例によって図書館から借りてきた本で「謝罪無用!」という本を読んだ。
サブタイトルに「日本外交・土下座に終止符を」なっている。
当然のこと、日本の近隣諸国に対する外交があまりにも土下座外交に傾注してしまっているので、それに対する批判である。
相手の言い分を丸飲みすれば外交が成り立つ、と考えること自体、外交ということの本質を知らないということで、その外交を語る前に、人間の存立、存在、在り方そのものに無関心であるということを曝け出しているのではなかろうか。
人、人間、ホモサピエンス、こういうものをじっくり眺めていれば、そこからおのずとそれらが織りなす社会というものが見えてくるはずであるが、戦後の日本の政治家というのは、こういうものの考え方が出来ないのであろうか。
二国間の外交ということは、いわば交渉事であって、それは善意と善意の褒め合いではないわけで、双方の利害をどこで折り合いをつけるかという駆け引きの場である。
ただただこちらが善意丸出しで、なんの下心もないということを示せば、それで相手が納得するという訳ではない。
労少なくしてより多くの利益を導き出そうと考えるのは当然のことで、その為には腹の中でどう思っていようとも、表面上はニコニコと握手をするポーズをとるわけで、国益がかかっているともなれば、そんな芝居は朝飯前の芸当である。
戦後の日本の政治家には、こういうことが本当に解っているのかどうか、はなはだ不安だ。
戦後の日本の政治家は、自分たちの祖国が「鬼畜米英」と侮っていた相手から完膚無きまでに痛めつけられ、その後約6年半という占領時代を経験しているので、祖国の誇りというものを完全に見失ってしまっていると思う。
戦後の政治を担ってきたのは、我々のいう普通の認識では保守本流というもので、急進的な左翼とか革新とは一線を画した政党であったが、保守を標榜しながら、祖国への忠誠とか、誇りとか、先祖や先輩諸氏の名誉というものに全く価値を見出さない新人類に成り下がってしまっている。
ただただ対処療法で、その場の危機を右に左にと、身をかわしながらすり抜けようとしているだけで、あとは自然と話題が沈静化するのを待つ、というまことに頼りない有態である。
日本が近隣諸国から靖国神社の問題、あるいは教科書の問題、はたまた慰安婦の問題という風に、次から次へと謝罪要求が出てくるということは、先方の国内問題だと言うことに気が付くべきである。
相手側の国内問題であるにもかかわらず、それをいちいち真に受けるから、そのたびごとに、こちらの立場が悪くなるわけで、最初から無視すれば、先方は振り上げたこぶしを下ろすタイミングを失し、立場が逆転する筈である。
地球上のそれぞれの場所に陣取った人間は、その長い歴史の過程の中で、それぞれに独特の考え方を築き上げてきたことは当然のことだと思う。
お互いに相互の行き来はほんとんどなかったわけで、自分たちの仲間内で、それぞれの生き方に対する独特の考え方が醸成されたとしても、何ら不思議ではなく、当然の成り行きだと思う。
これをごくごく単純化して明快に言い表わせば、中国人、朝鮮人、日本人と、それぞれの民族の潜在意識は、それぞれに微妙に違うということが言えていると思う。
それをもっと単純化すれば、中国人の場合は中華思想。自分たちが世界で一番偉い民族で、周辺諸国の民族は全部野蛮人だという思考である。
朝鮮人は自主性というものに乏しく、常に強いものにすり寄って身の保全を図る、という事大主義が彼らの民族の潜在意識の中にある。
シナが強ければシナの属国に甘んじ。この時代がめっぽう長かったが、ロシアが強くなればロシアになびき、日本が強くなれば創氏改名までして擦り寄って保身を図ったわけである。
そこでわが日本民族というのは、謙譲こそが民族の最高の価値観であったわけで、「男は黙って何とかビール」ということになるわけである。
大雑把に見てこういうのがアジアの諸民族の潜在意識だと思うが、昨今の日本政府の土下座外交というのも、この「謙譲の美徳」という価値観に大きく引きずられていると思う。
こちらが謙って謝罪すれば、先方もこちらの気持ちを斟酌して、寛大な処置をとってくれるのではないか、という甘い期待があるように思う。
「話せば解る」という論理だろうが、これは日本人同士ならばともかく、異邦人には端から期待できないことで、それがわからない政治家であるとするならば、政治家足り得ない人間だと言わなければならない。
こちらが謙れば、先方はそれだけ強気になるというのが、世界的には整合性があるわけで、こちらが下手に出れば、先方は居丈高には出ないであろうというのは、あまりにも甘い観測で、限りなくバカに近い発想である。
「謙譲の美徳」などと言うことは、日本以外では通用しない概念であって、それで以って外交交渉にあたるということは、国を売るに等しい行為である。
日本の首相が祖国の英霊に参拝するのに、何故に中国の干渉を受けなければならないのか。
誰に聞いても、こんな理不尽なことはないではないか。
問題は、中国がこう言うクレームをつけた時に、そのことに対する我が方の毅然たる態度、そしてそれを世界に向けて発信しなかったことは、我が方の処置として返す返すも残念なことであった。
1985年に中曽根首相が中国のご機嫌とりに、靖国神社公式参拝のお伺いを立てたことからこういう事態が続いているわけで、中曽根康弘という日本人は、日本の首相が自分たちの先輩諸氏の英霊を祀った施設に国民を代表して参詣することの是非がわからなかったのであろうか。
結果論からすれば、その是非がわからなかったから中国にお伺いを立てたということであろう。
これが元大日本帝国海軍主計中尉のなれの果ての愛国心の残骸である。
これでは戦争に負けるのも当然ではないか。
馬鹿馬鹿しくて話にならない。
こういう人間が戦争中アメリカと戦争していたのだから日本が負けるのもむべなるかなという他ない。
それと不思議でならないのが、中国とか韓国という外国の国益を助長する日本のメデイアの存在である。
これは一体どういう風に考えたらいいのであろう。
地球上の人間が皆一つの国家の国民になれたとしたら、それぞれの主権国家の国民・国家・国境という枠は解消するかもわからない。
だからと言って、すべての人間が自分の生まれ育った土地を離れて放浪の旅に出るとも思われない。
国境というものは消滅したとしても、自分が生れ育った地域まで否定することはできないはずで、ならばそこで地域の利益というものは依然として生き残ると思われる。
自らの故郷の利益を放棄して、自分とはかかわりの薄いあさっての地域の人々の利益に貢献するということは、故郷を同じにする者としての感情としては面白くないのも当然だと思う。
外国の国益に貢献している我が同胞の心情というのは一体どうなっているのであろう。
昔は非国民とか、売国奴という言葉があったが、今はこういう人たちをどう表現するのだろう。
中国や韓国が日本政府にイチャモンをつけてくる裏には、我が同胞のこういう裏切り行為があるということは、公然の秘密になっているが、日本人に知恵をつけてもらって、それで動くという中国や韓国の政府というのは、本当のところは情けない存在だ。
話は飛躍するが、この本の中では日本の賠償の問題にも言及しているが、第2次世界大戦後のアジアの復興ということを考えた場合、日本の果たした約割りは実に大きなものがあるように改めて思った。
その事に関しては、普通、日本が西洋列強の力を削いでしまったので、アジアが独立できたといわれているが、それも大きな理由の一つではあるが、それにもまして日本がアジア諸国に賠償という形で金をばらまいたことも大きな理由になると思う。
第2次世界大戦後の世界では、真の戦勝者というのはアメリカ一国で、他の国は勝ったとはいえ大きな痛手を被っていたことは確かである。
旧ソビエットをはじめ、イギリスも、フランスも、オランダも、戦勝国とはいえ青息吐息で、とても宗主国の威厳を維持することはできなかったわけで、その間隙にアジアの諸国が独立を得ることは出来たが、その事と、国の発展とはまた別の問題であった。
独立したてのこれらの新興諸国が、その後、自存自律していく過程で大きく寄与したのが日本からの戦時賠償であったに違いない。
日本がアジアに賠償を支払えたのも、突き詰めれば、日本そのものの経済復興が順調に推移したからに他ならないが、これを大きな枠組みでとらえると、日本がアジアの盟主になっていたということである。
しかし、この文言は中国にしてみれば面白くなかろうが、現実に、アジアの発展、アジアの経済復興は、日本の存在なしではありえないわけで、それは一昔前の大東亜共栄圏の思いもよらない形をとった実現ということでもある。
中国と韓国から提示されている、日本の首相の靖国神社公式参拝の問題も、突き詰めて考えれば、中国と韓国のガス抜きの面があるわけで、中国や韓国の国内で、政権批判の火の手が上がると、その矛先を散らす目的で日本パッシングを開始するわけである。
日本叩きをすることによって、国内のナショナリズムを煽り、政権批判をかわす材料に利用されている節がある。
日本の政府と外務省は、糞真面目にそれに付き合わされているわけで、その真面目さが裏目に出て、先方にすれば一言いえばザクザクと金が出てくるわけで、いわば日本叩きは「打ち出の小槌」のようなものに成り下がったわけである。
中曽根康弘、海部俊樹、宮沢喜一、村山富一、河野洋平、細川護熙、後藤田正晴、よりもよったり中国人の僕、公僕、下男、草履取りのような政治家がそろったものだ。
これではアカイアカイ朝日新聞が、中国や韓国に媚びを売らなくても、日本の政府として立派に相手の下僕になりさがることが可能なわけで、先方にしてみれば、これほどありがたい存在というのもまたとない。
国内で政治不満が高じてくれば、日本叩きをすればガス抜きができ、その上、打ち出の小槌からはODAという金がザクザクと出てくるわけである。
中国と韓国の日本叩きの材料というのは、靖国神社のみならず、教科書の問題も、パンパンの問題も、強制連行の問題も、材料に事欠かないわけで、彼らは一言日本に対して文句をいえば、金がザクザクと出てくるという錬金術を会得してしまったのである。
こういう発想が、そもそも他人の支配を受けざるを得ない状況に彼ら自身を追い込んだに違いない。
中国人の日本に対する態度、韓国人、朝鮮人の日本に対する態度をよくよく掘り下げてみてみると、これは恫喝の態度で、脅しをしているのと同じであるが、国際社会でこんなことが通用するわけもなく、その通用しないことに日本の政治家は意図も安易に応えているのである。
この国際社会で脅しをする認識、モラルの欠如、これは中国人と朝鮮人の生きざまそのものを表しているわけで、中国・朝鮮の悠久の歴史が、そのまま現在に生きているのであり、中華思想・事大主義そのものではないか。
中国や韓国が問題にしているすべての問題が、日本の国内の問題で、それを外からとやかく言うということは、中国こそがこの世で一番の偉い存在で、日本などは俺の足元に膝まづけ、という露骨な態度であるにもかかわらず、日本の首相は誰ひとりそれに反発しようとしない。
悠久の中国の歴史をひも解いても、中国がアジアで主導権を握ることは今後ともあり得ないであろう。
自分よりも優れた存在に敬意を表わそうとしない民族にリーダーたる資格はない。
そして、我々日本民族も、決してアジアではリーダー風を吹かしてはならない。
われわれには「謙譲の美徳」を持った人もいるが、同時に、すこし景気がよくなるとすぐに舞い上がる軽佻浮薄な人も多いわけで、数の上では謙譲の美徳を心得ている人よりも、軽薄ですぐに舞い上がる人のほうがはるかに多い。
よって、我々には他人・他民族をリードする値打ちを持った人が少ないということだ。
われわれは物つくりには長けた民族で、物つくりを通してならば他者に貢献する機会はあるが、自らがリーダーシップをとって人を纏めたり、人をリードしたり、人を一定の方向に方向付けるなどということは、民族的に不得意なわけで、そういう点では黒を白とでも言いくるめる才能をもった人たちに任せるべきだと思う。
物つくりの世界では、「謙譲の美徳」というのは立派に生き残れるが、その分リーダーシップという点では冴えないのもいた仕方ない。
われわれは、黒を白と言いくるめる才能には欠けているが、そういう才能と、民族の誇りを売り渡すということとは全く別の次元の問題なわけで、そこを履き違えてはならない。
歴史教育に関連して、共通の歴史認識などという言葉が行きかっているが、こんなバカな話もない。
普通の主権国家では、その国の歴史認識によって自分の国の歴史を子供に教えているわけで、利害の相反する隣国同士で、歴史認識を共有するなどということがあり得ないのが当然ではないか。
仮に、A国からB国に攻め入ったA国の英雄は、相手側からすれば極悪非道な犯罪人でしかないわけで、このA国とB国の間で共通の歴史認識など成り立つわけがないではないか。
お互いに、自分の国の歴史は、祖国の歴史認識に則って作られるわけで、その歴史認識を自分の国の若い世代に語り継ぐのは、主権国家の主権そのものではないのか。
ことほど左様に、利害の異なる国の間で、共通の歴史認識などというものはありえないはずだ。
我が国の政治家たちは、自分の国が先の戦争でアジア諸国に多大な迷惑を掛けたと思い込んで、それが贖罪意識となっているから二言目には謝罪の言葉になるが、この先入感こそ間違っている。
ところが、その間違いに自ら気がつこうとしない。
その間違った先入感そのものが、極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判史観というものであって、この裁判そのものが、勝った連合軍の報復裁判であったということは、日本の政治家も十分に分かっているはずである。
あの裁判が極めて不合理、不条理なものだということは十分にわかっているが、だからと言って、その不合理、不条理を正す術はないわけで、勝った側の指し示したことを黙って受け入れざるを得ない。
このことによって、日本の政治家のみならばず、日本の人々の中で、いくらかでも頭が良く頭脳明晰な人間は、民族の誇りも、気概も、魂も、吸い取れてしまったのである。
吸い取られるというよりも、自ら捨てしまったのである。
無理もない話で、こういう人達は戦前・戦中は並み以上に国家の指針に忠実であったわけで、その結果として、自分たちは国家とか行政に見事に騙されていたことがわかってみれば、今まで持ち続けた自己の矜持を自ら捨てさりたいと思うようになったとしても不思議ではない。
こういう心の葛藤を経ることで、われわれはより以上求心力を高めて、物つくりに精を出したが、こういうことは中国人や朝鮮人には不得意な分野で、彼らの価値観では物つくりということに価値を見出していない。
彼らの価値観からすれば、物つくりなどは下種な人間の仕事で、高貴な人は、口で黒を白とでも言いくるめることに精を出すわけで、ここに日本人と他の人々の違いが潜んでいる。
彼らの間では、口での論争に価値観がシフトしているわけで、その結果として「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理で、日本の「打ち出の小槌」を叩きまくっているのである。
考えてみると、我々日本人というのは、実に自己PRが下手だと思う。
靖国神社の問題、教科書の問題、パンパンの問題、強制連行の問題等々、どの問題も国際会議の場に持ち出せば、先方の不合理な態度が逆に問題となり、その行きすぎ、内政干渉、民主化の後退等の問題に振り替えることが可能に違いない。
で、相手の騒ぎを利用して、こちらが得点できる大きなチャンスであったが、それを意図も安易に見逃してしまった。
こういうことは我が民族は実に不得意だ。
サブタイトルに「日本外交・土下座に終止符を」なっている。
当然のこと、日本の近隣諸国に対する外交があまりにも土下座外交に傾注してしまっているので、それに対する批判である。
相手の言い分を丸飲みすれば外交が成り立つ、と考えること自体、外交ということの本質を知らないということで、その外交を語る前に、人間の存立、存在、在り方そのものに無関心であるということを曝け出しているのではなかろうか。
人、人間、ホモサピエンス、こういうものをじっくり眺めていれば、そこからおのずとそれらが織りなす社会というものが見えてくるはずであるが、戦後の日本の政治家というのは、こういうものの考え方が出来ないのであろうか。
二国間の外交ということは、いわば交渉事であって、それは善意と善意の褒め合いではないわけで、双方の利害をどこで折り合いをつけるかという駆け引きの場である。
ただただこちらが善意丸出しで、なんの下心もないということを示せば、それで相手が納得するという訳ではない。
労少なくしてより多くの利益を導き出そうと考えるのは当然のことで、その為には腹の中でどう思っていようとも、表面上はニコニコと握手をするポーズをとるわけで、国益がかかっているともなれば、そんな芝居は朝飯前の芸当である。
戦後の日本の政治家には、こういうことが本当に解っているのかどうか、はなはだ不安だ。
戦後の日本の政治家は、自分たちの祖国が「鬼畜米英」と侮っていた相手から完膚無きまでに痛めつけられ、その後約6年半という占領時代を経験しているので、祖国の誇りというものを完全に見失ってしまっていると思う。
戦後の政治を担ってきたのは、我々のいう普通の認識では保守本流というもので、急進的な左翼とか革新とは一線を画した政党であったが、保守を標榜しながら、祖国への忠誠とか、誇りとか、先祖や先輩諸氏の名誉というものに全く価値を見出さない新人類に成り下がってしまっている。
ただただ対処療法で、その場の危機を右に左にと、身をかわしながらすり抜けようとしているだけで、あとは自然と話題が沈静化するのを待つ、というまことに頼りない有態である。
日本が近隣諸国から靖国神社の問題、あるいは教科書の問題、はたまた慰安婦の問題という風に、次から次へと謝罪要求が出てくるということは、先方の国内問題だと言うことに気が付くべきである。
相手側の国内問題であるにもかかわらず、それをいちいち真に受けるから、そのたびごとに、こちらの立場が悪くなるわけで、最初から無視すれば、先方は振り上げたこぶしを下ろすタイミングを失し、立場が逆転する筈である。
地球上のそれぞれの場所に陣取った人間は、その長い歴史の過程の中で、それぞれに独特の考え方を築き上げてきたことは当然のことだと思う。
お互いに相互の行き来はほんとんどなかったわけで、自分たちの仲間内で、それぞれの生き方に対する独特の考え方が醸成されたとしても、何ら不思議ではなく、当然の成り行きだと思う。
これをごくごく単純化して明快に言い表わせば、中国人、朝鮮人、日本人と、それぞれの民族の潜在意識は、それぞれに微妙に違うということが言えていると思う。
それをもっと単純化すれば、中国人の場合は中華思想。自分たちが世界で一番偉い民族で、周辺諸国の民族は全部野蛮人だという思考である。
朝鮮人は自主性というものに乏しく、常に強いものにすり寄って身の保全を図る、という事大主義が彼らの民族の潜在意識の中にある。
シナが強ければシナの属国に甘んじ。この時代がめっぽう長かったが、ロシアが強くなればロシアになびき、日本が強くなれば創氏改名までして擦り寄って保身を図ったわけである。
そこでわが日本民族というのは、謙譲こそが民族の最高の価値観であったわけで、「男は黙って何とかビール」ということになるわけである。
大雑把に見てこういうのがアジアの諸民族の潜在意識だと思うが、昨今の日本政府の土下座外交というのも、この「謙譲の美徳」という価値観に大きく引きずられていると思う。
こちらが謙って謝罪すれば、先方もこちらの気持ちを斟酌して、寛大な処置をとってくれるのではないか、という甘い期待があるように思う。
「話せば解る」という論理だろうが、これは日本人同士ならばともかく、異邦人には端から期待できないことで、それがわからない政治家であるとするならば、政治家足り得ない人間だと言わなければならない。
こちらが謙れば、先方はそれだけ強気になるというのが、世界的には整合性があるわけで、こちらが下手に出れば、先方は居丈高には出ないであろうというのは、あまりにも甘い観測で、限りなくバカに近い発想である。
「謙譲の美徳」などと言うことは、日本以外では通用しない概念であって、それで以って外交交渉にあたるということは、国を売るに等しい行為である。
日本の首相が祖国の英霊に参拝するのに、何故に中国の干渉を受けなければならないのか。
誰に聞いても、こんな理不尽なことはないではないか。
問題は、中国がこう言うクレームをつけた時に、そのことに対する我が方の毅然たる態度、そしてそれを世界に向けて発信しなかったことは、我が方の処置として返す返すも残念なことであった。
1985年に中曽根首相が中国のご機嫌とりに、靖国神社公式参拝のお伺いを立てたことからこういう事態が続いているわけで、中曽根康弘という日本人は、日本の首相が自分たちの先輩諸氏の英霊を祀った施設に国民を代表して参詣することの是非がわからなかったのであろうか。
結果論からすれば、その是非がわからなかったから中国にお伺いを立てたということであろう。
これが元大日本帝国海軍主計中尉のなれの果ての愛国心の残骸である。
これでは戦争に負けるのも当然ではないか。
馬鹿馬鹿しくて話にならない。
こういう人間が戦争中アメリカと戦争していたのだから日本が負けるのもむべなるかなという他ない。
それと不思議でならないのが、中国とか韓国という外国の国益を助長する日本のメデイアの存在である。
これは一体どういう風に考えたらいいのであろう。
地球上の人間が皆一つの国家の国民になれたとしたら、それぞれの主権国家の国民・国家・国境という枠は解消するかもわからない。
だからと言って、すべての人間が自分の生まれ育った土地を離れて放浪の旅に出るとも思われない。
国境というものは消滅したとしても、自分が生れ育った地域まで否定することはできないはずで、ならばそこで地域の利益というものは依然として生き残ると思われる。
自らの故郷の利益を放棄して、自分とはかかわりの薄いあさっての地域の人々の利益に貢献するということは、故郷を同じにする者としての感情としては面白くないのも当然だと思う。
外国の国益に貢献している我が同胞の心情というのは一体どうなっているのであろう。
昔は非国民とか、売国奴という言葉があったが、今はこういう人たちをどう表現するのだろう。
中国や韓国が日本政府にイチャモンをつけてくる裏には、我が同胞のこういう裏切り行為があるということは、公然の秘密になっているが、日本人に知恵をつけてもらって、それで動くという中国や韓国の政府というのは、本当のところは情けない存在だ。
話は飛躍するが、この本の中では日本の賠償の問題にも言及しているが、第2次世界大戦後のアジアの復興ということを考えた場合、日本の果たした約割りは実に大きなものがあるように改めて思った。
その事に関しては、普通、日本が西洋列強の力を削いでしまったので、アジアが独立できたといわれているが、それも大きな理由の一つではあるが、それにもまして日本がアジア諸国に賠償という形で金をばらまいたことも大きな理由になると思う。
第2次世界大戦後の世界では、真の戦勝者というのはアメリカ一国で、他の国は勝ったとはいえ大きな痛手を被っていたことは確かである。
旧ソビエットをはじめ、イギリスも、フランスも、オランダも、戦勝国とはいえ青息吐息で、とても宗主国の威厳を維持することはできなかったわけで、その間隙にアジアの諸国が独立を得ることは出来たが、その事と、国の発展とはまた別の問題であった。
独立したてのこれらの新興諸国が、その後、自存自律していく過程で大きく寄与したのが日本からの戦時賠償であったに違いない。
日本がアジアに賠償を支払えたのも、突き詰めれば、日本そのものの経済復興が順調に推移したからに他ならないが、これを大きな枠組みでとらえると、日本がアジアの盟主になっていたということである。
しかし、この文言は中国にしてみれば面白くなかろうが、現実に、アジアの発展、アジアの経済復興は、日本の存在なしではありえないわけで、それは一昔前の大東亜共栄圏の思いもよらない形をとった実現ということでもある。
中国と韓国から提示されている、日本の首相の靖国神社公式参拝の問題も、突き詰めて考えれば、中国と韓国のガス抜きの面があるわけで、中国や韓国の国内で、政権批判の火の手が上がると、その矛先を散らす目的で日本パッシングを開始するわけである。
日本叩きをすることによって、国内のナショナリズムを煽り、政権批判をかわす材料に利用されている節がある。
日本の政府と外務省は、糞真面目にそれに付き合わされているわけで、その真面目さが裏目に出て、先方にすれば一言いえばザクザクと金が出てくるわけで、いわば日本叩きは「打ち出の小槌」のようなものに成り下がったわけである。
中曽根康弘、海部俊樹、宮沢喜一、村山富一、河野洋平、細川護熙、後藤田正晴、よりもよったり中国人の僕、公僕、下男、草履取りのような政治家がそろったものだ。
これではアカイアカイ朝日新聞が、中国や韓国に媚びを売らなくても、日本の政府として立派に相手の下僕になりさがることが可能なわけで、先方にしてみれば、これほどありがたい存在というのもまたとない。
国内で政治不満が高じてくれば、日本叩きをすればガス抜きができ、その上、打ち出の小槌からはODAという金がザクザクと出てくるわけである。
中国と韓国の日本叩きの材料というのは、靖国神社のみならず、教科書の問題も、パンパンの問題も、強制連行の問題も、材料に事欠かないわけで、彼らは一言日本に対して文句をいえば、金がザクザクと出てくるという錬金術を会得してしまったのである。
こういう発想が、そもそも他人の支配を受けざるを得ない状況に彼ら自身を追い込んだに違いない。
中国人の日本に対する態度、韓国人、朝鮮人の日本に対する態度をよくよく掘り下げてみてみると、これは恫喝の態度で、脅しをしているのと同じであるが、国際社会でこんなことが通用するわけもなく、その通用しないことに日本の政治家は意図も安易に応えているのである。
この国際社会で脅しをする認識、モラルの欠如、これは中国人と朝鮮人の生きざまそのものを表しているわけで、中国・朝鮮の悠久の歴史が、そのまま現在に生きているのであり、中華思想・事大主義そのものではないか。
中国や韓国が問題にしているすべての問題が、日本の国内の問題で、それを外からとやかく言うということは、中国こそがこの世で一番の偉い存在で、日本などは俺の足元に膝まづけ、という露骨な態度であるにもかかわらず、日本の首相は誰ひとりそれに反発しようとしない。
悠久の中国の歴史をひも解いても、中国がアジアで主導権を握ることは今後ともあり得ないであろう。
自分よりも優れた存在に敬意を表わそうとしない民族にリーダーたる資格はない。
そして、我々日本民族も、決してアジアではリーダー風を吹かしてはならない。
われわれには「謙譲の美徳」を持った人もいるが、同時に、すこし景気がよくなるとすぐに舞い上がる軽佻浮薄な人も多いわけで、数の上では謙譲の美徳を心得ている人よりも、軽薄ですぐに舞い上がる人のほうがはるかに多い。
よって、我々には他人・他民族をリードする値打ちを持った人が少ないということだ。
われわれは物つくりには長けた民族で、物つくりを通してならば他者に貢献する機会はあるが、自らがリーダーシップをとって人を纏めたり、人をリードしたり、人を一定の方向に方向付けるなどということは、民族的に不得意なわけで、そういう点では黒を白とでも言いくるめる才能をもった人たちに任せるべきだと思う。
物つくりの世界では、「謙譲の美徳」というのは立派に生き残れるが、その分リーダーシップという点では冴えないのもいた仕方ない。
われわれは、黒を白と言いくるめる才能には欠けているが、そういう才能と、民族の誇りを売り渡すということとは全く別の次元の問題なわけで、そこを履き違えてはならない。
歴史教育に関連して、共通の歴史認識などという言葉が行きかっているが、こんなバカな話もない。
普通の主権国家では、その国の歴史認識によって自分の国の歴史を子供に教えているわけで、利害の相反する隣国同士で、歴史認識を共有するなどということがあり得ないのが当然ではないか。
仮に、A国からB国に攻め入ったA国の英雄は、相手側からすれば極悪非道な犯罪人でしかないわけで、このA国とB国の間で共通の歴史認識など成り立つわけがないではないか。
お互いに、自分の国の歴史は、祖国の歴史認識に則って作られるわけで、その歴史認識を自分の国の若い世代に語り継ぐのは、主権国家の主権そのものではないのか。
ことほど左様に、利害の異なる国の間で、共通の歴史認識などというものはありえないはずだ。
我が国の政治家たちは、自分の国が先の戦争でアジア諸国に多大な迷惑を掛けたと思い込んで、それが贖罪意識となっているから二言目には謝罪の言葉になるが、この先入感こそ間違っている。
ところが、その間違いに自ら気がつこうとしない。
その間違った先入感そのものが、極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判史観というものであって、この裁判そのものが、勝った連合軍の報復裁判であったということは、日本の政治家も十分に分かっているはずである。
あの裁判が極めて不合理、不条理なものだということは十分にわかっているが、だからと言って、その不合理、不条理を正す術はないわけで、勝った側の指し示したことを黙って受け入れざるを得ない。
このことによって、日本の政治家のみならばず、日本の人々の中で、いくらかでも頭が良く頭脳明晰な人間は、民族の誇りも、気概も、魂も、吸い取れてしまったのである。
吸い取られるというよりも、自ら捨てしまったのである。
無理もない話で、こういう人達は戦前・戦中は並み以上に国家の指針に忠実であったわけで、その結果として、自分たちは国家とか行政に見事に騙されていたことがわかってみれば、今まで持ち続けた自己の矜持を自ら捨てさりたいと思うようになったとしても不思議ではない。
こういう心の葛藤を経ることで、われわれはより以上求心力を高めて、物つくりに精を出したが、こういうことは中国人や朝鮮人には不得意な分野で、彼らの価値観では物つくりということに価値を見出していない。
彼らの価値観からすれば、物つくりなどは下種な人間の仕事で、高貴な人は、口で黒を白とでも言いくるめることに精を出すわけで、ここに日本人と他の人々の違いが潜んでいる。
彼らの間では、口での論争に価値観がシフトしているわけで、その結果として「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理で、日本の「打ち出の小槌」を叩きまくっているのである。
考えてみると、我々日本人というのは、実に自己PRが下手だと思う。
靖国神社の問題、教科書の問題、パンパンの問題、強制連行の問題等々、どの問題も国際会議の場に持ち出せば、先方の不合理な態度が逆に問題となり、その行きすぎ、内政干渉、民主化の後退等の問題に振り替えることが可能に違いない。
で、相手の騒ぎを利用して、こちらが得点できる大きなチャンスであったが、それを意図も安易に見逃してしまった。
こういうことは我が民族は実に不得意だ。