例によって図書館から借りてきた本で「歴史の鍵穴」という本を読んだ。
実に不思議な本であった。
日本の普通の書籍には珍しい横書きである。そして、著者の経歴が今一よく分からない。
作者が著名な人でないから価値を認めないというわけではない。
むしろ、その反対で、これだけの内容のものをどういう人が書いたのだろうか、という畏怖の念の方が強い。
巻末の著者略歴を見ても、大阪市大を出たところまでは分かるが、人生の大部分をどういう生き方をしたのかがよく分からない。
還暦を過ぎて歴史の勉強をし直したという点は理解できるとしても、ならば歴史研究者としてアマチュアということであろうか。
本文を横書きにするについて、西洋の文字を日本語との対訳形式にしたかったからだと、言い訳めいたことが書かれているが、この本の内容を対訳形式で表記したかったという未練が残っていたのであろうか。
翻訳だからといってその内容が見劣りするというものでもない。
しかし、翻訳ならば、その原典をもっと明確に表示すべきであって、その点が今一不明確なところが惜しい。
ざっと読み流してみて、多分フランスの文献の「欧州連合の存在意義」という論説を翻訳したものではないかと思う。
だとすれば、この本はフランス人の視点から見た近現代の歴史ということになるわけで、そう方向性が決まれば、それなりに非常に面白かった。
フランス人の見る近現代史は、やはり我々とは明らかに視点が違っているわけで、その位相の違いを著者は異文化通電という言い方をしている。
が、その位相の相違は私にとって快い刺激となっている。
我々凡人はどうしても母国語でしか歴史というものを学ばないが、母国語で書かれたものをいくら読んでも、同胞の価値観から逃れることは出来ない。
同胞の中の意見の相違を見比べているだけで、それをいくら回を重ねても発想の転換に結びつかない。
何処まで行っても井戸の中の蛙の状態から脱しきれない。
同胞としての均一化した思考の枠からでることが出来ず、外の視点から見た歴史というものにはならない。
この中では歴史とか、戦争とか、平和というものを哲学的な一塊りの概念として捉えて語っているが、我々はそういうものを感情論を通じて眺めている。
そのことについては、私の持論としている、理性と知性が感情論よりも前に来なければならないという論拠につながっているのであって、我々のように正邪、善し悪し、正義・不正義という価値観で歴史を眺めてはならないという論旨に通じている。
この本の主題は、EUの存在意義の本旨が戦争回避の集大成の結果であった、ということを解き明かそうとした書であった。
確かに、ヨーロッパといわず人類の歴史は戦争の歴史であったことは間違いのない事実であるが、それを克服したヨーロッパの英知を称えるにやぶさかではない。
その英知に至るヨーロッパの人々の精神の葛藤を書き記したものである。
地球規模で見た場合、ヨーロッパは昔も今もやはり先進国なのであろう。
中世から20世紀に至までのヨーロッパは名実共に人類の先進国であったが、その先進国たる由縁は数多くの戦争を経験したという点に集約されているわけで、21世紀においてもその延長線上に先進国の名を恣にしているようだ。
地球上の他の地域がヨーロッパに今日においてもなお追いついていない現実は、極端な言い方をすれば、まだまだ戦争の経験が足りていないということかも知れない。
東西冷戦が終結したとき、旧ソビエット連邦は崩壊してバラバラになった。
一方の勝ったはずのアメリカは、国内経済が低迷して経済力というものは低下した。
その中で、ヨーロッパは新たな結束を成したわけで、域内の相互平和を確立することに成功したわけである。
アジア大陸、南北アメリカ大陸では、ヨーロッパ諸国が経験した数々の戦争を未だに経験していないように思う。
アジア大陸では中国が大きな面積を占めているが、その広大な面積の土地が近代的な意味での主権国家として確立したのは1949年、いわゆる第2次世界大戦後まで待たなければならなかったわけで、主権と主権の衝突というヨーロッパ諸国がかって経験したような国家総力戦という意味の戦争は一度も経験していない。
その意味でヨーロッパ人が経験した戦争のむなしさというものを中国人は分かっていないはずだ。
それと同様に、ソ連崩壊後に分裂した旧ソビエット連邦の諸国でも、中国と同じ状況にあるわけで、自分達の部族間戦争の犠牲者は過去に掃いて捨てるほどいたであろうが、主権と主権の衝突というような国を挙げての近代的な戦争を経験したことはないはずである。
南北アメリカ大陸の諸国も、これと同じで、ヨーロッパ人が先住民を抑圧したことはあったとしても、今それらの国民を成している人たちが、自分の国の主権を掛けて国家総力戦というような戦争をしたという経験はないはずである。
1982年にフォークランド紛争というのがあったが、あんなものは戦争のうちに入らない。
ことほど左様にヨーロッパ以外の地域では、まだまだ戦争の経験が少ないものだから、戦争のむなしさというものが分かっていない。
だからヨーロッパ諸国が100年前に経験したことを今追従しているわけで、そういうことから考えると、ヨーロッパというのは何し負う先進国といわなければならない。
その先進国の真ん中から、過去の戦争というものを眺めてみると、国家の存亡を掛けて双方が死に物狂いで戦ったことが如何にも陳腐に見えるわけで、そういう境地に至ったからこそ、域内の平和構築が諸国民の了解事項となりえたのである。
ところがアジア大陸、ないしは南北アメリカ大陸では、そういうことを未だに経験していないわけで、第1、主権国家という概念すら出来上がっていない筈である。
戦後の日本の進歩的知識人は、主権ということを殊更忌み嫌うようであるが、それはこの地球上で生きることに対する無知と同時に人としての奢りそのものである。
自分の属する祖国が主権を行使しているからこそ、国際社会に認められているわけで、自分の祖国に主権がなければ、そのまま奴隷に成り下がってしまう筈である。
我々が日々の生活を送っている中で、国家の主権などということは意識していないので、市井の人間にしてみれば、主権があろうがなかろうがあまり意に介さないのが常態ではないかと思うが、そういうことに関しては、島国の住人なるが故に無頓着だと思う。
ところがヨーロッパの人々は過去の戦争から、そういうことに関する感覚がとぎすまされているので、だからこそ戦争のむなしさ、その対局として平和への希求が強く、それが域内の結束という形で具現化したものと考える。
そこには感情論の入り込む隙間は存在せず、人間の理性と知性で固めた論理でことが出来上がったのである。
日本の周辺地域でこういう概念が未だに出来上がらないのは、まだまだ我々は主権と主権のぶつかりあう、民族の生存を賭け、国家存亡の戦争というものを経験していないからだと思う。
我々の経験した敗北というのは、対米戦の敗北であって、中国や朝鮮とは民族の存亡を賭けた戦いといものは全く経験していないではないか。
中途半端な戦いで、不完全燃焼のまま今日に至っているので、民族の不信感を双方が未だに払拭することが出来ず、お互いに口喧嘩をしている図でしかない。
実に不思議な本であった。
日本の普通の書籍には珍しい横書きである。そして、著者の経歴が今一よく分からない。
作者が著名な人でないから価値を認めないというわけではない。
むしろ、その反対で、これだけの内容のものをどういう人が書いたのだろうか、という畏怖の念の方が強い。
巻末の著者略歴を見ても、大阪市大を出たところまでは分かるが、人生の大部分をどういう生き方をしたのかがよく分からない。
還暦を過ぎて歴史の勉強をし直したという点は理解できるとしても、ならば歴史研究者としてアマチュアということであろうか。
本文を横書きにするについて、西洋の文字を日本語との対訳形式にしたかったからだと、言い訳めいたことが書かれているが、この本の内容を対訳形式で表記したかったという未練が残っていたのであろうか。
翻訳だからといってその内容が見劣りするというものでもない。
しかし、翻訳ならば、その原典をもっと明確に表示すべきであって、その点が今一不明確なところが惜しい。
ざっと読み流してみて、多分フランスの文献の「欧州連合の存在意義」という論説を翻訳したものではないかと思う。
だとすれば、この本はフランス人の視点から見た近現代の歴史ということになるわけで、そう方向性が決まれば、それなりに非常に面白かった。
フランス人の見る近現代史は、やはり我々とは明らかに視点が違っているわけで、その位相の違いを著者は異文化通電という言い方をしている。
が、その位相の相違は私にとって快い刺激となっている。
我々凡人はどうしても母国語でしか歴史というものを学ばないが、母国語で書かれたものをいくら読んでも、同胞の価値観から逃れることは出来ない。
同胞の中の意見の相違を見比べているだけで、それをいくら回を重ねても発想の転換に結びつかない。
何処まで行っても井戸の中の蛙の状態から脱しきれない。
同胞としての均一化した思考の枠からでることが出来ず、外の視点から見た歴史というものにはならない。
この中では歴史とか、戦争とか、平和というものを哲学的な一塊りの概念として捉えて語っているが、我々はそういうものを感情論を通じて眺めている。
そのことについては、私の持論としている、理性と知性が感情論よりも前に来なければならないという論拠につながっているのであって、我々のように正邪、善し悪し、正義・不正義という価値観で歴史を眺めてはならないという論旨に通じている。
この本の主題は、EUの存在意義の本旨が戦争回避の集大成の結果であった、ということを解き明かそうとした書であった。
確かに、ヨーロッパといわず人類の歴史は戦争の歴史であったことは間違いのない事実であるが、それを克服したヨーロッパの英知を称えるにやぶさかではない。
その英知に至るヨーロッパの人々の精神の葛藤を書き記したものである。
地球規模で見た場合、ヨーロッパは昔も今もやはり先進国なのであろう。
中世から20世紀に至までのヨーロッパは名実共に人類の先進国であったが、その先進国たる由縁は数多くの戦争を経験したという点に集約されているわけで、21世紀においてもその延長線上に先進国の名を恣にしているようだ。
地球上の他の地域がヨーロッパに今日においてもなお追いついていない現実は、極端な言い方をすれば、まだまだ戦争の経験が足りていないということかも知れない。
東西冷戦が終結したとき、旧ソビエット連邦は崩壊してバラバラになった。
一方の勝ったはずのアメリカは、国内経済が低迷して経済力というものは低下した。
その中で、ヨーロッパは新たな結束を成したわけで、域内の相互平和を確立することに成功したわけである。
アジア大陸、南北アメリカ大陸では、ヨーロッパ諸国が経験した数々の戦争を未だに経験していないように思う。
アジア大陸では中国が大きな面積を占めているが、その広大な面積の土地が近代的な意味での主権国家として確立したのは1949年、いわゆる第2次世界大戦後まで待たなければならなかったわけで、主権と主権の衝突というヨーロッパ諸国がかって経験したような国家総力戦という意味の戦争は一度も経験していない。
その意味でヨーロッパ人が経験した戦争のむなしさというものを中国人は分かっていないはずだ。
それと同様に、ソ連崩壊後に分裂した旧ソビエット連邦の諸国でも、中国と同じ状況にあるわけで、自分達の部族間戦争の犠牲者は過去に掃いて捨てるほどいたであろうが、主権と主権の衝突というような国を挙げての近代的な戦争を経験したことはないはずである。
南北アメリカ大陸の諸国も、これと同じで、ヨーロッパ人が先住民を抑圧したことはあったとしても、今それらの国民を成している人たちが、自分の国の主権を掛けて国家総力戦というような戦争をしたという経験はないはずである。
1982年にフォークランド紛争というのがあったが、あんなものは戦争のうちに入らない。
ことほど左様にヨーロッパ以外の地域では、まだまだ戦争の経験が少ないものだから、戦争のむなしさというものが分かっていない。
だからヨーロッパ諸国が100年前に経験したことを今追従しているわけで、そういうことから考えると、ヨーロッパというのは何し負う先進国といわなければならない。
その先進国の真ん中から、過去の戦争というものを眺めてみると、国家の存亡を掛けて双方が死に物狂いで戦ったことが如何にも陳腐に見えるわけで、そういう境地に至ったからこそ、域内の平和構築が諸国民の了解事項となりえたのである。
ところがアジア大陸、ないしは南北アメリカ大陸では、そういうことを未だに経験していないわけで、第1、主権国家という概念すら出来上がっていない筈である。
戦後の日本の進歩的知識人は、主権ということを殊更忌み嫌うようであるが、それはこの地球上で生きることに対する無知と同時に人としての奢りそのものである。
自分の属する祖国が主権を行使しているからこそ、国際社会に認められているわけで、自分の祖国に主権がなければ、そのまま奴隷に成り下がってしまう筈である。
我々が日々の生活を送っている中で、国家の主権などということは意識していないので、市井の人間にしてみれば、主権があろうがなかろうがあまり意に介さないのが常態ではないかと思うが、そういうことに関しては、島国の住人なるが故に無頓着だと思う。
ところがヨーロッパの人々は過去の戦争から、そういうことに関する感覚がとぎすまされているので、だからこそ戦争のむなしさ、その対局として平和への希求が強く、それが域内の結束という形で具現化したものと考える。
そこには感情論の入り込む隙間は存在せず、人間の理性と知性で固めた論理でことが出来上がったのである。
日本の周辺地域でこういう概念が未だに出来上がらないのは、まだまだ我々は主権と主権のぶつかりあう、民族の生存を賭け、国家存亡の戦争というものを経験していないからだと思う。
我々の経験した敗北というのは、対米戦の敗北であって、中国や朝鮮とは民族の存亡を賭けた戦いといものは全く経験していないではないか。
中途半端な戦いで、不完全燃焼のまま今日に至っているので、民族の不信感を双方が未だに払拭することが出来ず、お互いに口喧嘩をしている図でしかない。