例によって図書館から借りてきた本で『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』という本を読んだ。
著者は鳥居民という人で、2005年の出版だからもう旬が過ぎた感がしないでもない。
ところが読み始めたらめっぽう面白くて一気に最後まで読み通してしまった。
この表題の真意は、時の大統領トルーマンが自己顕示欲を満たすために、自分の実績、つまり原爆を使うことによって対日戦に勝利する、という実績を作るための工作であったということを述べている。
戦後の原爆使用に対する評価については、あれを使わなければ、対日戦に勝利するのにあと百万のアメリカの将兵がいったが、あれを使うことによってアメリカ将兵の命を多数死なせずに済んだ、だから道徳的なモラルは帳消しになる、つまり原爆使用の整合性はそこにあったのだ、という論理が展開された。
いわば普通に流布している、原爆使用の正当性の裏側を考察する趣旨のものである。
思えばあの戦争は第2次世界大戦と言われるだけあって、地球規模で展開された。
その中で我々の祖国日本はよく戦ったといえる。
だがしかし、戦い、戦争である限り、勝利しなければ意味がないわけで、まさにオール・オア・ナッシングでしかない。
私が過去の軍人たちを糾弾してやまない心情は、何故に勝利しえなかったのか、という点に尽きる。
あの時代、昭和の初期の時代、1920年代から40年にかけて、世界の指導者たちはそれこそグローバルな視点に立って、政治、外交、戦争というものを指導していた。
ところが我々の側はアジア大陸に食指を動かしてはいたが、その事が地球規模で如何なる影響を及ぼしたのか、という点にあまりにも無頓着であった。
世界は、そのことに、事の他腹を立てていたのだが、我々はその先方の立腹の真意を測りきれずに、表面的なメンツの問題という程度にしか理解していなかったということだ。
戦後の我々の同胞は、あの戦争の敗北を、軍人や軍部の所為にして全て彼らが悪かったのだ、という論法で自己弁護しているが、先にも述べた事ではあるが、あの時代の国民感情の底流には、明らかに草の根の軍国主義というものがあったと考えるべきである。
あの時代にも、軍の機関でない大学、帝国大学という立派な高等教育機関は存在しており、そこでは高遠な学問が教授されていたに違いないと思う。
そこで立派な学問を習得された方々は、それぞれにその学問を役立てるにふさわしいセクシュンに就かれ、そこで職務なり業務に専心することにより、それが回りまわって社会に貢献することになっていた筈である。
そういう人達が、新聞やラジオの報ずることを聞いておれば、「これはおかしな方向に進みつつあるな」ということは感じとれたと思う。
だから、ここで何故行動に出れなかったのか、という詰問は明らかに戦後世代の発想で、時代考証について無知に等しいということになる。
当時は治安維持法があったから、思ったことをそのままストレートに表明することは確かに憚られたであろうが、思ったことをその通りにストレートに表明するなどということは、バカな人のバカな立ち居振る舞いで、教養知性に富んだ人ならばそういう事はありえない。
少なくとも帝国大学を出たような人ならば、治安維持法の網の目を潜るぐらいの知恵と才覚は備えている筈である。
そもそも、軍人が政治を司る状況を座視して見ている知識人の存在そのものが、世紀末を予見していたということだ。
その前に何故軍人が政治の場にのさばりだしたのかと考えねばならないわけで、その理由は政党政治の堕落に他ならない。
それとは別に、この当時の高級将校は陸軍海軍を問わず、それぞれに陸軍大学、海軍大学を出ているが、その中の教育とは一体何であったのかということが言える。
もしこの中の教育が、真に国の在り様に資する内容のものであったとすれば、あるいは天皇制を真に憂う内容のものであったとすれば、負けるような戦争指導というのは有り得ず、政治に介入するということもなく、シビリアン・コントロールは厳然と維持されていたに違いない。
21世紀の今日、世界は完全にグローバル化して、ヒト、モノ、金は国境を越えて自由に行き来しているが、昭和の初期の時代でも世界はそれなりにグローバル化していたわけで、そのグローバル化の中で日本は孤立化させられていたのである。
何故我々が孤立化させられたかといえば、やはり中国に対する軍の進出であったわけで、満州という傀儡国家を軍主導で作り上げて、そこからの利益を独り占めしようという魂胆を見透かされていたということだと思う。
我々の立場からすれば、生きんが為の生存競争で、適者生存の自然の摂理に則った行動であったとしても、その事が世界の人々の生き方にも大きく影響してくるわけで、「小生意気なジャップを叩け」というスローガンが、地球規模でグローバル化してしまったということだ。
世界の歴史は、ある意味で政治の失敗の歴史でもあるわけで、我々の国が連合軍と戦争して負けたというのも、我々の側の政治の失敗であった。
ならば連合軍側にはこういう政治の失敗は無かったのかと問えば、やはり掃いて捨てるほどあるが、我々が経験したような祖国が灰燼と化すような激烈なものはさほど見当たらない。
この本は、あの時期の連合軍側の首脳の動きが縷々述べられているが、どこの国の首脳もそれなりに個々の悩みを持ち、さまざまに逡巡しながら国の舵取りをしている。
アメリカもソ連もそれなりに小さな失敗は重ねているが、結果が良かったのでその失敗は立ち消えになってしまっている。
この本を読んだ感想は、著者はトルーマンが自分の自己顕示欲を満たすための演出として原爆投下を決定したのであって、百万のアメリカ将兵の為ではない、ということを証明することにあったように見える。
つまり、トルーマン大統領の政治的瑕疵を暴き立てるのが目的のように見えるが、それは原爆使用が百万のアメリカ将兵の命を救った、という評価を正面から攻撃するものである。
私が面白いと思った部分は、そこではなくて、アメリカは旧ソビエットにも、中国・蒋介石の国民党政府にも、膨大な軍事援助をしていたということである。
日本に対しても戦後ではあるが食糧援助をしてくれたことは受けた側としては忘れてならないことであるが、アメリカ側として、彼らのした海外援助の中で真に報われたのは、対日援助だけではないかと思われる。
旧ソビエットに対する膨大な軍事援助、蒋介石の国民党政府に対する膨大な軍事援助、こういう物はすべてその後にはアメリカに歯向かう対抗勢力になってしまったわけで、戦火こそ交えなかったが、結果的に敵に塩を送った形になってしまった。
しかし、この対ソ援助、対中援助も、あの時期のアメリカ経済の底上げには大いに貢献していたのかもしれない。
モノ、この場合、軍需物資であるが、そういう物をどんどん作って、どんどん消費すれば経済にとっては好都合なわけで、それでアメリカは戦争さえあれば景気が上向くということになるのであろう。
援助した相手に裏切られたという意味で、アメリカの政治・外交の完全なる失敗であるが、その事によってアメリカ全土が灰燼に化すような事態にはならなかったので、何となくうやむやの内に時が流れてしまった感がする。
ソ連はソ連で同じようなミスを犯しているわけで、その一つがドイツの電撃戦の予兆を得ながらそれを無視した愚、あるいはゾルゲの情報を得ながらそれを無視した愚、アメリカの原爆開発の情報を得ながらそれを金庫にしまってしまった愚、こういういくつかの失敗を重ねながらも、結果としてヨーロッパの東の部分を大方共産主義で席巻してしまったので、その数々の失敗は帳消しになってしまったのである。
ところが我々の場合は、政治・外交の失敗が祖国の消滅の危機にまで至ってしまったので、ただたんに「失敗しました」、「失敗でした」だけでは済まされないのである。
第2次世界大戦、我々の呼称では大東亜戦争であるが、この戦争は実に大きな意義を抱え込んだ世界戦争であったとつくづく思う。
我々は1941年、昭和16年12月8日の開戦の詔勅で米英仏蘭に宣戦布告をしたと思っているが、その事は世界を相手に戦争を仕掛けた、という認識にまでには至っていなかったと思う。
ましてやソ連までが敵側に回るなどとは思ってもいなかったわけで、この認識の齟齬は一体どうしてだったのだろう。
ソ連、旧ソビエット連邦というものが共産主義の国で、共産主義というものがどういう思想なのかも知らずにいたのだろうか。
ならば治安維持法の真意も知らないまま法案成立させたということであろうか。
前にも述べたが、昭和初期の日本にも、帝国大学という普通に広範な教養を教えて、智と理性の殿堂のような立派な国立大学があったわけで、そこを巣立った立派な外交官、政治家、官僚も掃いて捨てるほどいたにちがいない。
にもかかわらず、14、5歳から軍の職業訓練校で純粋培養された狭量で視野の狭い単細胞の軍人の跋扈を許したのはどういう事なのであろう。
軍人というのは戦うことが仕事で、彼らは日清・日露の戦でそれなりの実績を上げたことは事実であって、その実績に基づいて彼らの評価が高かったことは万人が認めることであるが、この万人が「軍人は偉い」と思い込んだことが諸悪の根源である。
その部分の悔悟を説くのが一般教養を備えた知識人であらねばならなかったが、彼らが軍人がチャラチャラ鳴らすサーベルの音に震え上がってしまったから日本は奈落の底に転がり落ちたのである。
ところがこの一般教養を具現化しているはずの知識人の一部が、先鋭な思想に走って共産主義に傾倒するものが多くなったので、治安維持法ということになるわけで、その意味でもこの時代の知識人の思考のバランス感覚が正常に機能しなかったために、軍人の専横ということになったと思われる。
日本の国内で、単細胞の軍人が官僚化して、官僚的発想で以て無責任な作戦を練っている時、連合国ではまさしくグローバル的に連携を取り合って、日本包囲の罠を萎めつつあった。
日本を奈落の底の落とすために、アメリカは持てる力の全てを注ぎ込んだが、その中にはアメリカ国民に損失をもたらした、対ソ援助や対中援助もあるわけで、その部分ではアメリカの外交の失敗の事例ということも言える。
ソ連や中国に対する膨大な軍事援助は、単純にソ連や蒋介石を喜ばすことはできたが、アメリカ国民にそれがフイードバックされたことはないわけで、その金は見事に宙に消えたということだ。
この本は初めから最後まで気の抜けない興味に満たされていたが、最後にアメリカが最高機密にしていた原爆開発の情報が、ほぼリアルタイムでソ連に筒抜けになっていたという事実の暴露は興味深いものであった。
そしてその情報をソ連のスターリンは過小評価していて、いささかも信用することなく、金庫の中にしまっていたという事実の暴露である。
この事例は、アメリカもソ連も上手の手から水が漏れるようなもので、第3者の視点から見れば笑っておれるが、彼らにはこういう失敗が重なっても、祖国が灰になることは無かった。
ところが我々の国は、こういう単純な失敗が重なって、国全体が灰燼となり、国民は塗炭の苦しみを背負うことになったのである。
私が不思議でならないことは、昭和20年8月15日、天皇の玉音放送があって、日本軍は戦闘を止めたが、この時の東京の状況は見渡す限り焼野原で、必然的に交戦能力はゼロであるにもかかわらず、なおも徹底抗戦を唱える軍人がいたという現実である。
この人たちの頭の中は一体どうなっているのか甚だ不思議でならない。
あの状況下で尚も戦えということは、まさしく死ねと言っているわけで、こんなバカな話もないと思うが、当人たちは真剣にそう思っていたわけで、現にそれで死んだ人もいる。
これは一体どういう事なのであろう。
あの時代、昭和の初期の時代に、普通の帝国大学を出でた人たちで、「軍人に政治を任せてはならない」ということを言った人は一人も居なかったのだろうか。
軍人の中から、「俺達が政治をすることはない、政府の指針に従うだけでいい」と言う人は一人も居なかったのだろうか。
何ともかんとも不可解な時代である。
私の独断と偏見で言えば、この時流は明治維新の矛盾がこの時期に噴出した現象のように思えてならない。
つまり、それは身分制度の崩壊のもたらした後遺症のようなもので、民主化の過程で避けて通れない通過儀礼であったように思えてならない。
江戸時代の約250年という期間は、人々は分に応じた生活で過不足なく生きていた。
つまり、西洋流の言い方をすればパン屋は代々パン屋で、靴屋は代々靴屋で、桶屋は代々桶屋で満足していたが、明治維新で個人意識が覚醒されると、誰もかれもが人の上に立って威張れる職業を目指すようになった。
そういう立場を得た人たちを「出世した」と言って、崇め奉り、自分もそれにあやかりたいと願い、その方向に向けて努力する。
その努力の第一歩が進学すること、学問を付けることで、より高度の学校に進学すると、その分自分の進路が開けるわけで、人々はより高いポストを狙って、ますます勉学に励むようになるのである。
それを具体的に目に見える形で具現化する職業が軍人なわけで、世の秀才の誉れ高い若者は、こぞってそこに集中したのである。
ところがこの現象を皮肉でうがった見方をすれば、優秀な奴ほど時流の潮の目を見るのに如才なく、時の風潮に見事に迎合して、良いとこ取りに抜かりがない生き方という評価もある。
日本の民主化はペーパーチェック一本で成り立っており、それは極めて公平で平等なシステムともいえるが、これでは個人のモラルを測ることはできない。
その上成績順というのであれば、個人の倫理観というのは全く問題にされないことになってしまう。
だから陸軍でも海軍でも組織内からの自浄作用が全く生まれてこなかったわけで、結果として組織が崩壊するまで自分たちの立ち居振る舞いを自己検証することがなかった。
明治維新で身分制度が崩壊したとき、明治政府は優秀な人材を広範なエリアから広く選ぼうとして、ペーパーチェックで篩に掛けたが、そこには水飲み百姓並みの子弟がわんさと応募してきたが、ペーパーチェックのみが篩の基準であれば、その中の多くが採用されて、そういう人達が数年後には軍の枢要な地位に就くということになったのである。
その過程で、個人のモラルに関しては何の篩もないわけで、ノブレスオブリージを欠いた高級軍人、高級参謀が大勢輩出したということだと思う。
このクラスの軍人からすれば、1銭5厘で招集された兵・下士官など、人間の内にも入っておらずに、犬か馬並みの存在でしかなかったのではないかと思う。
問題とすべきは、こういう感覚が何処で醸成されたかということで、少なくとも陸軍大学、海軍大学でそういう感覚に磨きが掛かったのではなかろうかという疑惑である。
こういう専門学校を出れば、当然、その職域の中で権威者になるわけで、ある意味で雲の上の人になるのであろうが、そういう人の見識が真に的を得たものであるならば、戦争に負ける、作戦の失敗ということはありえないということになる。
だが結果として、陸軍大学、海軍大学を出た人が戦争指導したにもかかわらず、負けたということは、そこで行われた教育は一体何であったのかということになる。
一方、一般の普通の大学、旧帝国大学にも大勢の優秀な若者が集ったわけで、そこの卒業生も数多くいて、それぞれの業界でそれぞれに活躍していたに違いなかろうが、そういう人達も単細胞の軍人の独断専横の行動に何ひとつブレーキを掛けることが出来なかったということは一体どういう事なのであろう。
我々が明治以降教育に力を注いきたのは、知識の吸収や技能の習得も教育の大きな目的でったろうが、それにも増して、モラルの向上ということも大きな教育目標ではなかったかと思う。
味噌も糞も一緒くたに篩にかけて、その篩の目に残ったのは、学術優秀ではあったが、モラル的には最低の人士が生き残ってしまったということではなかろうか。
そうでなければ軍人の職業訓練校としての最高学府を出た人が、負ける戦争をするはずがないではないか。
負けそうな状況ならば、その雰囲気を感じるや否や、機を失することなく和平工作を打って、敗北という屈辱を回避する手立てを講じると思う。
昭和の初期の時代、1920年代においても世界は充分にグローバル化していたわけで、その中において日本人と日本民族は充分に嫌われていたことを忘れてはならない。
何故我々は世界から嫌われたかと問えば、それは我々があまりにも優秀であったからである。
我々がフイリッピン人や、ポリネシア人、あるいはアポリジニぐらいであれば、アメリカは排日移民法など作らず、鷹揚に構えておれたが、我々が余りにも優秀であったので、庇を貸して母屋を盗られることを恐れたのである。
だから先方にすれば、日本に対する原爆投下も良心の呵責を感ずることなく、平然と行えたのである。
これが同じ敵国でもドイツとかイタリアへの投下ならば、おそらく対応が異なっていたと思われる。
それにつけても、あの戦争の前と後の我々の対応の不味さというのは一体どういう事なのであろう。
戦前においてはドイツと組む政治的外交的センス、終戦の仲裁を旧ソビエットに頼む政治外交のセンス。このバカバカしさは一体なんであったのだろう。
著者は鳥居民という人で、2005年の出版だからもう旬が過ぎた感がしないでもない。
ところが読み始めたらめっぽう面白くて一気に最後まで読み通してしまった。
この表題の真意は、時の大統領トルーマンが自己顕示欲を満たすために、自分の実績、つまり原爆を使うことによって対日戦に勝利する、という実績を作るための工作であったということを述べている。
戦後の原爆使用に対する評価については、あれを使わなければ、対日戦に勝利するのにあと百万のアメリカの将兵がいったが、あれを使うことによってアメリカ将兵の命を多数死なせずに済んだ、だから道徳的なモラルは帳消しになる、つまり原爆使用の整合性はそこにあったのだ、という論理が展開された。
いわば普通に流布している、原爆使用の正当性の裏側を考察する趣旨のものである。
思えばあの戦争は第2次世界大戦と言われるだけあって、地球規模で展開された。
その中で我々の祖国日本はよく戦ったといえる。
だがしかし、戦い、戦争である限り、勝利しなければ意味がないわけで、まさにオール・オア・ナッシングでしかない。
私が過去の軍人たちを糾弾してやまない心情は、何故に勝利しえなかったのか、という点に尽きる。
あの時代、昭和の初期の時代、1920年代から40年にかけて、世界の指導者たちはそれこそグローバルな視点に立って、政治、外交、戦争というものを指導していた。
ところが我々の側はアジア大陸に食指を動かしてはいたが、その事が地球規模で如何なる影響を及ぼしたのか、という点にあまりにも無頓着であった。
世界は、そのことに、事の他腹を立てていたのだが、我々はその先方の立腹の真意を測りきれずに、表面的なメンツの問題という程度にしか理解していなかったということだ。
戦後の我々の同胞は、あの戦争の敗北を、軍人や軍部の所為にして全て彼らが悪かったのだ、という論法で自己弁護しているが、先にも述べた事ではあるが、あの時代の国民感情の底流には、明らかに草の根の軍国主義というものがあったと考えるべきである。
あの時代にも、軍の機関でない大学、帝国大学という立派な高等教育機関は存在しており、そこでは高遠な学問が教授されていたに違いないと思う。
そこで立派な学問を習得された方々は、それぞれにその学問を役立てるにふさわしいセクシュンに就かれ、そこで職務なり業務に専心することにより、それが回りまわって社会に貢献することになっていた筈である。
そういう人達が、新聞やラジオの報ずることを聞いておれば、「これはおかしな方向に進みつつあるな」ということは感じとれたと思う。
だから、ここで何故行動に出れなかったのか、という詰問は明らかに戦後世代の発想で、時代考証について無知に等しいということになる。
当時は治安維持法があったから、思ったことをそのままストレートに表明することは確かに憚られたであろうが、思ったことをその通りにストレートに表明するなどということは、バカな人のバカな立ち居振る舞いで、教養知性に富んだ人ならばそういう事はありえない。
少なくとも帝国大学を出たような人ならば、治安維持法の網の目を潜るぐらいの知恵と才覚は備えている筈である。
そもそも、軍人が政治を司る状況を座視して見ている知識人の存在そのものが、世紀末を予見していたということだ。
その前に何故軍人が政治の場にのさばりだしたのかと考えねばならないわけで、その理由は政党政治の堕落に他ならない。
それとは別に、この当時の高級将校は陸軍海軍を問わず、それぞれに陸軍大学、海軍大学を出ているが、その中の教育とは一体何であったのかということが言える。
もしこの中の教育が、真に国の在り様に資する内容のものであったとすれば、あるいは天皇制を真に憂う内容のものであったとすれば、負けるような戦争指導というのは有り得ず、政治に介入するということもなく、シビリアン・コントロールは厳然と維持されていたに違いない。
21世紀の今日、世界は完全にグローバル化して、ヒト、モノ、金は国境を越えて自由に行き来しているが、昭和の初期の時代でも世界はそれなりにグローバル化していたわけで、そのグローバル化の中で日本は孤立化させられていたのである。
何故我々が孤立化させられたかといえば、やはり中国に対する軍の進出であったわけで、満州という傀儡国家を軍主導で作り上げて、そこからの利益を独り占めしようという魂胆を見透かされていたということだと思う。
我々の立場からすれば、生きんが為の生存競争で、適者生存の自然の摂理に則った行動であったとしても、その事が世界の人々の生き方にも大きく影響してくるわけで、「小生意気なジャップを叩け」というスローガンが、地球規模でグローバル化してしまったということだ。
世界の歴史は、ある意味で政治の失敗の歴史でもあるわけで、我々の国が連合軍と戦争して負けたというのも、我々の側の政治の失敗であった。
ならば連合軍側にはこういう政治の失敗は無かったのかと問えば、やはり掃いて捨てるほどあるが、我々が経験したような祖国が灰燼と化すような激烈なものはさほど見当たらない。
この本は、あの時期の連合軍側の首脳の動きが縷々述べられているが、どこの国の首脳もそれなりに個々の悩みを持ち、さまざまに逡巡しながら国の舵取りをしている。
アメリカもソ連もそれなりに小さな失敗は重ねているが、結果が良かったのでその失敗は立ち消えになってしまっている。
この本を読んだ感想は、著者はトルーマンが自分の自己顕示欲を満たすための演出として原爆投下を決定したのであって、百万のアメリカ将兵の為ではない、ということを証明することにあったように見える。
つまり、トルーマン大統領の政治的瑕疵を暴き立てるのが目的のように見えるが、それは原爆使用が百万のアメリカ将兵の命を救った、という評価を正面から攻撃するものである。
私が面白いと思った部分は、そこではなくて、アメリカは旧ソビエットにも、中国・蒋介石の国民党政府にも、膨大な軍事援助をしていたということである。
日本に対しても戦後ではあるが食糧援助をしてくれたことは受けた側としては忘れてならないことであるが、アメリカ側として、彼らのした海外援助の中で真に報われたのは、対日援助だけではないかと思われる。
旧ソビエットに対する膨大な軍事援助、蒋介石の国民党政府に対する膨大な軍事援助、こういう物はすべてその後にはアメリカに歯向かう対抗勢力になってしまったわけで、戦火こそ交えなかったが、結果的に敵に塩を送った形になってしまった。
しかし、この対ソ援助、対中援助も、あの時期のアメリカ経済の底上げには大いに貢献していたのかもしれない。
モノ、この場合、軍需物資であるが、そういう物をどんどん作って、どんどん消費すれば経済にとっては好都合なわけで、それでアメリカは戦争さえあれば景気が上向くということになるのであろう。
援助した相手に裏切られたという意味で、アメリカの政治・外交の完全なる失敗であるが、その事によってアメリカ全土が灰燼に化すような事態にはならなかったので、何となくうやむやの内に時が流れてしまった感がする。
ソ連はソ連で同じようなミスを犯しているわけで、その一つがドイツの電撃戦の予兆を得ながらそれを無視した愚、あるいはゾルゲの情報を得ながらそれを無視した愚、アメリカの原爆開発の情報を得ながらそれを金庫にしまってしまった愚、こういういくつかの失敗を重ねながらも、結果としてヨーロッパの東の部分を大方共産主義で席巻してしまったので、その数々の失敗は帳消しになってしまったのである。
ところが我々の場合は、政治・外交の失敗が祖国の消滅の危機にまで至ってしまったので、ただたんに「失敗しました」、「失敗でした」だけでは済まされないのである。
第2次世界大戦、我々の呼称では大東亜戦争であるが、この戦争は実に大きな意義を抱え込んだ世界戦争であったとつくづく思う。
我々は1941年、昭和16年12月8日の開戦の詔勅で米英仏蘭に宣戦布告をしたと思っているが、その事は世界を相手に戦争を仕掛けた、という認識にまでには至っていなかったと思う。
ましてやソ連までが敵側に回るなどとは思ってもいなかったわけで、この認識の齟齬は一体どうしてだったのだろう。
ソ連、旧ソビエット連邦というものが共産主義の国で、共産主義というものがどういう思想なのかも知らずにいたのだろうか。
ならば治安維持法の真意も知らないまま法案成立させたということであろうか。
前にも述べたが、昭和初期の日本にも、帝国大学という普通に広範な教養を教えて、智と理性の殿堂のような立派な国立大学があったわけで、そこを巣立った立派な外交官、政治家、官僚も掃いて捨てるほどいたにちがいない。
にもかかわらず、14、5歳から軍の職業訓練校で純粋培養された狭量で視野の狭い単細胞の軍人の跋扈を許したのはどういう事なのであろう。
軍人というのは戦うことが仕事で、彼らは日清・日露の戦でそれなりの実績を上げたことは事実であって、その実績に基づいて彼らの評価が高かったことは万人が認めることであるが、この万人が「軍人は偉い」と思い込んだことが諸悪の根源である。
その部分の悔悟を説くのが一般教養を備えた知識人であらねばならなかったが、彼らが軍人がチャラチャラ鳴らすサーベルの音に震え上がってしまったから日本は奈落の底に転がり落ちたのである。
ところがこの一般教養を具現化しているはずの知識人の一部が、先鋭な思想に走って共産主義に傾倒するものが多くなったので、治安維持法ということになるわけで、その意味でもこの時代の知識人の思考のバランス感覚が正常に機能しなかったために、軍人の専横ということになったと思われる。
日本の国内で、単細胞の軍人が官僚化して、官僚的発想で以て無責任な作戦を練っている時、連合国ではまさしくグローバル的に連携を取り合って、日本包囲の罠を萎めつつあった。
日本を奈落の底の落とすために、アメリカは持てる力の全てを注ぎ込んだが、その中にはアメリカ国民に損失をもたらした、対ソ援助や対中援助もあるわけで、その部分ではアメリカの外交の失敗の事例ということも言える。
ソ連や中国に対する膨大な軍事援助は、単純にソ連や蒋介石を喜ばすことはできたが、アメリカ国民にそれがフイードバックされたことはないわけで、その金は見事に宙に消えたということだ。
この本は初めから最後まで気の抜けない興味に満たされていたが、最後にアメリカが最高機密にしていた原爆開発の情報が、ほぼリアルタイムでソ連に筒抜けになっていたという事実の暴露は興味深いものであった。
そしてその情報をソ連のスターリンは過小評価していて、いささかも信用することなく、金庫の中にしまっていたという事実の暴露である。
この事例は、アメリカもソ連も上手の手から水が漏れるようなもので、第3者の視点から見れば笑っておれるが、彼らにはこういう失敗が重なっても、祖国が灰になることは無かった。
ところが我々の国は、こういう単純な失敗が重なって、国全体が灰燼となり、国民は塗炭の苦しみを背負うことになったのである。
私が不思議でならないことは、昭和20年8月15日、天皇の玉音放送があって、日本軍は戦闘を止めたが、この時の東京の状況は見渡す限り焼野原で、必然的に交戦能力はゼロであるにもかかわらず、なおも徹底抗戦を唱える軍人がいたという現実である。
この人たちの頭の中は一体どうなっているのか甚だ不思議でならない。
あの状況下で尚も戦えということは、まさしく死ねと言っているわけで、こんなバカな話もないと思うが、当人たちは真剣にそう思っていたわけで、現にそれで死んだ人もいる。
これは一体どういう事なのであろう。
あの時代、昭和の初期の時代に、普通の帝国大学を出でた人たちで、「軍人に政治を任せてはならない」ということを言った人は一人も居なかったのだろうか。
軍人の中から、「俺達が政治をすることはない、政府の指針に従うだけでいい」と言う人は一人も居なかったのだろうか。
何ともかんとも不可解な時代である。
私の独断と偏見で言えば、この時流は明治維新の矛盾がこの時期に噴出した現象のように思えてならない。
つまり、それは身分制度の崩壊のもたらした後遺症のようなもので、民主化の過程で避けて通れない通過儀礼であったように思えてならない。
江戸時代の約250年という期間は、人々は分に応じた生活で過不足なく生きていた。
つまり、西洋流の言い方をすればパン屋は代々パン屋で、靴屋は代々靴屋で、桶屋は代々桶屋で満足していたが、明治維新で個人意識が覚醒されると、誰もかれもが人の上に立って威張れる職業を目指すようになった。
そういう立場を得た人たちを「出世した」と言って、崇め奉り、自分もそれにあやかりたいと願い、その方向に向けて努力する。
その努力の第一歩が進学すること、学問を付けることで、より高度の学校に進学すると、その分自分の進路が開けるわけで、人々はより高いポストを狙って、ますます勉学に励むようになるのである。
それを具体的に目に見える形で具現化する職業が軍人なわけで、世の秀才の誉れ高い若者は、こぞってそこに集中したのである。
ところがこの現象を皮肉でうがった見方をすれば、優秀な奴ほど時流の潮の目を見るのに如才なく、時の風潮に見事に迎合して、良いとこ取りに抜かりがない生き方という評価もある。
日本の民主化はペーパーチェック一本で成り立っており、それは極めて公平で平等なシステムともいえるが、これでは個人のモラルを測ることはできない。
その上成績順というのであれば、個人の倫理観というのは全く問題にされないことになってしまう。
だから陸軍でも海軍でも組織内からの自浄作用が全く生まれてこなかったわけで、結果として組織が崩壊するまで自分たちの立ち居振る舞いを自己検証することがなかった。
明治維新で身分制度が崩壊したとき、明治政府は優秀な人材を広範なエリアから広く選ぼうとして、ペーパーチェックで篩に掛けたが、そこには水飲み百姓並みの子弟がわんさと応募してきたが、ペーパーチェックのみが篩の基準であれば、その中の多くが採用されて、そういう人達が数年後には軍の枢要な地位に就くということになったのである。
その過程で、個人のモラルに関しては何の篩もないわけで、ノブレスオブリージを欠いた高級軍人、高級参謀が大勢輩出したということだと思う。
このクラスの軍人からすれば、1銭5厘で招集された兵・下士官など、人間の内にも入っておらずに、犬か馬並みの存在でしかなかったのではないかと思う。
問題とすべきは、こういう感覚が何処で醸成されたかということで、少なくとも陸軍大学、海軍大学でそういう感覚に磨きが掛かったのではなかろうかという疑惑である。
こういう専門学校を出れば、当然、その職域の中で権威者になるわけで、ある意味で雲の上の人になるのであろうが、そういう人の見識が真に的を得たものであるならば、戦争に負ける、作戦の失敗ということはありえないということになる。
だが結果として、陸軍大学、海軍大学を出た人が戦争指導したにもかかわらず、負けたということは、そこで行われた教育は一体何であったのかということになる。
一方、一般の普通の大学、旧帝国大学にも大勢の優秀な若者が集ったわけで、そこの卒業生も数多くいて、それぞれの業界でそれぞれに活躍していたに違いなかろうが、そういう人達も単細胞の軍人の独断専横の行動に何ひとつブレーキを掛けることが出来なかったということは一体どういう事なのであろう。
我々が明治以降教育に力を注いきたのは、知識の吸収や技能の習得も教育の大きな目的でったろうが、それにも増して、モラルの向上ということも大きな教育目標ではなかったかと思う。
味噌も糞も一緒くたに篩にかけて、その篩の目に残ったのは、学術優秀ではあったが、モラル的には最低の人士が生き残ってしまったということではなかろうか。
そうでなければ軍人の職業訓練校としての最高学府を出た人が、負ける戦争をするはずがないではないか。
負けそうな状況ならば、その雰囲気を感じるや否や、機を失することなく和平工作を打って、敗北という屈辱を回避する手立てを講じると思う。
昭和の初期の時代、1920年代においても世界は充分にグローバル化していたわけで、その中において日本人と日本民族は充分に嫌われていたことを忘れてはならない。
何故我々は世界から嫌われたかと問えば、それは我々があまりにも優秀であったからである。
我々がフイリッピン人や、ポリネシア人、あるいはアポリジニぐらいであれば、アメリカは排日移民法など作らず、鷹揚に構えておれたが、我々が余りにも優秀であったので、庇を貸して母屋を盗られることを恐れたのである。
だから先方にすれば、日本に対する原爆投下も良心の呵責を感ずることなく、平然と行えたのである。
これが同じ敵国でもドイツとかイタリアへの投下ならば、おそらく対応が異なっていたと思われる。
それにつけても、あの戦争の前と後の我々の対応の不味さというのは一体どういう事なのであろう。
戦前においてはドイツと組む政治的外交的センス、終戦の仲裁を旧ソビエットに頼む政治外交のセンス。このバカバカしさは一体なんであったのだろう。