ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「人とつき合う法」

2008-07-14 16:55:50 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「人とつき合う法」という本を読んだ。
著者は河盛好蔵。
日本のフランス文学の最高峰というに等しい方であるが、その人の書く随筆というのも絶品である。
こういうシチュエーションではエッセイと言わず、やはり随筆といいたい。
エッセイではなんとなく軽い感じがするが、随筆といえば、荘厳な響きが行き渡るような気がする。
われわれの日常生活のなんでもないしぐさ、習慣、立ち居振る舞いが題材となっているが、こういうものを取り上げた文章というのは、気楽な気持ちで読み耽ることができる。
第一、表題からして何となく親しみが持てそうで、自分でも一言言ってみたくなるような雰囲気がある。
「人とつき合う」と言ったところで、われわれは生きている限り、好むと好まざると他人との関係なしでは生きておれないわけで、それは人生そのものがひと様との付き合いに尽きる。
小学校の時の仲間から、定年後のボランテイア仲間まで、皆付き合いの内なわけで、ひと様との付き合いを語るということは、人生そのものを語るに等しい。

「学はあってもバカはバカ」

2008-07-14 07:46:36 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「学はあってもバカはバカ」という本を読んだ。
題名は極めて挑発的だが、内容はエッセイ集である。
著者の川村次郎という人は、朝日新聞の人間だそうだが、そのわりにはアカイアカイアサヒというイメージからは程遠いような印象を受ける。
世代的にも私と同世代であるが、左翼思考というのは見えてこない。
彼自身がアサヒの内側の人間として、そういう左翼的な思考の人間もアサヒの内部にいることを隠そうとはしていないところに好感はもてるが、我々、一般大衆のもつ朝日新聞のイメージでは、左翼的という印象はぬぐい切れない。
ある組織の中に、いろいろな考えを持つ人が、いろいろな階層を成して存在する社会というのは、ある意味で健全な社会であり、健全な組織だと思う。
この本の著者・川村次郎氏の文章・エッセイというのは、読んでいて非常に面白い。
個人の作品としては非常に面白く、好感のもてるものでも、朝日新聞という組織になると、これが俄然、用心してかからねばならない存在となる。
無理もない話で、今の新聞というのは通常32ページにもなっている。
計算したことはないが、一日分の新聞を全部記事で埋めたとしら岩波新書一冊分ぐらいの文字の量ではなかろうか。
毎日毎日、岩波新書一冊分の活字が送られてくるともなれば、その中には当然のこと、ただただ嵩上げのための文章も紛れ込んでしまうわけで、新聞のコラムなどというものは、そのためのスペースなのではなかろうか。
毎日毎日32ページもの紙面を埋めるためには、何かしら読み物をとしての活字、あるいは文章をその空白部分に嵌めこまねばならない。
私は、メデイアというものの競争原理は、考え直す時期に来ているのではないかと前々から思っている。
新聞も、毎日毎日32ページも印刷することなく、新聞が真に報道しなければならない記事は、見開き4ページあれば十分だと思う。
これはテレビ放送にも言えることで、テレビでも真に報道しなければならないニュースは、1時間あれば十分だと思う。
その1時間のニュースを如何に配分するかは放送局の裁量で決めればいい事であるが、24時間とおして電波を出し続けなければならない理由はあり得ないはずだ。
新聞社が毎日32ページの新聞を刷り、テレビ局が毎日24時間も電波を出し続けるというのは、自由主義経済体制の負の因子であって、資本主義の明らかな行きすぎの現象であり、われわれはもう一度奈落の底に落ちてみないことには、その意味を真に理解できないのではなかろうか。
新聞社が、紙面をカラー写真でにぎわし、特集記事で紙面の嵩上げをして、社会に話題を提供しようとする行為は、ある意味で資本主義あるいは自由主義の中での生き残りを賭けたサバイバル・ゲームでもある。
数々ある新聞社の中で、報道のみに徹して、官報のような紙面を作っているとするならば、とうの昔に淘汰されてしまうはずで、その中で今日まで生き抜いてきたということは、そのサバイバル・ゲームを掻い潜って生き抜いたということである。
今の日本のビッグビジネスでも、終戦直後には今から考えると見るも無残な状況から立ち上がってきたわけで、トヨタでもニッサンでも最初は小さくて頼りなげな車の開発から、今日では数えきれないほどの車種を構成して、選ぶのに困惑するほどである。
それと同じで、メデイア界、マスコミ業界も、これと同じ軌跡を歩んできたわけで、終戦直後のように、官報と見間違うほどの紙面から今の派出やかな紙面になってきたのであって、その軌跡は資本主義と自由主義の恩恵を十二分に受けたということである。
現時点で騒ぎ立てる人はいないが、メデイア界、マス・メデイアの業界全体の問題として広告の問題がある。
メデイア業界は本来のニュースの報道によって企業が成り立っているのではなく、広告収入によって企業が成り立っているという点は由々しき問題である。
朝日新聞は、記者がニュース・ソースを走り廻ってとってきた記事を購読者に提供して、その代金で成り立っているのではなく、広告収入で成り立っているわけで、これでは広告主、いわゆるクライアントの悪口が書けないというのも当然のことである。
新聞購読者、いわゆる消費者の立場からすれば、記事の内容に金を払っているわけで、広告を見るために金を払っているわけではない。テレビでも同じである。
日本政府としては、税金で紙面を買うということもないので、新聞は心おきなく政府の悪口がいえるが、これが民間企業ともなると、どういう形でクライアントの機嫌を損ねるかもわからないので、何でもかんでも自主規制して、自らの手足を縛るという自虐思考になってしまう。
その結果として誰でもが納得するような八方美人的なコメントに終始して、誰も傷付けることのないように振舞うわけで、当然のこと本音は言えないということになり、心おきなく悪口がいえる対象は、政府なり行政ということになる。
新聞社、朝日新聞だとて、購読者がいないことには企業として成り立たないはずであるが、岩波新書一冊分の読み物を毎日130円で各戸に配れるのは、片一方に広告収入があるからであって、購読者の側からすれば広告など付録のようなものであるが、付録が本体よりも大きい商品などおかしなことだ。
とは言うものの、自分の会社の新聞をどういう層が購読しているか、という市場調査は広告の面からしても当然行われているはずである。
その結果として、革新系の人たちを取り込まねばならないという企業の方針というのは理解できる。
朝日新聞という立場からすれば、革新系の人々も大事なお客様なわけで、そういう人たちにも思考の素材を提供しなければならないという発想は十分に理解できる。
問題は、偏向した記事を掲載すれば、世論をミスリードするのではないか、という懸念のあるなしである。
戦後の日本は、憲法で言論の自由が保障され、思想・信教の自由が保障されているので、ある特定の政党に属しているという理由だけでは、その人を解雇することは出来ないが、そのある不特定の政党の人たちというのは、戦後のそういう民主的な制度を逆に利用して、自分たちの仲間の利益に貢献しようとしているのである。
こういうまどろっこしい言い方は性に合わないので、素直に言えば、朝日新聞社内の共産主義者の存在であって、朝日社内では組織の相当上のほうにまで、共産主義者が浸透していたのではないか、という懸念である。
部外者として、その内情は知る由もないが、朝日新聞がアカイアカイアサヒといわれるからには、火のないところに煙は立たないという論議からして、まんざら根も葉もない事ではなかろうと思う。
朝日新聞が一つの組織として機能する場合、その紙面が極めて左翼的だということは、組織の相当の上のほうにまで、その記事を容認する思考があるということで、ある意味で組織ぐるみで、そういう左翼的な記事をフォローしているということでもある。
私の個人的な思考では、新聞社というのは自社の社会的なスタンスを高らかに宣言すべきだと思う。
「わが社は革新的な姿勢を貫きます」とか、「わが社は保守的な報道に徹します」とか、そういう姿勢を購読者に高らかと宣言してから紙面を作るべきだと思う。
不偏不党と綺麗事を言いながら、その実、偏向しているからアカイアカイアサヒといわれるのであって、不偏不党などと綺麗事を言わずに、「わが社は反自民、反政府、反行政、媚中反米路線で行く」と、企業としての政治的スタンスを公明盛大に詠いあげ、堂々と真正面から批判すればいいのである。
そういう態度も一種の企業のコンプライアンスではなかろうか。
不偏不党と言いながら偏向していては、食品会社の偽ラベルと同じなわけで、「商品に偽りあり」となるではないか。
日本共産党の『赤旗』や、創価学会の『聖教新聞』のように、自らの政治的立場をきちんと表明して、不偏不党などといわないことだと思う。
朝日の報ずる記事を望んでいる購読者もいるわけだから、そういう人たちに幅広くアプローチすればいいはずである。
しかし、心情的に共産主義で行きたいと思っても、世の中の推移はそれを許さないわけで、共産主義者であろうとも、給料はより多く欲しいわけで、その為には共産主義者でない層にも売り込まねばならず、つまり資本主義自由体制を容認せざるを得ない状況になって、それに迎合しなければならなくなってしまった。
つまり、反自民、反政府、反行政、媚中反米路線ではやっていけれなくなってしまった。
それはともかくとして、この著者は私と同世代で、ある意味で昭和という時代とともに生きてきたことになるが、彼の生業は言葉を介しての生き方であった。
つまり、記事を書くということは、言葉を介する商売なわけで、その意味で、言葉の専門家でもあるはずだ。
ところが、言葉というのは言うまでもなく完全に生き物であって、時代の推移とともに変化していくものである。
われわれ、凡俗なものにとって、言葉の推移というのはまことに困る現象である。
戦前の小学校では教育勅語を児童にまる暗記させたと言われている。
児童にまる暗記させることは、行政の方針としていた仕方ない面もあり、現場の先生は不合理と思いつつ、それに従わなければならなかったろうと思う。
ところが肝心の教育勅語の内容は未だによく理解できない。
我々の世代ならば、おおよそ内容は理解できているはずであるが、あの文字列を読んで、真に理解できるひとは極めてまれだと思う。
ところが昭和初期、少なくとも敗戦前までの日本人には、極めて常識的にあの文章が理解できていた、ということは言葉の変化の顕著な例だと思う。
われわれは明治、大正、昭和と、時代を経るごとに、その時々の文学としての書物は、それなりにひも解くことが出来るが、社会生活の実用に供する文章などというのは、あまり接する機会がない。
話は飛躍するが、対米戦が始まるとき、日本の外交文章がアメリカ側に漏えいして、解読されていたという話がある。
それは事実として動かしがたいものであろうが、問題は、その外交文書というのが教育勅語なみに難解な文章であったので、その内容が逆の意味にとられた部分が多いという点である。
教育勅語は、その内容が素晴らしいので、アメリカ大統領が家族のものにも読み聞かせたという話もある。
それは英語に堪能な日本人が英訳したから、その意味するところが遺漏なく表現できていたわけで、これが日本の文化に不慣れなアメリカ人が翻訳したとしたら、文章の意味が逆に取られるような事態もありうるし、文字の真意が遺漏なく表現出来たかどうか疑わしい。
日本の外交文書を折角ものにしても、それを解読・翻訳した人が、日本の文字文化に不慣れであったので、言葉の真意が伝わらなかったという良き実例であろうが、われわれが毎日使っている日本語というものが、その文化的背景なしでは意味不明になるということはどういう風に考えたらいいのであろう。
大江健三郎が「曖昧な日本」といったように、自分自身を卑下した言い方で相手に媚びを売ろうとする同胞もいるにはいるが、日本の言葉というのは決して曖昧などではないと思う。
われわれは、一人称「私」を表現するという言葉を幾つ持っているのであろう。
二人称「あなた」を言い表す言葉を幾つ持っているのであろう。
われわれはそれをTPOに合わせて微妙に使い分けているわけで、識者のいう日本語の乱れというのは、TPOに合わせて微妙に使い分ける才覚のない人が多くなって、そのパターンが少なくなってワンパターン化したということだろうと思う。
一人称の「私」、二人称の「あなた」を表す言葉は実にたくさんあるが、昭和前期の大人は、その中でも極めて難しい言葉を好んで使っていた。
ところが戦後はそれが逆になって、実に安易でイージーな言葉を好んで使うようになった。
この違いは一言でいえばボキャブラリーの貧困、今流の軽佻浮薄な言い方をすれば「ボキャ貧」という言葉に集約される。
自分の頭脳の中に、言葉のストックが少ないので、TPOに応じて言葉の使い回しに事欠いているわけで、今の若い世代が自分の頭の中にある言葉のストックの少なさが、言葉の使い廻しパターンの減少につながっているのである。
今の若者がボキャ貧になる最大の理由は、言うまでもなく情報過多だと思う。
この情報過多というのは、活字文化の衰退を象徴しているわけで、同じ本でも今は写真や映像で表現してしまう。
活字は、文字からイマジネーションを喚起する作業を否応なく強いるので、極めてアナログ的でまどろっこしいが、デジタル化した映像は、一目見ればそれこそ「百聞は一見に如かず」で情報は一瞬にして理解し得る。
頭の中で活字を並べ替えたり、出来上がった文章を推敲したり、声を出して朗読したりということは極めて古典的な思考回路で、それに比べると見た瞬間のイメージですべてが決まってしまう映像はデジタル化そのもので、世の中は限りなくデジタル化の方向に進んでいる。
活字文化というのはあくまでもアナログであって、文字を組み合わせてあるイメージにたどり着くというきわめて原始的というか、人間的というか、太古から人類が馴染んできた手法であるが、世の趨勢には立ち向かえない時代になったということかもしれない。
こういう人間の在り方そのものが文化なのかもしれず、われわれはそういう変化を繰り返して今日に至ったのであろうが、世の中の変革を文化というものとすれば、それは常に若者によってもたらされる。
茶髪、顔グロ(古いなあ・・・)、ジベタリアン、ウンコ座り、こういう若者文化も、すぐに廃ればそれはそれでいいが、廃れずに定着してしまえば新しい文化として認知されるわけで、ここで大人の責任が問われる。
私は幼少のころより落ちこぼれで、教科書を読むことが嫌いで、この教科書が漫画でできていればもっと勉強するのに、と真剣に考えていた。
ところが今大学に漫画学という学問があるそうだ。
誰が一体大学で漫画を研究するなどということを思いついたのであろう。
これは若者が漫画しか読まない風潮を逆手にとって、大学の大人たち、つまり大学教授たちの何人かが、「漫画を学問に昇格させようではないか」と画策して、それが通ったということだと思う。
つまり大人、この場合大學教授たちの何人かが、若者たちの漫画思考に迎合して、漫画というキワモノを学問として認知しよう、という運動に屈服したということである。
こういうことは明らかに大人が若者に対して自信を喪失した証拠で、自信がないものだから、極めて良い子ぶって、物わかりよく、綺麗事で済まそうとし、憎まれることを避け、八方美人的に好かれたいという願望の表れである。
大人が若者に迎合することによって、人類の文化は進化してきたのであるが、この進化には当然「負」の進化もあると思う。
人類の進化にプラスの面とマイナスの面があるとしても、誰もそのプラス、マイナスがわからないわけで、昨今のように、地球温暖化の問題となると、今までプラスの進化だと思っていたものが蓋を開けてみたらマイナスの進化だったということになる。