いなかろうが、それはある意味で大人の責任でもある。
大人の責任といった場合、「勝つ!勝つ!」と言いながら戦争遂行して、蓋を開けたら負けていたという現実が大きく作用していることは言うまでもない。
そういう現実を見せつけられて、その時に大人や青年であった世代が、同胞の政府や、行政や、社会を信じられないという思いも無理からぬことではあったに違いない。
まるまる政府に嘘をつかれていたわけで、そういう同胞の政府が信じられないというのも無理からぬ話ではある。
政府に騙され、国に騙されてきた過去を鑑みるに、そういう体制を作ってはならない、共産主義を基調とする完全なる平等社会をつくらねばならない、という理念に燃えるのも心情的には理解できる。
だが、そういう理念を掲げるスローガンに酔いしれて、一途にそういう道を突き進むということは、ほんのちょっと前に軍国主義にまい進したのと同じ構図に嵌り込む、というところまで知恵がまわらなかったということでもある。
考えなければならないことは、この「日本を良くする」というフレーズで、こういうスローガンを掲げるとそれが大義になり替わってしまい、それに付随する行為には、正当性がついてくるに違いない、という当事者の思い込みである。
戦前の若手将校のクーデターから、戦後の全学連の反体制運動の闘士まで、「大義のためならば何をやっても許されるに違いない」、という当事者の勝手な思い込みである。
どうして優秀な若者たちがこういう過ちに気がつかなかったかというと、彼らは優秀なるがゆえに自己のアイデンテイテーをしっかり持っているので、自分に迫ってくるメデイアをきちんと選別するわけで、この選別ということが偏向につながっていたからである。
自分の感性に合うものだけを受け入れるので、他の視点を見失うことになる。
それが高じて偏狭な思考になってしまって、他に対する寛容さを失ってしまい、より深みに嵌り込んでしまうということになる。
この「もの書き界のイクヨ・クルヨ」が極めて中道的な思考にあるということは、彼女たちが世界を駆けまわって、メデイアに頼らない情報に接しているからではなかろうか。
自分の目で確かめた情報というのは、これほど確かものもないわけで、そういうものの蓄積があるから、人の意見に惑わされることなく、自分の考えというものをはっきりと打ち出せるのであろう。
メデイアの提供する情報というのは、その情報を出すか出さないかという点にさえ、メデイア側の意図が作用するわけで、メデイアを通じて情報を得ている我々は、報じられなかった情報を考察することができないのは言うまでもない。
その意味でもメデイアに頼るということは危ない事なわけである。
だが、われわれ凡俗な人間は、そこまで深読みする必要はないが、この世の中の面白さというのは、本当のところはそういう部分を解き明かすところに真の知的好奇心が赴く。
上坂冬子と曽野綾子の対談集である。
私はどうも自分が馬鹿ではないか、と前々から思っていたが果たして本物のようだ。
というのは、なんとなくこの本は前に読んだ気がしたので、自分のブログを遡って調べてみた。
ところが、ちょっと見た限りでは無いようであったが、代わりに全く思ってもみなかった本がダブっていた。
「戦後っ子」という本は2度もアップしているが、自分では前に読んだという記憶が全くない。
だから論評も全く違うものが2度もアップされていた。
前に読んだ記憶がないのだから、思うことも全く別々なわけで、その間には何の関連性もない。
一度読んだ本のことを何も覚えていないということは、読まなかったというに等しいわけで、ただただ時間の空費にすぎない。
実に情けない話だ。
で、この本は、以前読んだ気がしたがそうではない、ということがわかるとがぜん面白くなって、一気に読み通してしまった。
彼女ら自身が「もの書き界のイクヨ・クルヨ」と自認するだけあって、まさしく漫才のボケと突っ込みである。
読む者を抱腹絶倒させる。
しかし、それは言葉のやりとりの間のことであって、彼女たちの思考は決してそんなうわついた軽佻浮薄なものではない。
今の日本の中で一番の中道というものだと思う。
右にも振れず、左にも振れていない中道というか、中庸というべきか、最もまともな常識の線だと思う。
ただ、この両名は昭和ひとケタ生まれということもあって、昭和史抜きではものが語れないわけで、その中でも上坂氏は政治の視点から物事を眺め、曽野氏は宗教を軸に物事を眺めているという違いはある。
視点の位置の違いはあっても、目の前の現象を、自分の目で見、自分の脳で考え、自分の思考を形つくるという意味では、極めて大人というか、自立したというか、自信と誇りが感じられる。
自分の考えをしっかり持てば、他人の考えとは相いれない場面も当然出てくるわけで、そういう場面でどういう対応をするか、でその人の器量が図れると思う。
上坂氏は昭和史を書き語る中で、ああいう体制の中でさえ人命を大事にし、下々の人々に光明を与えようとした無名の人を題材にしているので、ともすると戦争を肯定しているように受け取られている。
ところが、こういう決めつけがあの戦争を引き起こした遠因でもある。
反戦平和を唱える人々が、こういう一方的な思い込みでスローガンを叫びたてる構図は、明らかに観念論なわけで、「観念ではものごとが解決しない」ということを言うと、右翼と決めつけるのは偏狭な思考である。
この両名は、日本の知性を代表するような女性で、そういう視点から我々の政府や、行政の在り方を見れば、異議申し立てしたいことは山ほどあるに違いない。
行政や官僚のすることには、一事が万事、気にくわないことが多かろうと思う。
ところが、そういう不満不平を言う場と時にもTPOというものがあるわけで、ただただ人を集めて徒党を組んで、自分たちの行動をこれ見よがしにアピールしても意味がないわけで、そういう意味で、極めて常識人だということがいえる。
「日本の常識は世界の非常識で、世界の非常識は日本の常識」といわれているが、この両名の言っていることは、日本の常識と世界の常識が相似となり、世界の非常識が日本の非常識と相似となることを狙っているわけで、日本と世界の常識のねじれを正そうとするところにある。
この日本と世界の常識のねじれ、というのはもっともっと深く考察してもいいところだと思う。
その最大のポイントは、我々、日本国民の基軸であるところの憲法に立ち返ると思うが、憲法などというものは、下々の人間にとっては、有ってもなくても生きていくうえに何の支障もない。
現に我々は、戦勝国よりおし頂いた憲法で以って、半世紀以上生きてきたわけで、この現実から見て、憲法があろうがなかろうが、人々は生きていけるわけである。
だったら、今あるものをわざわざ改正して、新たに物議をかもしだすよりも、ソッとしておいた方が良いではないか、となりがちである。
ところがこういう発想は世界では通用しないわけで、憲法が国民の規範を示すものであるとするならば、それは時の経過とともに変えて、常に時代状況にあったものにしておかねばならない、というのが世界の普遍的な思考である。
憲法というものが「国民の規範を示すもの」という部分では共通認識であるが、「ならば時代状況に合わせるべきだ」、「いやだからこそ不変なものとすべきだ」、という点で見解が正反対になるのである。
ただ我々が今頂いている憲法は、押し付けであることには間違いがないが、その中には、あの過酷な戦いを経たその反省として、人類の理念、悲惨な戦争は繰り返してはならない、という人類の希求に近い願望が刷り込まれていることは確かで、護憲派と称する人々はそれを守ろうとしていうことはよく理解できる。
「悲惨な戦争をもうこれ以上繰り返してはならない」という理念は、今生きている人間にすれば当然の希求であるが、それはあくまでも理念であって、絵に描いた餅ということも厳然たる事実である。
現に、あの悲惨な戦争を経験した後でも、同じような悲惨な戦争を懲りることもなく繰り返しているわけで、それは人類の業のようなものであって、解っていても止められないというのが、現実の人間の姿である。
今の日本の状況を鑑みるに、護憲派といわれる人々の方が、はつらつと活躍しているように見えるが、それは理念を追い求めるというポーズが如何にも理性的で、目の前の困難をものともせずに立ち向かう勇気をたたえ、未来の僥倖にまい進する図に見えるからであって、夢追い人を想定させるからであろう。
ところが、人間というのは夢を食う獏ではないわけで、社会的なシステムを維持しつつ、そのシステムの中で相互依存しつつ、自分の立場持ち場で社会的貢献をしながら生きているわけで、人が現実に生きるということは、夢追い人ではやっていけないわけで、否応なく、現実を直視した堅実な生活を実現しなければならない。
夢追い人のままでいたい、という人たちが、世界的な見地から見て、非常識な論旨を展開するわけで、この部分が世界の常識を否認する根拠でもある。
この本の主役の「もの書き界のイクヨ・クルヨ」と自認する才媛たちは、こういう場面で極めて中道を歩んでいるわけで、その態度には好感がもてる。
人がものを言う、人がものを書くという場合、それは自分の持ち場立場の視点から物を見、それに基づいてものを言い、ものを書くわけで、物を見る視点というのは各人各様に違っている。
こういう状況下で発言しようとする人は、言うまでもなく資本主義社会の中で生きているわけで、資本主義社会の中で生きるということは、自分の生きる糧は自分で得なければならない。
つまり自分で稼がなければならないわけで、その意味で、評論家とかもの書きという人々も、売れる作品、つまり読者が興味を持って買ってくれる作品を目指さなければならない。
この段階で、如何なる言い方、あるいは表現をすれば大衆に受け入れられるか、という意図が測られるのは当然のことで、その判断のもと大衆に受け入れやすい時流に迎合するのである。
一旦、その時流という潮の目を探りあてれば、それが自分のスタンスとなり、自分の視点となり、後はどういう風にでもそれに枝葉を付ければ食いはぐれることがない、というのが評論家やもの書きの生き方なのであろう。
だから戦後の評論家や知識人の書いた評論には、自分自身の潜在意識、つまり本音というのはあまり表面化せずに、食わんがための姑息な売文的な内容のものが出まわり、それを受け取る大衆や、国民、庶民の側は、書かれた評論や論評の肩書に感動して、その肩書に酔いしれていたに違いない。
つまり、朝日新聞の論説委員が書いたものだから正しい、東大の教授が言っているのだから正しい、早稲田の先生が書いたものだから正しい、こういう調子でその評論や論文の中身を自分で検証することなく、書いた人の肩書に惚れて、「だからそういう説は正しいのだ」という思い込みに浸っていたに違いない。
これはそのまま軍国主義時代の我々の在り方と同じなわけで、戦後といえども、あの敗戦の教訓は何一つ得ていないということに他ならない。
言ったり、書いたりする人の肩書が変わっただけのことで、そういうものをありがたく押し頂くわれわれ庶民の側の思考は何一つ変わっていないということである。
そういう背景を斟酌すると、この両名の才媛の言っていることは、特別に勇ましい事を言っているわけではない。
普通のことを普通に語っているだけであるが、問題は、この普通のことが今の日本では普通でないところにある。
革新的な人がいう自由、平等、博愛というのが、自分の都合によって都合のいいところだけ切り取って、それをことさら強調し、声高に叫ぶ風潮に一矢報いているだけのことで、そういう人たちに同調しないところが周りの者からすると勇ましく見える。
この世の諸悪の根源は、私に言わしめればメデイアにあると思う。
メデイアというのは、かならずしも真実を伝えるものではなく、情報操作ということが当然のこと付随しているわけで、それは情報を発信する前の段階から機能している。
武田信玄が「自分の死を隠すように」と言ったのとおなじで、情報を出すか出さないからというところからメデイアの戦いは始まっているわけで、今を生き抜くためには、メデイアを如何にコントロールするかは極めて重要な処世術だと思う。
メデイアも、先に記したもの書きや評論家と同じで、自らの生存のために、大衆、消費者、視聴者、購読者に受け入れられるものを提供しなければならないわけで、その意味でも、真実や、正しい事や、正義を提供しているわけではない。
しかし、メデイアにとって「これは嘘ですよ」、「これは間違っているよ」、ということは自らの口から言えないわけで、自分たちの報じている内容は、すべて正しく、真実で、嘘偽りはないというポーズが不可欠である。しかし、大衆の側はメデイアの報じる内容は正しくて、正確で、嘘偽りはないと思い込んでいるわけで、ここに大きなギャップがあるから現実と理想の乖離が大きくなるのである。
理想を述べるということは、まだ見ぬものを語るわけだから、真実も嘘もあり得ない。
ところが現実というのは、目の前に転がっているわけで、その目の前にあるものを、上から見るのか、下から見るのか、横から見るのかで、同じものでも印象がずいぶん変わるはずである。
メデイアはそれを上からも見、下からも見、横から見てそのまま報道するが、それで全体像が理解できるわけではない。
その一つ一つが真実で嘘偽りはなかろうとも、それをいくら並べても全体像を理解するには至らないのである。
「メクラが像を撫ぜる」という言葉があるが、まさしくメデイアと大衆の間はあれと同じで、像の尻尾を撫ぜたメデイアはその印象で以って「像はこういうものだ」と大声で叫ぶ、像の鼻を撫ぜたメデイアは、その印象で以って「像はこういうものだ」と大声で叫ぶ、メデイアと庶民の関係はこれと同じだと思う。
さまざまなメデイアのさまざまな情報から全体像を積み上げ、それに基づいて国のかじ取りをするのが政治家であり、そのさまざまな情報から全体像を描き出すのが、本来ならば学問の府としての大学でなければならないと思う。
今の大学にそこまで求める事が可能かどうかは定かに知らないが、そのせいかどうかシンク・タンクというものがあり、そこで情報分析が行われているようだが、メデイアというのは、この例から見てもわかるように極めて無責任な存在である。
戦後の一時期、左翼運動が盛んで、反政府運動や反体制運動というのが盛んな時期があったが、その状況をつぶさに見るにつけ、われわれの同胞は如何に扇動に弱いかということである。
ああいう運動の中で、自ら率先して活動の輪に飛び込んで行った連中は、戦時中の特攻隊員と同じ精神構造であったのではないかと思う。
ともに「大義のために」という意識があったはずで、その部分で全学連の戦闘的な闘士と、戦時中の特攻隊員は通じるものがあるように見える。
問題は、この大義が時代によってその価値観が180度転換してしまったので、表面的に見ると全く相いれないように見えるが、その深層心理の部分では同じものではないかと思う。
ともにメデイアに踊らされて、メデイアの言わんとすることの先を行こうとし、大義を率先垂範することに誇りを感じ、大義に殉じることに意義を感じるような、純真さであったわけで、そこにメデイアを疑うことを知らない若者の潔癖さがあるように見える。
戦前、戦中では、そういう若者を惹きつけた要因の一つが当時のメデイアの報ずる軍国主義と国威掲楊であり、戦後はこれが左翼の革命思考になったが、ともにこれからの日本を良くするという点では一致している。
戦後の若者が惹かれた左翼思想というのは、基本的には共産主義で、日本の共産主義者の後には旧ソビエット連邦や中国共産党の支援があったことは確かで、戦後の若者がそういう思想に惹かれたのは、戦中の思想弾圧の反動でもあったに違いない。
一種の揺り戻しという面があったに違いなかろうが、それはある意味で大人の責任でもある。
大人の責任といった場合、「勝つ!勝つ!」と言いながら戦争遂行して、蓋を開けたら負けていたという現実が大きく作用していることは言うまでもない。
そういう現実を見せつけられて、その時に大人や青年であった世代が、同胞の政府や、行政や、社会を信じられないという思いも無理からぬことではあったに違いない。
まるまる政府に嘘をつかれていたわけで、そういう同胞の政府が信じられないというのも無理からぬ話ではある。
政府に騙され、国に騙されてきた過去を鑑みるに、そういう体制を作ってはならない、共産主義を基調とする完全なる平等社会をつくらねばならない、という理念に燃えるのも心情的には理解できる。
だが、そういう理念を掲げるスローガンに酔いしれて、一途にそういう道を突き進むということは、ほんのちょっと前に軍国主義にまい進したのと同じ構図に嵌り込む、というところまで知恵がまわらなかったということでもある。
考えなければならないことは、この「日本を良くする」というフレーズで、こういうスローガンを掲げるとそれが大義になり替わってしまい、それに付随する行為には、正当性がついてくるに違いない、という当事者の思い込みである。
戦前の若手将校のクーデターから、戦後の全学連の反体制運動の闘士まで、「大義のためならば何をやっても許されるに違いない」、という当事者の勝手な思い込みである。
どうして優秀な若者たちがこういう過ちに気がつかなかったかというと、彼らは優秀なるがゆえに自己のアイデンテイテーをしっかり持っているので、自分に迫ってくるメデイアをきちんと選別するわけで、この選別ということが偏向につながっていたからである。
自分の感性に合うものだけを受け入れるので、他の視点を見失うことになる。
それが高じて偏狭な思考になってしまって、他に対する寛容さを失ってしまい、より深みに嵌り込んでしまうということになる。
この「もの書き界のイクヨ・クルヨ」が極めて中道的な思考にあるということは、彼女たちが世界を駆けまわって、メデイアに頼らない情報に接しているからではなかろうか。
自分の目で確かめた情報というのは、これほど確かものもないわけで、そういうものの蓄積があるから、人の意見に惑わされることなく、自分の考えというものをはっきりと打ち出せるのであろう。
メデイアの提供する情報というのは、その情報を出すか出さないかという点にさえ、メデイア側の意図が作用するわけで、メデイアを通じて情報を得ている我々は、報じられなかった情報を考察することができないのは言うまでもない。
その意味でもメデイアに頼るということは危ない事なわけである。
だが、われわれ凡俗な人間は、そこまで深読みする必要はないが、この世の中の面白さというのは、本当のところはそういう部分を解き明かすところに真の知的好奇心が赴く。