ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「街は国境を越える」

2008-07-23 07:59:49 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「街は国境を越える」という本を読んだ。
東京に住んでいる外国人を取材したものであるが、この本を読んでいるとやはり民族によって生き方の根本にある思考が発想の段階から様々なことがよく理解できる。
人の生き方は、人さまざまなことは当然であるが、とは言うものの民族によって共通性のあることもこれまた自明のことである。
この中では18人の外国人が取り上げられているが、その中で4人が中国系というよりもアジア大陸の人間である。
ところが、このアジア大陸から来ている人間には極めて共通的なものがある。
同じアジアでも、大陸から離れた地域、いや中国の影響のうすい地域の人はそうでもないが、中国文化の影響下にある人々は、共通して他の地域の人たちとは異質の発想のように見受けられる。
先に読んだ中国の犯罪組織の小説と見事に符合する。
中国の文化園の人は、極めて個人主義で、まず自分があって、その自己を確立するために、自分の周囲の者を最大限利用するという思考である。
まず自分というものを円の中心に置いておいて、その自分の一番近い外側に家族を描き、その家族の外側に親族を置き、その親族の外側に友人・知人を置き、後は野となれ山となれで、あかの他人であれば人間の内にも入れないという構図である。
これが西洋系の思考だと、彼らは子供が成人すれば、巣立ちを促すわけで、巣立ちをした後の家族との関係はきわめて希薄で、後は成人した個と個の関係になり、男女の仲もこの個と個の関係で推移していく。
この個と個の関係で、夫婦という社会の最小の単位を形成しており、それが社会とのかかわりにつながっていくようであるが、ここにアジア系の思考とヨーロッパ系の思考の大きな相違が潜んでいるように見受けられる。
東京はもはや日本の首都というよりも完全に世界的な都市になっているわけで、昔、マルコポーロが「黄金の国」といったように、ヨーロッパやアジアの国々からすれば、まさしく「黄金の国」に違いない。
自己の才覚と知恵で金の鉱脈を見つけることが可能な街である。
いま東京に集まる外国人は、アメリカ映画に描かれている西部劇のゴールドラッシュとおなじで、彼らはすべからく富を求めて群がってきていると思う。
その富の求め方に、我々、日本人として容認できるものとそうでないものがある。
この本の中に描かれている人は、すべて合法的に真面目に生きようとしているが、ここで「非合法でも構わず、とにかく富さえつかめ」となると、先の小説のようになるのであろう。
ここで問題とすべきは、中国系でない人たちは、日本に根をおろして日本の民草になろうとしているが、中国系の人たちは最初からその気がないわけで、日本で稼ぎながら、最後は後ろ足で砂を掛けて逃げてしまうというところである。
この部分に究極の個人主義があるわけで、受けた恩を仇で返しても、彼らは良心の呵責を何ら感じにないというところである。
その根底には、やはり日中戦争の後を引きずっているわけで、彼らの深層心理の中では、日本があれだけ悪い事をしたのだから、これぐらいのことはしても構わないという尊大な気持ちがあるに違いない。
ところが、我々の側の普通の人は、そのことを一切忘れてしまっているが、反日日本人、非日本人という人たちが極めて偏狭な綺麗事で、人道的という旗印の下、贖罪の意識で以って古傷をほじくり返すので、彼らにしてみればそれが立派に有効性を発揮して、強力なカードとなるのである。
そういうカードを見せびらかして、恫暍してくること自体が下賤な思考であるが、日中双方とも、そういう意識を喪失してしまっている。
恫暍する方もされている方も、それを恫暍と認識していないところに、モラルの本質を理解していないことが明瞭にあらわれている。
無理もない話で、中国大陸では1949年の毛沢東の共産主義革命がなった時点で、古い旧来の価値感は葬り去られてしまったわけで、その時点で中国5千にもわたる倫理、道徳というのは消滅してしまった。
もともとこの地にすむ人々は、あいつぐ戦乱の中で、国家とか社会というものに信を置いておらず、信ずべきものは金、ないしは持ち運べる財宝であって、頼るべきものは自分自身しかないということを経験的に知っており、理念とか、倫理とか、道徳とか、モラルなどというものを信じてはいなかった。
アジア大陸にすむ人々、特に、中国という土地に住んでいた人々にとって最大の不幸は、そういう人々の間に共通の価値観を伝搬する宗教をもたなかったということだろう。
部分的には様々な宗教が起きては消え、消えては起きたに違いないが、アジア全土を共通の価値観で統一するまでには至らなかった。
その点、ヨーロッパはキリスト教が全ヨーロッパを席巻し、それぞれに分派ができたといっても根っこのところではつながっていた。
だから中国の歴史の中での様々な王朝も、我々の歴史認識では全土を統一したように思い込んでいるが、実質は首都とその周辺のみを掌握していたにすぎず、これは21世紀の今日でもそのまま通用しているではないか。
確かに、今日では鉄道もあり、高速道路もあり、社会的なインフラは整備されているように思えるが、政治の根本のところでは、地方はあくまでも地方で、都市優先の施策が行われているではないか。
アジア大陸にすむ人々は、第2次世界大戦が終わるまで、儒教思想の中で生きてきた。
全土に共通した価値観がなかったとは言うものの、儒教というのは彼らの潜在意識に刷り込まれていたわけで、それは宗教を介して刷り込まれたわけではなく、彼らの長年の生活の知恵で、人々の集落ごとに独立して確立されていたが、それを横につなぐ思考がなかったので、人々の統一的な価値感とはなり得なかった。
だから自分の隣の集落の人間は、そのまま敵であったわけで、お互いに敵に囲まれた中で自分たちだけが生き残るにはどうすればいいか、という発想になったものと思う。
だとすれば、金や貴金属を抱え込んで、いざとなったら何処にでも逃げる勘考をしておかなければならないわけで、隣人のことなど構っておれないのである。
よってそれは究極の個人主義となってしまうのである。
一方、ヨーロッパ人は成人したら、巣立ちをするわけで、巣立った子供に対して親も子も過干渉はしない。
子が成功すれば、それはそれで目出度い事であるが、成功した子のところに一族郎党が転がり込むということもない。
子が財産を築いて、そういうゆとりがある場合は、そういうこともありうるが、親の方でも成功した子のところに転がり込むことを良しとしない風潮があるわけで、自分で自活できる間は、自己の責任で生きるというのが基本的なスタンスである。
子が巣立ったといっても、親子の縁が切れるわけではないので、困った時はお互いに助け合うことはあろうが、それを義務として押し付けるようなことはしない。
だからヨーロッパ系の人々は、年老いた人の介護は社会が担うという発想が行きわたっているが、アジアではそういう発想には至らないで、年老いた家族の面倒は身内で見るのが当然という風潮である。
この発想のもとには儒教思想があるわけで、儒教でいう「年長者を敬う」という思考は、年長者、年寄、統治者にはまことに都合のいい考え方で、統治する側の極めて保守的な統治理念であった。
しかるに毛沢東の共産主義革命というのは、この部分でヨーロッパ式の良いとこ取りをしようというもので、子どもの養育と老親の介護は社会で面度を見るようにしようとしたが、中国人の長年の潜在指揮は、そう簡単にはとけないので、その理念を実現するには権力の介入なしではできない。
ここで権力というものを容認すると、その権力が独り歩きしてしまうのが中国の中国らしい特質である。
子どもの養育と老親の介護は社会で面度を見るということは人間の生存にとって極めて喜ばしきことであるが、それを実践するためにはヨーロッパのような民主化の進んだところでは民主的手法で行えるが、中国のようなところでは、民主化の度合いが遅れているので、強力な権力で以って上からの命令でなければそれが出来ない。
よってそれは権力抗争を引き起こす。
これを一言でいえば、中国人には民主化があり得ないので、人々は自分で自分を守り、自分の得になることを探し、人のためには唾を吐くのも回避し、水に落ちた犬は徹底的に叩き、人を踏みつけても自己の利益を優先させる、という選択をとるということになる。
われわれは中国人に対する認識が極めて甘いと思う。
日本の文化は中国大陸から流れてきたので、そういう意味で、日本文化の源であるという認識と、先の戦争で迷惑を掛けたという認識が重なり合い、その上、姿形は酷似しているし、漢字という媒体も共有しているし、海を隔てているとはいえ実質は隣国なわけで、そういう人たち、そういう国々とは仲良くしなければならないと思い込んでいる。
ところが、先方からすれば日本など金の卵を産む鶏にすぎない。
ちょっと叩けばいくらでも金が湧き出てくる打ち出の小槌でしかない。
この本が記述している東京の外人のなかで、中国系の人達は明らかに砂糖に群がる蟻のように、金を目当てに集まってきているが、他の国の人たちはそうそう露骨ではない。
旅から旅して東京に一時的に留まっているとか、結婚して日本の主婦になりきるとか、日本に根をおろして生きていくことを心掛けているが、こういう血の混じり合う事象を、どういう風に考えたらいいのであろう。
今時、我々が単一民族などというと笑われるが、国際結婚という言葉も今は陳腐化しているようで、日本人とそうでない組み合わせというのは掃いて捨てるほどになってきた。
結局、結婚というものが男と女の合意のみで成り立つようになってきたわけで、昔のように家と家の結びつきというのが希薄になってきたということであろうが、洋の東西を問わず昔風の考え方を捨てきれない人というのも大勢いると思う。
当然、そういう人達からすれは、こういう国際結婚ということにはならないだろうが、そのことは言い方を変えれば、保守的な思考から脱しきれないということであろう。
昔から営々と引き継がれてきた伝統を打ち破ることが出来ず、因習の殻から抜け出せずにいるということになるのであろう。
ただこういう民族を超えた結婚というのも平和な時は別に問題はない。
ところがこれがいったん戦乱の渦に巻き込まれると一筋縄ではいかない厄介なことになる。
在日朝鮮人と所帯を持って、戦後、北朝鮮に渡った日本人妻の問題を見るにつけ、国際結婚の難しさが見事に露呈しているではないか。
戦後の混乱の中でアメリカのGIと一緒になった戦争花嫁も全く同じことで、アメリカまで行ったはいいがそこに幸せにはなかったわけで結局馬鹿を見たのは本人だけということになる。
結婚などというものは、日本人同士で結婚したとしても、皆が皆、幸せになるとは限らないわけで、確率からいけば国際結婚であろうとなかろうとリスクは同じかもしれない。
ただ結婚としてのリスクは同じであったとしても、国籍上の困難はついてまわると思う。
こうして、日本にいる外国人を見ると、日本は明らかに食い物にされていると思える。
文化というのは若いものが古いものを打ち破って先に先にと進化するのはまぎれもなく真理だと思う。
だとすると、先に進んだ地域、文化、民族、国家というのは、ある程度のところまで進むと、後は下降線をたどるというのもこの地球上の生き物、特に人間にとっては免れようのない真理なのかもしれない。
古代文明も他からの侵略で滅亡したものはほとんどないのではないかと思う。
民族なり国家の弱体化が他からの侵略を誘発して下降線をたどるというケースはあったかもしれないが、ある民族が武力で他の民族を壊滅的に崩壊するということはありえなかったのではなかろうか。
ある国家、あるいは民族が、繁栄を極める、すると周囲からそれこそ砂糖に群がる蟻のようにじわじわとその繁栄に惹かれて他の人々、民族、周辺の異民族が浸透してきて、今まで繁栄がうやむやのうちに衰退し、消滅するというのが古代文明の遍歴ではなかろうか。
19世紀から20世紀にかけてのアメリカの繁栄は、最初から異民族の混在で成り立っていたわけで、ここには本来の土着の文化、ネイテイブアメリカンの文化は最初から無視され続けたが、この地に渡ってきた人たちは、自分たちで自分たちの文化を築き上げねばならなかった。
旧大陸の人々は、生まれ落ちたときから古来の文化の中で生きねばならなかったが、アメリカに限っては、様々な人たちが無から有を作らねばならず、その分、伝統とか因習とか個を束縛する概念が存在していなかった。
もともと個を尊重するヨーロッパから移住してきた人が多かったので、個というものが最大限尊重されたので、そこではきわめて民主的な社会が構築された。
民主的な社会というと、我々の今日の概念でいえば、極めて優れた開明的で平和で安全な社会と思われがちであるが、この思い込みは完全に間違っている。
個が尊重される民主的な社会というのは、自分の身は自分で守るということでもあるわけで、我々のように社会に甘えることが許されない社会ということである。
自分の身に振り掛かって来た火の子は、自分で振り払わなければならず、国家がなんとかしてくれる、行政が手を差し伸べてくれる、という妄想はありえない社会ということである。
このようにアメリカというところは、従来のネイテイブアメリカンを無視したことによって、ヨーロッパ系の個の確立という思考が普遍化していたので、自分たちで自分たちのルールを作って、そのルールを自分たちで運用するという民主主義が確立されたが、旧大陸では従来の概念が払しょくしきれないので、その思考の普遍化にタイムラグが出来た。
われわれの場合は、1945年の敗戦によってアメリカンデモクラシーの洗礼を受けたが、われわれには従来の思考というものが根強く残っていたので、その概念は両方の良いとこ取りになった。
つまり、融合が未成熟で、自分たちの都合によって都合のいい方に解釈するという便利主義に陥ってしまったので、文化そのものが混とんとしてしまった。
その結果として、最先端の技術と2千年前の歴史的遺物が同時に混在するという摩訶不思議な状況になってしまった。
アメリカのニューヨークが人種のるつぼならば、日本の東京は文化・文明のるつぼと化したわけで、ここではあらゆる文化、文明、人種が生息可能となったわけである。