例によって図書館の本で「迷走・日本の原点」という本を読んだ。
著者は桜井よしこ氏である。
桜井女史はまれにみる男っぽい論調の人で、私には彼女の論調はすべて正論のように見える。大衆に迎合しないところが良い。
変に物わかりの良いポーズを取ることなく、感情論に押し流されることなく、ものごとの本質をストレートに突いていると思う。
我々人間の住む世界には人間の数だけ意見もあると思う。
百人百様というように、十人十色というように、人の意見というのはそれぞれに違っているのが当然である。
そうした様々な意見のなかで、高等教育を受けた人、いわゆる知識人といわれるような人は自らの接する情報の量が普通の人より格段に多いはずである。
その数段多い情報から自分の考えを形作るので、そういう人の意見は傾聴に値するということになるのがごく普通の有り体の筈である。
ところが、そういう知識人も現代の日本社会を生き抜くには人気商売に徹しなければならないわけで、人気を維持するためには大衆に迎合しなければならない。
評論家は自分の論説が売れなければ糊口を凌げないわけで、そのためには売れる商品、つまり大衆に人気のある論文を書かなければならないことになる。
それよりも前に、高等教育を受けた人、いわゆる知識人としては、一般大衆というものをある意味で見下げた信条をもっているのが普通だと思う。
「馬鹿なやつらに俺が教えてやる」というひそかな自負心を持っていると思う。
本来ならば高等教育を受けた人はそうであっても良いわけだが、そういう人たちが庶民を王様に見たてて、大衆のご機嫌取りをするところが卑屈に思える。
大衆にアピールすべき思考が、綺麗事に徹しきってしまって、大衆や庶民が傷つかないように思考を巡らし、攻撃しても一向に差し障りのないところに矛先を向ける。
このようにして大衆受けを狙っている中で、 それをフォローするのが肩書きといわれるもので、これがあるとないでは書いた作品の付加価値がうんと違ってくると思う。
無名のものがいくら良い作品を書いたとしても世間はそれを認めない。
ただ単に市井の一つの意見としての扱いでしかない。
このように世の評論家というのは論評を書いては、それをメデイアで発表しないことには生きていけれないわけで、生きるためには売れる作品でなければならない。
売れる作品を書くとなれば、大衆や民衆の対極に位置する政府や行政の肩を持つようなものではならないわけで、どうしても当局側を悪玉にし、民衆側を善玉に想定しなければならない。
経世の書がコマーシャリズムに毒されて、大衆受けする論評しかこの世に出回らないという風潮は極めて嘆かわしいことだと思う。
評論家といわれるような人が、自分が生きんが為とはいえコマーシャリズムに毒されて、大衆受けする論評をまき散らすということはある意味で知識人のモラルハザードだと思う。
大衆というものは無責任きわまりない存在で、究極のエゴのはずであるが、それを近年ではエゴイズムとは言わずに、大衆の潜在的な政治的欲求という表現で、個人のエゴイズムを擁護する風潮が顕著になってきた。
大衆受けを狙って、大衆の我が儘を我が儘と正面から言わずに、個人の自由とか価値観の相違など綺麗事で誤魔化すから、大衆は何時まで経っても、ことの本質を知覚しきれないままでいるのである。
我々日本人の歴史の中で約65年ほど前までは、この世に生を受けた人間の存在価値は、自分を含む諸々の人に奉仕することが美徳とされ、それを一部の同胞が拡大解釈して、天皇陛下のためというスローガンにすり替え、そのために国民全部が苦難に立ち至った。
それが戦後の民主教育では、自分以外の諸々の人に対する奉仕は苦役そのもので、個人の自由、いや自由を超越した我が儘を蔑ろにすることだからまかりならぬ、という風潮に変わってしまった。
国家こそ国民に奉仕する存在で、国は国民の望むものを無制限に分け与えるべき存在だ、という風に考え方が逆転してしまったので、国民の側に自分達の希望や願望を叶えることの出来ない祖国など敬愛するに当たらないという気持ちになってしまった。
よって、その後の日本の進歩的知識人といわれる人々は、その大命題、つまり国が国民に奉仕するという線に沿って、個人の我が儘の奨励ということに大車輪で向かったわけである。
この風潮は、日本人の特質を見事に表しているわけで、一旦世間の風向きが「これこそ我々の大命題だ!大儀だ!」と確信すると、事の真偽、真贋、本質を深く考察することなく、脇目もふらずにそこに邁進して、それからはずれたものをそれこそ異端者として排除しようという思考に至るのである。
戦前、戦中の我々同胞にとっての大儀・大命題というのは、いうまでもなく「鬼畜米英」、「撃ちし止まん」であったわけで、それを我々同胞は何の疑いもせずに全国民がその目標に邁進したいたではないか。
それが失敗に終わると、今度はベクトルが逆向きになって、我々は「祖国の政府に騙されてはならない。政府、行政、官僚というものは悪の権化で、国民の奈落に送り込む存在でしかない」というようになってしまった。
ある事柄が大儀となり、それが大命題となると、それこそ全国民が大まじめでそれに突き進んでいるではないか。
知識人といわれる人たちが普通の国民よりもより多くの高等教育を受けた人たちであるとするならば、大命題に対して糞まじめに邁進する国民に対してことの本質、物事の真贋、日本という国家の誇りと名誉、そして国益というものを解りやすく説かなければならないと思う。
それを放棄したまま大衆と一緒になって、ただただ御輿を担ぐだけでは知識人としてのモラルを欠いていると思う。
大衆というのは極めて無責任で、自分の得になることしか考えない。
自分が損することは回避しようとするのが普通なわけで、それでは国全体が立ちゆかないのであれば、大衆に少々の辛抱を求めるのが政治であり、統治であろうと思う。
そして、それを説くのが本来ならば知識人の知識人たる由縁でなかろうか。
著者は桜井よしこ氏である。
桜井女史はまれにみる男っぽい論調の人で、私には彼女の論調はすべて正論のように見える。大衆に迎合しないところが良い。
変に物わかりの良いポーズを取ることなく、感情論に押し流されることなく、ものごとの本質をストレートに突いていると思う。
我々人間の住む世界には人間の数だけ意見もあると思う。
百人百様というように、十人十色というように、人の意見というのはそれぞれに違っているのが当然である。
そうした様々な意見のなかで、高等教育を受けた人、いわゆる知識人といわれるような人は自らの接する情報の量が普通の人より格段に多いはずである。
その数段多い情報から自分の考えを形作るので、そういう人の意見は傾聴に値するということになるのがごく普通の有り体の筈である。
ところが、そういう知識人も現代の日本社会を生き抜くには人気商売に徹しなければならないわけで、人気を維持するためには大衆に迎合しなければならない。
評論家は自分の論説が売れなければ糊口を凌げないわけで、そのためには売れる商品、つまり大衆に人気のある論文を書かなければならないことになる。
それよりも前に、高等教育を受けた人、いわゆる知識人としては、一般大衆というものをある意味で見下げた信条をもっているのが普通だと思う。
「馬鹿なやつらに俺が教えてやる」というひそかな自負心を持っていると思う。
本来ならば高等教育を受けた人はそうであっても良いわけだが、そういう人たちが庶民を王様に見たてて、大衆のご機嫌取りをするところが卑屈に思える。
大衆にアピールすべき思考が、綺麗事に徹しきってしまって、大衆や庶民が傷つかないように思考を巡らし、攻撃しても一向に差し障りのないところに矛先を向ける。
このようにして大衆受けを狙っている中で、 それをフォローするのが肩書きといわれるもので、これがあるとないでは書いた作品の付加価値がうんと違ってくると思う。
無名のものがいくら良い作品を書いたとしても世間はそれを認めない。
ただ単に市井の一つの意見としての扱いでしかない。
このように世の評論家というのは論評を書いては、それをメデイアで発表しないことには生きていけれないわけで、生きるためには売れる作品でなければならない。
売れる作品を書くとなれば、大衆や民衆の対極に位置する政府や行政の肩を持つようなものではならないわけで、どうしても当局側を悪玉にし、民衆側を善玉に想定しなければならない。
経世の書がコマーシャリズムに毒されて、大衆受けする論評しかこの世に出回らないという風潮は極めて嘆かわしいことだと思う。
評論家といわれるような人が、自分が生きんが為とはいえコマーシャリズムに毒されて、大衆受けする論評をまき散らすということはある意味で知識人のモラルハザードだと思う。
大衆というものは無責任きわまりない存在で、究極のエゴのはずであるが、それを近年ではエゴイズムとは言わずに、大衆の潜在的な政治的欲求という表現で、個人のエゴイズムを擁護する風潮が顕著になってきた。
大衆受けを狙って、大衆の我が儘を我が儘と正面から言わずに、個人の自由とか価値観の相違など綺麗事で誤魔化すから、大衆は何時まで経っても、ことの本質を知覚しきれないままでいるのである。
我々日本人の歴史の中で約65年ほど前までは、この世に生を受けた人間の存在価値は、自分を含む諸々の人に奉仕することが美徳とされ、それを一部の同胞が拡大解釈して、天皇陛下のためというスローガンにすり替え、そのために国民全部が苦難に立ち至った。
それが戦後の民主教育では、自分以外の諸々の人に対する奉仕は苦役そのもので、個人の自由、いや自由を超越した我が儘を蔑ろにすることだからまかりならぬ、という風潮に変わってしまった。
国家こそ国民に奉仕する存在で、国は国民の望むものを無制限に分け与えるべき存在だ、という風に考え方が逆転してしまったので、国民の側に自分達の希望や願望を叶えることの出来ない祖国など敬愛するに当たらないという気持ちになってしまった。
よって、その後の日本の進歩的知識人といわれる人々は、その大命題、つまり国が国民に奉仕するという線に沿って、個人の我が儘の奨励ということに大車輪で向かったわけである。
この風潮は、日本人の特質を見事に表しているわけで、一旦世間の風向きが「これこそ我々の大命題だ!大儀だ!」と確信すると、事の真偽、真贋、本質を深く考察することなく、脇目もふらずにそこに邁進して、それからはずれたものをそれこそ異端者として排除しようという思考に至るのである。
戦前、戦中の我々同胞にとっての大儀・大命題というのは、いうまでもなく「鬼畜米英」、「撃ちし止まん」であったわけで、それを我々同胞は何の疑いもせずに全国民がその目標に邁進したいたではないか。
それが失敗に終わると、今度はベクトルが逆向きになって、我々は「祖国の政府に騙されてはならない。政府、行政、官僚というものは悪の権化で、国民の奈落に送り込む存在でしかない」というようになってしまった。
ある事柄が大儀となり、それが大命題となると、それこそ全国民が大まじめでそれに突き進んでいるではないか。
知識人といわれる人たちが普通の国民よりもより多くの高等教育を受けた人たちであるとするならば、大命題に対して糞まじめに邁進する国民に対してことの本質、物事の真贋、日本という国家の誇りと名誉、そして国益というものを解りやすく説かなければならないと思う。
それを放棄したまま大衆と一緒になって、ただただ御輿を担ぐだけでは知識人としてのモラルを欠いていると思う。
大衆というのは極めて無責任で、自分の得になることしか考えない。
自分が損することは回避しようとするのが普通なわけで、それでは国全体が立ちゆかないのであれば、大衆に少々の辛抱を求めるのが政治であり、統治であろうと思う。
そして、それを説くのが本来ならば知識人の知識人たる由縁でなかろうか。