ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「私は勉強したい」

2008-09-23 08:19:08 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「私は勉強したい」という本を読んだ。
中国の僻地、帳家樹という中国の典型的な内陸部の田舎の少女が、家が貧しいがゆえにミニマムの教育さえままならないという現状が、少女の日記を通じて告発されている。
日記そのものは、いたいけない少女の日常生活を綴ったもので、それほど感動すべきものでもない。
日本でいえば、「おしん」のような境遇であろうが、「おしん」は貧しい境遇を経て大人になるが、この本ではそこまでの過程は語られていないわけで、幼少時代のままで終わっている。
私は実に意地悪は発想をする癖があって、自分でもその根性の曲がり方が気に入っていないが、この貧しい少女の日記が、何故にフランスを経由して、日本語の本としてここにあるのかが不可解である。
この本の発行の魂胆が、こういう可哀そうな子供が大勢いるから、そういう人たちを支援して、皆で豊かな社会を作りましょう、という発想のもとに、こういう本が発行されていると思う。
この発想は、先進国の人々の奢りだと思うし、善意の押し売り、押しつけだと思う。
自分は福祉という善行を行って、人助けをしているのだ、という自己満足に過ぎないと思う。
貧しい人に、ものを恵む時の気持ちというのは優越感に満ちたものだと思う。
ほんの端した金でも、恵まれた方はお礼を言うわけで、その礼を受ける側には明らかに優越感が芽生えると思う。
確かに、今の世界には富と貧困が偏在している。
金持ちはどこまでも金持ちであり、貧乏人はどこまでも貧乏である。
貧乏人に物や金を恵むことは気持ちが良いわけで、その快感というのは自分が善行を施したという自己満足に由来すると思う。
貧しい人に物や金を恵むということは、世界的な規模、地球的な視点で見て、良い事、善行、気高く価値ある行い、という価値観が普遍化しているわけで、この価値観を覆す思考というのは現時点ではありえない。
だから、そういう行いに対して、あれば売名行為だとか人気取りだとかいう言葉で反駁が出来ないわけで、そういう人達は大手をふって自分たちの思い上がった思考を実践できるのである。
この本の存在そのものが、それを目の当たりにしているのではなかろうか。
中国の奥地の貧しい少女の日記を、豊な国の人たちがメデイアを利用し、人々の同情を煽り、その善意の高揚した気分を利用して金を集め、それで中国の僻地での教育を高上させるということは、道義的にも立派な良いことで、誰も異論を差し挟む余地がない。
今の地球上には、富と貧困は同時代的に偏在しているが、こういう貧しい地域というのは他にいくらでもあると思う。
考えてみれば、この貧しさこそが人間の本来の姿なわけで、富んだ生活の方こそ、人間の本来の姿からすれば異端な部類だと思う。
異端な生活であればこそ、常に危機にさらされているわけで、原始の自然の生活ならば、現代人が憂うべき危機や不安もかなり少ないはずである。
現代人であればあるほど、原始の人間の生活から程遠い生き方をしているわけで、それが少しでも後戻りしようものなら、たちまちパニックに陥る。
私は子供のころから西部劇が好きでよく見たものであるが、あの西部劇の背景に描かれている場面(荒野)と、アジアの奥、中国の奥地からモンゴルの一体の光景というのは実によく似ている。
しかし、そこに登場する人間には、実に大きな隔たりがあるわけで、西部劇に出てくるガンマンは実に格好いいが、裸馬で駆け抜ける蒙古人の姿というのは如何にも野暮ったい。
西部劇に登場するインデアンというのは基本的に我々と同じモンゴロイドであるが、それでも蒙古人よりはスマートに描かれている。
この見た目の格差というのは一体何なのであろう。
どこからそれが出てくるのであろう。
何がそういう違和感を覚えるのであろう。
西部劇の舞台のアメリカと、アジアの奥地の地勢的な条件はたぶんよく似たものだと思う。
ただ我々が映画の画面を見てアメリカの方が格好よく見えるというのは、西部劇にはキリスト教文化圏の臭いがするが、ネイティブな人達は後ろの方に追いやられてしまっているからだと思う。
つまり、アジアの奥地の人々は、その地で生まれ育ち、その場を離れたことがなく、栄々と何世紀も前のしきたりと伝統を守りながら生きていたので、彼らは彼らの小宇宙に満足しきってしまい、他の世界を知らないからであろう。
一方、アメリカのガンマンたちは、銃というキリスト教文化をひっさげて、ネイテヴな人々を駆逐しながら、西部を征服してそこに白人の世界を築いたわけである。
つまり一言でいい表わせば、アメリカ大陸では文化が接木されて、もともといたネイティブな人々と新しい人たちが重層的に重なり合って社会を形つくっている。
一方アジアの奥地では、そういう変遷もなく、人々は戦争という形で多少は血の混じり合うことがあったとしても、全体としては太古からの民族がそのままの姿で生き残っていたということがいえる。
けれども、そのことが何故貧乏なままなのか、という答えにはなっていないわけで、それにはまた別の理由があるに違いない。
その前に、アメリカ大陸では砂漠地帯を人間の手で緑の大地に変える努力をした。
ところがアジアではそういう発想が根付かなかったのは一体どうしてなのであろう。
地球上に住む人間で、自分たちの住んでいる環境が過酷ならば、その地を離れるか、あるいはその地を改良することを考えると思う。
その地を離れることが一番安易な方法であるが、そうそう移転先が見つかるわけもないというのも厳しい現実であろうと思う。
それに反し、自分たちの住んでいるところを変える、つまり土地の方を変えるということは大変な事業ではあるが、一度完成させれば子々孫々利用できるというメリットがある。
中国でも南の方には人工的に作られた水路や灌漑用水というのは沢山あるだろうが、山奥の僻地にはそれがないのも当然のことではある。
当然、この現実にも、政治の力が作用しているわけで、南の肥沃な地域には投資がなされるが、山奥の辺鄙な場所では、投資をしても見返りが期待できそうもないので、誰も土地の面倒を見ないということだと思う。
この地球上の土地には、人々が忌み嫌う土地というのもあるわけで、例えば日本が統治する前の台湾は、中国人からすれば化外の地であったし、今の中国東北部、旧満州も、台湾と同じように中国の人々からは化外の地並みに扱われていた。
つまり、中国人が好き好んで赴任する地ではなかったはずで、こういう土地がモンゴルであり、チベットであり、内蒙古という土地である。
この本は、少女の日記という形ではあるが、あきらかに中国の現状を暴露するものである。
現在の中国、目覚ましい経済発展の象徴としての北京オリンピックの開催の裏側には、こういう悲惨な現実があるということを暴露している。
それは同時に共産主義の破綻をも表しているわけで、共産主義による社会構築が完全に行き詰って機能していないということの告発でもある。
それはある意味で、人間の生存という観点からとらえれば、ごく自然な成り行きなのかもしれない。
人間の極々自然の願望というのは、楽して儲けたい、いや、何もせずに食えれば、寝て暮らせれば、というのが本音だと思う。
人々の心の中の本当の心ではそう考え、そう思っているに違いない。
ところが人間には、その怠惰な心を律する感情も同時に兼ね備わっているので、本来ならば人間の本音ではあろうが、そういう怠惰で我儘な感情を戒める思考も自然発生的に湧き出てくる。
片一方では「怠けたい」、その反対側では「それでは駄目だ」、「勤勉たれ」と、それを戒める感情が湧き上がるわけで、人々はこういう葛藤を経ながら生を享受している。
ところが、これは一見、個人個人の問題のように見えるが、これに地勢的な条件をかぶせると、これが地域の特性となって固定化しがちである。
無理もない話で、山奥、僻地で、他との接触が少ないところでは、人間というのはかたまって生きるが、その小集団のままで長い年月を経ると、それなりに生活の知恵と経験によって、伝統や慣習、因習が確立して、それが親から子、子から孫という風に引き継がれ、それは結果として新しいものを、新しいことを、外から来た思考を、外から来た人、ものを拒むという現象を引き起こす。
言い方を変えれば排他的、保守的ということになるが、こうなるとその内側の人々というのは、自分たちの小宇宙に満足してしまうのである。
だから、現代文明がすぐ隣にあっても、それ見て、欲しいとか、羨ましいとかという感情をもたないので、そこでは競争も成り立たない。
住む世界が違うという認識に至ってしまえば、住み分けということにならざるを得ないが、豊かな側に住んでいる人たちにすれば、先方も我々と同じ価値観を共有し、同じ夢を持ち、同じ願望を持っているに違いないという思い込みの嵌ってしまう。
この思い込みの部分が奢りになるのである。
我々は確かに飽食の中で生きているので、食べ物について、まずいとかうまいといって一喜一憂しているが、彼らは一枚のナンがあればその他は何もいらないわけで、比較すること自体を知らないで生きているものと思う。
問題は、こういう現状に直面すると、すぐに「そういう可哀そうな子供を救わなければならない」と考えることである。
このいたいけない少女が、「学校で十分勉強がしたい」という思いは、嘘偽りのない本音であろうが、だからと言って、直ちに救援の手を差し伸べることは、あくまでも恵まれた立場の思い上がった発想で、それは相手の主権をも犯す行為につながると思う。
その国の教育は、その国の主権にもかかわることだと思う。
中華人民共和国も、国家の主権として、中国人の教育にはそれなりに力を傾注していることは当然のことで、そういう努力はしても直ちに全土に同じようにというわけにいかないのもこれまた当然のことであろう。
沿岸部と内陸部、富裕な地域とそうでない地域の格差も、一気に是正できないのも当然のことである。
中国で毛沢東の中国共産党が全土を手中に収めたのが1949年のことで、もうすでに半世紀がたっているわけだが、この半世紀という時間の流れというのは考察するに十分な価値を秘めている。
日清戦争から日本が敗戦するまでの間が約半世紀、日本の敗戦から今日までが半世紀プラス13年。我々の日本国も、国内には過疎という問題を抱えているが、ここに描かれているような社会的な格差とは意味合いが異なっている。
ここに描かれている中国の実態というのは、中国の奥地ではいささかも福祉が行き渡っていないということである。
それは、物、施設の不足のみではないと思う。
教育というものに金を掛けて、将来、国に貢献する人材を育てよう、という思考は全く存在せず、ただただ共産党員の先生が仕方なく嫌々しているという風にしか感じられない。
ただ文中にはテレビがあるということが描かれているので、テレビがあるということから発して、徐々に外の世界の情報を得、そのことによって資本主義に目覚め、欲望を満たす快感というものが覚醒されてしまうかもしれない。
アメリカのネイティブ・アメリカンも、彼らだけの極めて民族的な生き方を選択しているが、それは彼らが自分の世界に閉じこもって他の世界を認めようとしないからであって、だから我々が彼らに同情を寄せる必要はない。
彼らは彼らの意志でそういう生活を選択し、そういう生活をエンジョイしているわけで、彼ら自身の意志でそういう耐乏生活をしているのである。
外の世界から、たまたま偶然によって、そういう世界に足を踏み込んだものが、その文化と文明の格差のびっくりして、「救済しなければ!!」という思考に至るのは、少々短絡的すぎると思う。
人に金を恵むという行為は、非常に気持ちの良いことで、下手をすると嵌り込みそうであるが、恵む相手を直視する必要がある。
果たして本当に、この時、この場、このシチュエーションで、相手に金を恵むべきかどうかを、よくよく熟考することが肝要だと思う。
日本から中国に渡されているODAも、日本側としては戦争の賠償という意味を込めて、軍備には回さない暗黙の了解のもとで払われているのに、もらった相手は、それを軍備増強の資金に回しているわけで、日本は自分たちの金で、日本に向けた武器を作るような、阿呆な形になっている。
相手にしてみれば、恵んでもらった以上、何に使おうが勝手だという論理であろうが、こういう人情の機微、国民感情の機微を、民族性の機微を我々はもっともっと研究しなければならない。
人に金を恵む行為というのは、気分がいいものだと思う。
もともとケチ、吝嗇な人は、人に恵むという発想そのものを持ち合わせていないので、こういう感情を味わう機会も少なかろうが、人に金を恵む、寄付する、献金するという行為は、極めつけの自己満足に浸れる。
1997年自動車事故で亡くなったダイアナ妃は地雷撲滅運動に献身的にかかわっていたといわれているが、これも考えてみればおかしな話で、地雷の除去など、埋めた側が責任をもって除去すべきことなのに、何故に第3者が関わらねばならないのであろう。
この運動も、地雷除去という崇高な運動というわけで、それに協力することは何か立派なことのように思われているが、本来ならば埋めた側に除去するように口やかましく言いたてるべきことなのではなかろうか。
日本のように、何のかかわりもない国が、地雷除去に協力するというのも、おかしな話だけれど、行為そのものは崇高なことなので協力せざるを得ない。
中国の内陸部の奥で、学校の問題もさることながら、その前に髪菜(ファーツァイ)の採集が環境破壊を起こしているという問題の方が重要だ。
髪菜(ファーツァイ)というのは私自身も知らないが、この本の解説によると、砂漠地帯の土の表面に生えるコケ状のものらしく、良い値段で取引されるので、乱獲がこうじてそれが環境破壊につながっているらしい。
こういう僻地に住む人々にとっては、自分たち自身が生きんがために働いているわけで、環境破壊になろうがなるまいが、自らの命を掛けてそれを採り、売って、換金して、生きていかねばならない。
見たこともない裕福な国の人々のことよりも、目の前の自分の家族の生活の方が大事なわけで、環境破壊だろうが、古代遺跡の崩壊であろうが、自らの生活には何ら関係ないわけで、彼らにしてみたらあずかり知らぬ事柄であろう。
環境破壊だとか、歴史的な遺跡の崩壊だと言ってみたところで、それは所詮、豊な国の思い上がった文化至上主義の危機に他ならないわけで、現地の人にしてみたら、恐れるに足る何の価値もない。
ただただ豊かな国の豊かな人々の、架空の、あるいは虚像の価値観の崩落にすぎず、地球の歴史、人類の歴史からすれば、ほんの些細な出来事にすぎない。