例によって図書館から借りてきた本で、「東京駅はこうして誕生した」という本を読んだ。
というのも、今年の夏、がんの検診で上京した折、東京駅の周辺を散策していたら、丸の内側で工事をしていた。
その工事用の囲いの壁面に、東京駅の歴史が写真パネルと説明文で表示してあった。
ゆっくり読んでみたい衝動にかられたが、如何せん、街頭の看板のようなものをじっくり読むというわけにもいかないので、そのうちに本にでもなるであろうと思って、その場では写真を眺めるだけにした。
東京駅の歴史を掘り下げるだけでも相当に面白そうに見えるが、純粋な歴史そのもの、つまり誰がどうしたという事実の羅列だけでは、歴史の興味としては通り一遍のものでしかないと思う。
そういう事実ならば書いたものを見れば済むことである。
しかし、歴史の面白さというのは、そういう事実の羅列から、如何にイメージを膨らませることができるかということにあると思う。
東京駅の設計を、誰がして、どういうレンガをつかって、どういう業者がそれを取り行ったか、という事実の羅列ならば資料を見ればそれで理解できる。
この本はそれにまともに応えるものであった。
それにまともに応えるものであったとしても、その事実を克明に記憶しても意味をなさないわけで、私としてはそういうことは読んだ端から忘れてしまう。
東京駅というのは、日本の近代化の象徴でもあったわけで、日本という国の威信を具現化していると思う。その当時の日本で考えられる最高の技術で以って作られていると思う。
これと同じような赤レンガの建物といえば、旧海軍兵学校の建物がこれと同じスタイルで、今も立派に使用に耐えて残っている。今の海上自衛隊第1術科学校として立派に生きて、昔のままの機能を果たしている。
以前、丸の内にあった1丁ロンドンを言われた三菱の建物も、明治を代表する建物であったに違いなかろうが、民間という立場から負の遺産として持ち続けることができなかったのであろう。
現代の資本主義体制の中では、会社そのものを維持するためには、常に利純・利益を作りだす運動を止めるわけにはいかない。
常に走り続けなければならない自転車のようなもので、立ち止まるということが許されない。
常に資産価値が少しでも上がるように、資産を運用しなければならないが、資産によっては、古い建物は効率が悪く、昔を懐かしむ情緒だけには頼れないわけで、基本的にはスクラップ・アンド・ビルドということにならざるを得ない。
1丁ロンドンは消えて、東京駅は残ったということは、東京駅そのものに時代を超越する付加価値があったということで、駅というものの効率化を時代の要求にうまく対応してきたということで、常に改良に改良をくわえ使い勝手を改善してきた結果だと思う。
1丁ロンドンという建築物は、フロアーを時間貸ししているようなもので、スペースを賃貸するという業態そのものの変革が遅かったので、消滅の憂き身を見たのであろう。
また逆に、同じ面積当たりの収益が悪いので、より良く利益を上げるために高層化の必要に迫られて、消滅したという見方も出来る。
しかし、この東京駅が関東大震災と東京大空襲を生き残ったということは素晴らしいことだと思う。
特に、関東大震災では全く無傷で、震災の復興に素早く対応できたということは、鉄道マンの心意気を示すものだと思う。
話は少しばかり飛躍するが、昔の国鉄マンというのは実に健気だったと思う。
東京大空襲でも広島の原爆でも、被爆した当初こそ機能不全に陥っていたとしても、すぐに復旧させて列車を走らせているわけで、こういうことは実にすばらしいことだと思う。
自分たちの社会的な使命を十分に自覚して、それに応えようとする態度は実に見上げたものだと思うが、こういう鉄道マン、国鉄マンの心意気が敗退していったのは一体どういうことなのであろう。
私の父は死ぬ前に自分史の様な物を書き遺して逝ったが、それによると終戦の日、昭和20年8月15日でも、東京では鉄道が正常に動いており、玉音放送の時間だけ停車して、乗客はホームで放送を聞いて、それが終ったら何事もなかったように日常生活に戻ったと書かれていた。
昔の鉄道マンたちは、このように極めて職務に忠実で、かつ実直に務めていたはずなのに、それがどこでどう位相が食い違って、社会的な反感を買う組織になってしまったのであろう。
単刀直入に言えば、国鉄の組合の中に共産主義者が紛れ込んだ時からだと思う。
それを「何時からだ!!」という風に、確定することは部外者としては極めて困難であって、またそうする必要もないが、国鉄の中に戦後の混乱期に乗じて共産主義者が大勢潜入したことにその理由があると思う。
麻生内閣で入閣してたった5日で辞めた中山国土交通相の発言ではないが、日教組と国鉄の組合は、相手が国家であるがゆえに、とことん反対するが、こういう行為に国民の不満がもっとあってもいいと思う。
元の国鉄マンというのは、自分たちは国民に対して奉仕する立場だということをよく理解し、それによく応えていたと思う。
それに反し、戦後の国鉄の組合というのは、どうしてああも非民主的になり、国民に迷惑をかけても何とも思わない人たちに変わってしまったのであろう。
時の為政者に不平不満を持つのは地球規模でみて極当たり前のことであるが、だからといって国民を巻き込んで、自分たちの政治的野望を実現するという発想は、共産主義者に共通するものである。
しかしながら、ならば日本の知識人というのは、そういう運動を抑制する方向に発言してしかるべきではなかろうか。
にもかかわらず、日本の識者と言われる人たちは、それを煽る方向に発言していたではないか。
その前の戦時中に、軍国主義を煽りに煽った構図と瓜二つで、時の時勢に便乗するしか能がないのが日本の知識人の生き様である。
基本的に国有鉄道というのは国民のあらゆる階層に平等にサービスを提供すべきものだと思う。
大都市だけが便利で、田舎では一日に一本の列車しかないでは、国民に対する平等のサービスになっていないと思う。
そういう国民へのサービスという点から考えれば、国鉄の民営化というのは時代に逆行することになるが、100円儲けるのに500円もかかる状態でも困るわけで、民営化の道も避けられない時勢ではある。
我々、国民として憂うべきことは、鉄道マンの心の衰退である。
国民に対する奉仕の精神、お客に対するサービス精神の履き違い、勤労に対する意欲の衰退、こういうものが目に見えないだけに余計心配であるが、これは測る手法がまだ確立されていない。
東京の大都市化はまさしくアメーバ―のような自己増殖であったわけで、それに拍車をかけたのが山手線という環状鉄道の存在であった、という視点は新しい物の考え方だと思う。
確かに結果から見ると、山手線の駅に私鉄がターミナル駅を作って、それが沿線を外側に拡大していったという論理は、整合性のある見方だと思う。
東京と地方の格差というのは今更もう否定の仕様もない。
良い悪いの段階を超越して、今ではそれにどう対応するかの問題になってしまっており、人が東京に群れ、地方が過疎化するのも当然のことである。
東京の肥大化が本当に問題であるとするならば、今までに是正のチャンスは2度あったということになり
、言うまでもなく最初は関東大震災の時であり、2度目は東京大空襲のときであったが、この二つの大災害を経験したにも関わらず、人々は東京を元の姿に戻す選択をしたわけである。
焼け野原になった地を捨てることなく、その焼け野原に再び家を建て、店を開き、商いに精を出したのである。
東京を元の姿に戻すことの意義はどこに潜んでいたのであろう。
東京の機能を地方に振り分けるという発想は、2度の大災害を経験しても微塵も沸いてこなかったわけで、如何に東京というネームバリューの魅力が大きかったかということだ。
関東大震災で無一文になっても、東京大空襲で無一文になっても、東京に居さえすれば再起できると人々は考えていたに違いない。
人々のこういう考えはどこから沸いていたのであろう。
私が思うに、やはりそれは人の数だと思う。
震災で丸焼けになっても、空襲で丸焼けになっても、その周りをうろついている人の数は、田舎の繁華街をうろついている人の数よりも多かったわけで、人さえおればそこにビジネスチャンスは転がっていたということだと思う。
人の数が少なく、キツネやタヌキ歩き回っている田舎では、人を相手のビジネスチャンスはいくら待っても来ないわけで、その意味で東京はいくら災害に遭おうが、人々がこの街を去ろうとしないのである。
私の住んでいるところも極めてローカルな地域で、鉄道なども空気を運んでいるようなもので、何処をどういじればこの鉄道が黒字になるのか見当もつかない状態である。
ところが、東京ではこういうことは無いわけで、鉄道さえ敷けば人はそれを利用するわけで、そのことだけでも人が東京に集まる大きな理由である。
版籍奉還で、江戸城の前に屋敷を構えていた大名が一斉に国元に還ったと言われているが、こうい激動の時に、東京を離れる人と、ここにやって来る人がいたわけで、そのどちらが意義ある人生を送ったかと考えた時、その勝敗は明らかに違っていると思う。
東京が魅力あふれる街であり続けた原因が、環状線、いわゆる山手線の存在にあるというのは説得力のある言辞だと思う。
東京と大阪の魅力の違いというのは一体どこらあたりにあるのであろう。
都市機能を東京に集中したということは、すでに東京にそれを引き付ける魅力があったから、そういう風になったわけで、都市機能が充実したから魅力が生じてきたというものではないと思う。
京都から江戸に都を移すときも、なにもわざわざ遠く離れた江戸でなくとも大阪でも良かったのではなかろうか。
同じように、都市を象徴するお城はあったわけで、長旅をする必要もなく、大阪ならば何でも安直にことが納めれたのではないかと思う。
徳川時代を通じて、江戸が表舞台であったとはいえ、大阪だとて江戸に劣らず繁栄していたわけで、天皇がわざわざ江戸に行かねばならない必然的な理由は無かったと思うが、なぜ大阪では駄目であったのだろう。
この本の中では、首都東京というのは誰からも命名されていないということが書かれていた。
つまり明治維新の際、誰も日本の新しい首都を東京と定めた人がいないということだ。
既成事実の積み重ねで、言わずもがなのうちに首都が東京と定まったということだ。
考えてみると実に曖昧模糊とした話だが、日本の国旗も国歌もこれと似たようなもので、何時、いかなる時に、何の誰べえがきちんと定めたということは未確定のまま、それが成り立っているわけで、そういう点では我々は実に不真面目のようだ。
由緒言われがあるよう見えているにもかかわらず、実はじゅっくり掘り下げていくと何にもないということで、玉ねぎやらっきょの皮のようなものだ。
というのも、今年の夏、がんの検診で上京した折、東京駅の周辺を散策していたら、丸の内側で工事をしていた。
その工事用の囲いの壁面に、東京駅の歴史が写真パネルと説明文で表示してあった。
ゆっくり読んでみたい衝動にかられたが、如何せん、街頭の看板のようなものをじっくり読むというわけにもいかないので、そのうちに本にでもなるであろうと思って、その場では写真を眺めるだけにした。
東京駅の歴史を掘り下げるだけでも相当に面白そうに見えるが、純粋な歴史そのもの、つまり誰がどうしたという事実の羅列だけでは、歴史の興味としては通り一遍のものでしかないと思う。
そういう事実ならば書いたものを見れば済むことである。
しかし、歴史の面白さというのは、そういう事実の羅列から、如何にイメージを膨らませることができるかということにあると思う。
東京駅の設計を、誰がして、どういうレンガをつかって、どういう業者がそれを取り行ったか、という事実の羅列ならば資料を見ればそれで理解できる。
この本はそれにまともに応えるものであった。
それにまともに応えるものであったとしても、その事実を克明に記憶しても意味をなさないわけで、私としてはそういうことは読んだ端から忘れてしまう。
東京駅というのは、日本の近代化の象徴でもあったわけで、日本という国の威信を具現化していると思う。その当時の日本で考えられる最高の技術で以って作られていると思う。
これと同じような赤レンガの建物といえば、旧海軍兵学校の建物がこれと同じスタイルで、今も立派に使用に耐えて残っている。今の海上自衛隊第1術科学校として立派に生きて、昔のままの機能を果たしている。
以前、丸の内にあった1丁ロンドンを言われた三菱の建物も、明治を代表する建物であったに違いなかろうが、民間という立場から負の遺産として持ち続けることができなかったのであろう。
現代の資本主義体制の中では、会社そのものを維持するためには、常に利純・利益を作りだす運動を止めるわけにはいかない。
常に走り続けなければならない自転車のようなもので、立ち止まるということが許されない。
常に資産価値が少しでも上がるように、資産を運用しなければならないが、資産によっては、古い建物は効率が悪く、昔を懐かしむ情緒だけには頼れないわけで、基本的にはスクラップ・アンド・ビルドということにならざるを得ない。
1丁ロンドンは消えて、東京駅は残ったということは、東京駅そのものに時代を超越する付加価値があったということで、駅というものの効率化を時代の要求にうまく対応してきたということで、常に改良に改良をくわえ使い勝手を改善してきた結果だと思う。
1丁ロンドンという建築物は、フロアーを時間貸ししているようなもので、スペースを賃貸するという業態そのものの変革が遅かったので、消滅の憂き身を見たのであろう。
また逆に、同じ面積当たりの収益が悪いので、より良く利益を上げるために高層化の必要に迫られて、消滅したという見方も出来る。
しかし、この東京駅が関東大震災と東京大空襲を生き残ったということは素晴らしいことだと思う。
特に、関東大震災では全く無傷で、震災の復興に素早く対応できたということは、鉄道マンの心意気を示すものだと思う。
話は少しばかり飛躍するが、昔の国鉄マンというのは実に健気だったと思う。
東京大空襲でも広島の原爆でも、被爆した当初こそ機能不全に陥っていたとしても、すぐに復旧させて列車を走らせているわけで、こういうことは実にすばらしいことだと思う。
自分たちの社会的な使命を十分に自覚して、それに応えようとする態度は実に見上げたものだと思うが、こういう鉄道マン、国鉄マンの心意気が敗退していったのは一体どういうことなのであろう。
私の父は死ぬ前に自分史の様な物を書き遺して逝ったが、それによると終戦の日、昭和20年8月15日でも、東京では鉄道が正常に動いており、玉音放送の時間だけ停車して、乗客はホームで放送を聞いて、それが終ったら何事もなかったように日常生活に戻ったと書かれていた。
昔の鉄道マンたちは、このように極めて職務に忠実で、かつ実直に務めていたはずなのに、それがどこでどう位相が食い違って、社会的な反感を買う組織になってしまったのであろう。
単刀直入に言えば、国鉄の組合の中に共産主義者が紛れ込んだ時からだと思う。
それを「何時からだ!!」という風に、確定することは部外者としては極めて困難であって、またそうする必要もないが、国鉄の中に戦後の混乱期に乗じて共産主義者が大勢潜入したことにその理由があると思う。
麻生内閣で入閣してたった5日で辞めた中山国土交通相の発言ではないが、日教組と国鉄の組合は、相手が国家であるがゆえに、とことん反対するが、こういう行為に国民の不満がもっとあってもいいと思う。
元の国鉄マンというのは、自分たちは国民に対して奉仕する立場だということをよく理解し、それによく応えていたと思う。
それに反し、戦後の国鉄の組合というのは、どうしてああも非民主的になり、国民に迷惑をかけても何とも思わない人たちに変わってしまったのであろう。
時の為政者に不平不満を持つのは地球規模でみて極当たり前のことであるが、だからといって国民を巻き込んで、自分たちの政治的野望を実現するという発想は、共産主義者に共通するものである。
しかしながら、ならば日本の知識人というのは、そういう運動を抑制する方向に発言してしかるべきではなかろうか。
にもかかわらず、日本の識者と言われる人たちは、それを煽る方向に発言していたではないか。
その前の戦時中に、軍国主義を煽りに煽った構図と瓜二つで、時の時勢に便乗するしか能がないのが日本の知識人の生き様である。
基本的に国有鉄道というのは国民のあらゆる階層に平等にサービスを提供すべきものだと思う。
大都市だけが便利で、田舎では一日に一本の列車しかないでは、国民に対する平等のサービスになっていないと思う。
そういう国民へのサービスという点から考えれば、国鉄の民営化というのは時代に逆行することになるが、100円儲けるのに500円もかかる状態でも困るわけで、民営化の道も避けられない時勢ではある。
我々、国民として憂うべきことは、鉄道マンの心の衰退である。
国民に対する奉仕の精神、お客に対するサービス精神の履き違い、勤労に対する意欲の衰退、こういうものが目に見えないだけに余計心配であるが、これは測る手法がまだ確立されていない。
東京の大都市化はまさしくアメーバ―のような自己増殖であったわけで、それに拍車をかけたのが山手線という環状鉄道の存在であった、という視点は新しい物の考え方だと思う。
確かに結果から見ると、山手線の駅に私鉄がターミナル駅を作って、それが沿線を外側に拡大していったという論理は、整合性のある見方だと思う。
東京と地方の格差というのは今更もう否定の仕様もない。
良い悪いの段階を超越して、今ではそれにどう対応するかの問題になってしまっており、人が東京に群れ、地方が過疎化するのも当然のことである。
東京の肥大化が本当に問題であるとするならば、今までに是正のチャンスは2度あったということになり
、言うまでもなく最初は関東大震災の時であり、2度目は東京大空襲のときであったが、この二つの大災害を経験したにも関わらず、人々は東京を元の姿に戻す選択をしたわけである。
焼け野原になった地を捨てることなく、その焼け野原に再び家を建て、店を開き、商いに精を出したのである。
東京を元の姿に戻すことの意義はどこに潜んでいたのであろう。
東京の機能を地方に振り分けるという発想は、2度の大災害を経験しても微塵も沸いてこなかったわけで、如何に東京というネームバリューの魅力が大きかったかということだ。
関東大震災で無一文になっても、東京大空襲で無一文になっても、東京に居さえすれば再起できると人々は考えていたに違いない。
人々のこういう考えはどこから沸いていたのであろう。
私が思うに、やはりそれは人の数だと思う。
震災で丸焼けになっても、空襲で丸焼けになっても、その周りをうろついている人の数は、田舎の繁華街をうろついている人の数よりも多かったわけで、人さえおればそこにビジネスチャンスは転がっていたということだと思う。
人の数が少なく、キツネやタヌキ歩き回っている田舎では、人を相手のビジネスチャンスはいくら待っても来ないわけで、その意味で東京はいくら災害に遭おうが、人々がこの街を去ろうとしないのである。
私の住んでいるところも極めてローカルな地域で、鉄道なども空気を運んでいるようなもので、何処をどういじればこの鉄道が黒字になるのか見当もつかない状態である。
ところが、東京ではこういうことは無いわけで、鉄道さえ敷けば人はそれを利用するわけで、そのことだけでも人が東京に集まる大きな理由である。
版籍奉還で、江戸城の前に屋敷を構えていた大名が一斉に国元に還ったと言われているが、こうい激動の時に、東京を離れる人と、ここにやって来る人がいたわけで、そのどちらが意義ある人生を送ったかと考えた時、その勝敗は明らかに違っていると思う。
東京が魅力あふれる街であり続けた原因が、環状線、いわゆる山手線の存在にあるというのは説得力のある言辞だと思う。
東京と大阪の魅力の違いというのは一体どこらあたりにあるのであろう。
都市機能を東京に集中したということは、すでに東京にそれを引き付ける魅力があったから、そういう風になったわけで、都市機能が充実したから魅力が生じてきたというものではないと思う。
京都から江戸に都を移すときも、なにもわざわざ遠く離れた江戸でなくとも大阪でも良かったのではなかろうか。
同じように、都市を象徴するお城はあったわけで、長旅をする必要もなく、大阪ならば何でも安直にことが納めれたのではないかと思う。
徳川時代を通じて、江戸が表舞台であったとはいえ、大阪だとて江戸に劣らず繁栄していたわけで、天皇がわざわざ江戸に行かねばならない必然的な理由は無かったと思うが、なぜ大阪では駄目であったのだろう。
この本の中では、首都東京というのは誰からも命名されていないということが書かれていた。
つまり明治維新の際、誰も日本の新しい首都を東京と定めた人がいないということだ。
既成事実の積み重ねで、言わずもがなのうちに首都が東京と定まったということだ。
考えてみると実に曖昧模糊とした話だが、日本の国旗も国歌もこれと似たようなもので、何時、いかなる時に、何の誰べえがきちんと定めたということは未確定のまま、それが成り立っているわけで、そういう点では我々は実に不真面目のようだ。
由緒言われがあるよう見えているにもかかわらず、実はじゅっくり掘り下げていくと何にもないということで、玉ねぎやらっきょの皮のようなものだ。