ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「祖父母たちの大東亜戦争」

2008-09-02 07:24:18 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「祖父母たちの大東亜戦争」という本を読んだ。
不思議な本だ。
表紙にセピア色の旧日本陸軍の兵士の写真が堂々と載せてあるので、てっきりその類の懐古的な書物かと思った。
この著者は科野文洋という人物で昭和57年生まれ、若干30歳の若者である。
それでいて大学も出ていないようだ。
物書きとしてはいわばアマチュアというか素人というか、そういう類に分類されても不思議ではないが、こういう人が熱烈な日本主義であるところが実に不思議な気がする。
狂信的な右翼でもない。
思考としては極めてニュートラルで、私としては大いに共感する部分がある。
ただ不思議なことに、自分の祖父母の姿を見て、日本の過去に思いを致すということが何とも不思議でならない。
自分の祖父母が黙々と畑で仕事をする姿を見て、その光景から彼の祖父が若かりしころ、どういう生活をしていたのかという風にイメージを膨らませて日本を見るという点は実に見上げたものだと思う。
彼の祖父というのは6年間も軍籍にいたわけで、そういう人たちの労苦の上に今日の我々の生活があるのだ、という視点は立派なものだと思う。
問題は彼の年齢だと思う。
これが60代、70代の人の言うことならば不思議でもなんでもないが、若干30歳の若者がいうのであるから、何とも不可解である。
また大学教授や有名な評論家がいうのならば不思議でもなんでもないが、無名の若者が言うのであるから、その点からしても不思議でならない。
彼の論旨を一言でいえば、大東亜戦争肯定論である。
あの戦争は我々日本人にとって自存自衛の止むにやまれる生存権の掛かった戦争であって、決して侵略などというものではないということである。
そういう見方も確かに成り立つし、事実そういう点も大いにあったことも否めない。
彼の論旨を突き詰めると、あの戦争は我々にとっては正義の戦いであった、ということに行きつくが、私に言わしめれば人間の生存に正義も不正義もないと思う。
昨日(平成20年8月31日)のBS放送では「インサイド9・11」という番組で、アルカイダの聖戦という言葉が飛び交っていたが、これもアルカイダが自分たちの整合性をアピールするための言葉であって、手前勝手な言い分でしかない。
戦争に、聖戦も、正しい戦争も、正しくない戦争もありえないし、テロというのはされた側からすれば戦争であろうが、第3者的な視点に立てば、ただの暴力行為、人殺し、虐殺でしかない。
アルカイダの言う聖戦などという言辞は、あまりにも傲慢で人を馬鹿にした話だ。
あるのは人間の生存のみであって、自分達の生存にとって有利な選択は何かというだけのことである。
究極の生存競争のみで、その生存競争に解ったような奇麗事を並べたてているだけのことで、生存競争こそが自然の生き方で最も自然に近い生態であって、これこそ人間の真の姿だと思う。
自分たちが生き残るには如何なる選択をすべきか、という問題に尽きる。
この本の著者も、年表の順を追って出来事を並べて、事の成り行きに整合性を説こうとしているが、歴史というのはそれで成り立っているかもしれないが、人間の生存というのは、正義とか不正義で整合性が問われるものではない。
ただ相手を叩いて自分が生き延びるだけのことで、まさしく生存競争そのものであり、弱肉強食の具現化そのものである。
日本のした行為が侵略であろうがなかろうが、それが正しかろうが裏切り行為であろうが、生き延びたものが勝ちということである。
生き延びるという意味は、豊な生活を得るという意味でもあって、それがまたいつ破壊されるかも不透明なわけで、それをできるだけ長く維持させることが平和な生き方ということになる。
それは川の流れに身を委ねて、心穏やかな時間をより多く得たものが、一時的に得をしたという程度のもので、それは何時いかなる理由で再び破滅の道に転がり込むか定かではないのである。
われわれは極めて真面目な民族で、歴史というものを正義と不正義で色分けしようとしがちであるが、それは生きた人間というものを知らないということでもある。
自然のままの人間を知らないということにもつながるし、人間の原始の思考を知らないということにもつながる。
人間にとって一番大事なものといえば、普通は自分の家族で、それ以外の物にはそれぞれに優先順位が付くであろうが、普通の人間の普通の意識からすれば、家族の次に大事なのは自分の属する共同体、いわゆるコミニティーであり、その次ぐらいに自分の祖国と言うものが来ると思う。
自分の祖国を統治している為政者から見て、彼にとって一番大事なものといえば、それは自分の国の国益であるはずだ。
この国益の進展を図ろうとして、歴史上の為政者の中には、失敗したり判断ミスすることも往々にしてあるわけで、我々が普通に歴史という場合、この過程を屡る並べ立てて、歴史と称している。
こういう視点で我々の近現代史というものを見えると、当然、我々は自存自衛のために、中国の安定に希望を託したが、それをアメリカが阻害したという論調になるのも当然である。
こういう見方に私も大筋においては納得せざるを得ないが、私はもう一回り大きい視点に立ちたいと思う。
それはヨーロッパ系の白人、正確にはどういうのか知らないが、アングロサクソン系のヨーロッパ人の黄色人種に対する差別意識が、アジアにおけるあの戦争には付きまとっていたと考える。
あの戦争、アメリカ流では太平洋戦争、日本流に言えば大東亜戦争は、アメリカ人の日本パッシング以上でもなければ以下でもなかったと考えている。
アメリカの日本パッシングそのものであったわけだ。
ここには正義も、不正義も、信義も、同情も、信頼も存在していない。
ただあったのはアメリカ人の日本人憎悪の感情だけであった。
ここを見誤ってはならない。
あの時代のアメリカ人にとっての日本人は、ただのイエロー・モンキーだからこそ、各都市の焼夷弾の空襲があり、広島・長崎の原爆投下があったのである。
われわれは人間の内にも見なされていなかったのである。
アメリカ人の日本人憎悪の感情も、あの時期だけのことで、戦争が終わって中国全土が共産主義化し、ソビエットが原爆、水爆を持つ時代になれば、アメリカも自らの国益のために「日本人憎し」などといっておれず、日本にすり寄らざるを得なかった。
国と国の外交という場面で、正義とか、信義とか、信頼などという言葉をまともに信じる方が阿呆である。
この本の中でも記されているが、日露戦争でセオドア・ルーズベルトがいみじくも指摘しているように、日本人は世界のどこに出かけても律儀に働き、規則正しく、几帳面に働くので、多民族と混在するとどうしても突出してしまう。
つまり目立ってしまうのである。
目立てば「出る杭は打たれる」という状況を呈するわけで、セオドア・ルーズベルトは、このことを金子賢太郎に諭したけれど、我々の価値観からすれば、その特質は良い事なわけで、我々としてはそれを抑えるなどということは想定外のことであった。
どこの国でも自国の国益を進展させようとする場合、武力で以って他国に押し入るなどということは、最低・最悪の手段だということは理解している。
口先の綺麗事で相手から国益を引き出せれば、それに越したことはないわけで、話し合いでことを解決するという場合、そういうことまで深く考えなければならない。
昭和の初期の時代に、日本が中国で行っていたことのすべてが、アメリカにとってはシャクの種であったわけで、この思考については理性も、知性も、何ら役に立たず、ただただ感情論での日本叩きでしかなかったわけである。
日本民族が勤勉ではなく、中国人のように怠惰で、モラルもなく、日和見で、賄賂で動き、ただただ謙った存在ならば、「日本憎し」という感情はアメリカ人に生まれなかった。
ところが我々の民族はそうではなかったわけで、いかなる困難にも敢然と挑戦する気概を持った国民であったので、アメリカとしては強い日本は叩き、ひ弱な中国を後押ししたのである。
その理由は、アメリカ人のようなヨーロッパ系の白人の目から見て、黄色人種の中で日本人のように突出した民族は鼻もちならなかったわけで、「出る杭は打たれる」式に、ジャパン・パシングが彼らの中で整合性を得たのである。
こういうアメリカ人の対日感情というのは、正義とか、不正義とか、善し悪しとか、善悪という倫理の問題を超越しており、完全なる感情論であったのである。
われわれは戦争を語るとき、その基軸に国、国家というものを念頭に置いて考えているが、この国家という概念も、綺麗事ではありえないわけで、ただただ人としての生存競争を如何に生き抜くかという発想の集合として成り立っているのである。
話し合いでとか、武力を使わないとか、侵略をするしないなどという奇麗事などで動いているわけではなく、ただただ如何に効率よく、労少なくして、最大の効果を引き出すかという思考で成り立っているのである。
一言でいえば、この地球上の人間の生存、つまり国家の存立というのは、力関係の均衡で成り立っているわけで、正義とか、善悪とか、善し悪しなどという甘い感傷的な倫理観などで動いているわけではない。
常に力のあるものが正義であり、力のあるものが善であり、力のあるものだけが生き残るわけである。
地球を制するものは力である。具体的には軍事力である。
19世紀から20世紀の世界の歴史を見てみれば、日本は1853年にたった四杯の黒船の出現で度肝を抜かれて、それから40年後には大清帝国を下し、50年後には大ロシア帝国を下し、アメリカに移民した日本人は勤勉さという点で現地の労働者を駆逐し掛けたわけで、こういう現実を目の当たりにした西洋列強、ヨーロッパの白人、アメリカのヤンキーの視点で日本人を見ると、彼らは「日本人は何をやらかすか解ったものではない、今のうちに頭を叩いておかねばならない」と思うのも当然の成り行きだと思う。
これは完全に感情問題であり、正邪とか、善し悪しとか、善悪の問題を超越しているわけで、そこにあるのは彼らの差別意識でしかない。
彼らの認識からすれば、イエロー・モンキーを今のうちに叩いておかなければ、何をされるかわかったものではない、という思考に至るのも当然の成り行きだと思う。
第1次世界大戦が終わった後の、国際連盟の設立の際に、日本は人種差別の撤廃を提案しているわけで、この時点の西洋列強の認識では、人種差別は普遍的な事柄であったので、そんなことを新興国の日本が提案し、その提案が通るようなことになれば、西洋先進国の面目は丸つぶれになるわけで、当然ここではイエロー・モンキーの寝言ぐらいの評価しか得られなかった。
20世紀の地球規模の不幸は、中国の混乱であった。
1853年にたった四杯の黒船に度肝を抜かれた我々は、その後鋭意努力して台湾を近代化し、朝鮮を近代化し、中国の化外の地、中国東北部、満州を近代化したが、この時点でアジアの民が、日本と手を組んで、西洋列強と戦えば今日とはまた異なった世界が誕生していたに違いない。
アジアの混沌はそのまま中国の混沌である。
それは昔も今も全く変わらない。
惜しむらくは、中国にそういう認識がないことだ。
中国のアジアに対する視線は、全て覇権主義に陥っており、領土拡大のみが中国の栄華だと勘違いして、そこに住む人々の幸せ・福祉を考えないという点にある。
いかなる政治体制でも、人間が人間を統治する限り、そのシステムはピラミッド型の組織にならざるを得ないが、こういうシステムを中国人が管理すると、汚職、猟官、収賄等々の組織の腐敗が必然的に生じるわけで、システムが内側から瓦解してしまう。
それは中国の人々が自分のためにだけ努力して、人の為には努力しない、他人に対して奉仕することがなく、社会に対する愛情を持っていないからであって、「自分さえ良ければ後は知らない」という思考から抜けきれないからである。
戦前のアメリカにとって日本は大いなる脅威であったのである。
この本の著者は、戦前のアメリカは中国での利権をめぐって日本に対抗していると述べているが、それは表面的な事象にすぎず、アメリカの真意は日本がアメリカに追いつき追い越す勢いで進展してきたので、その日本のバイタリティ―に恐怖を感じていたのである。
自分の身が危なくなれば、先制攻撃をしかけるのが戦争の常とう手段なわけで、ここに日本の敵であるところの蒋介石を援助するという敵対行為をするようになったのである。
表向きは日本の外務省と日米交渉をしつつ、時間稼ぎをしていたわけで、裏ではさっさと戦時体制を整えていたということだ。
こういう交渉事には我々日本民族というのは実に稚拙である。
それも無理ない話で、我々は交渉相手を倫理をわきまえた紳士としてみなして、そういう世界の常識に遺漏なく沿った線で話し合おうとしているが、相手は我々をはなからイエローモ・ンキーと見下しているわけで、お互いの信頼関係など屁の突っ張りほどにも思っていない。
今の北朝鮮の拉致被害者の返還交渉でも、まるで「暖簾に腕押し」という感じで、我々の側は玩具にされているではないか。
日米戦争の前のアメリカは、日本が憎くてならなかったが、戦争が終わってみると、アジアでは共産主義がアジア大陸を席巻してしまったわけで、こうなるとアメリカの日本を見る目というのも変わらざるを得ない。
それでアメリカの日本を見る目も完全に逆向きになって、日本を真の味方として自分たちの陣営に引き入れて置きたくなったのである。
日米戦争の前のアメリカは、完全に日本の真価と真意を勘違いしており、日本のあまりにも目ざまし発展能力に恐怖の念を持っていたが、日本を自分の陣営に引き込んでみると、日本は思ったよりも従順なアメリカの僕として有意義であったということだ。
ここにあるアメリカの真意は、友情でもなければ信頼関係でもなく、あるのはアメリカにとっての国益のみである。
アメリカの論理は、力こそが世界を牛耳る源であるという原理をはっきりと認識している。
まさしく地球規模で自国の国益を伸ばそうとすれば力、軍事力しかそれを担保するものはない。
戦後の我々は、あの悲惨な体験から、そういう思考を一切封殺しているが、それがため日本の不利益は一向に解決されていない。
口先で日本の不利益と言ってみても、その不利益が今の日本人の生活の中に何にも影響を与えていないので、われわれは自分たちの被っている不利益をいささかも感知していないが、それはいかにも能天気な民族ということを曝け出しているに過ぎない。
だから先方から舐められているが、徹底的に平和ボケの我々は、舐められていることすら自覚していない。
この若い著者が、義憤を感じている部分もそこにあるわけで、自分の祖国の国益をきちんと認識することと、周辺の諸外国ときちんと向き合うことは同じことで、そういう態度を貫かないと国そのものの存続があり得ないことになる。
この本の若い著者は、そのことを年老いた祖父母の姿から思い至ったようだ。