例によって図書館から借りてきた本で、「中国農民はなぜ貧しいのか」という本を読んだ。
実に読みにくい本で、最後まで読み通すことが出来なかった。
なぜこうも読みにくいのかというと、これは明らかに学術論文で、一般向けの教養書でないからである。
細かい数字の羅列が多く、統計数字がこと細かく並べてあるので、全く面白味に欠けていた。
そもそも中国を語るのに統計をアテにすること自体が間違っている。
おおよその目安程度の認識で統計やグラフ、あるいは各種報告書の数字を参考にするぐらいの認識ならばいざ知らず、数字を真正面から真に受けて物事を語ろうとすれば、大きな錯誤が生じてくると思う。
新生中国が1949年に誕生したとしても、そのことによって中国の文盲が一気に解消されたとはとても思えないし、行政システムの中で下級レベルの官僚、あるいは党の下級党員が誠実に業務をこなしているとはとても思えないからである。
統計の信用性というのは、それこそ文明の進化の度合いと軌を一にしているはずで、文明の遅れているところでは、統計による計測そのものが成り立たないと思う。
この本を読んでまず最初に驚いたのは、未だに中国では農民というものを一人前の人間と認めていない点である。
まさしく中国の4千年とも5千年とも言われる歴史が、21世紀にいたってもそのまま生きているわけで、1949年の共産主義革命による新生中国の誕生も、ただたんに君主が交替しただけのことで、中国人の民族的な本質はいささかも変わっていない。
無理もない話で、民族の本質などというものがそうそう安易に変質するものではない。
我々だとて、戦前と戦後で、我が日本民族の本質はいささかも変わっていないわけで、そのことを考えれば中国のみをあざ笑うわけにはいかないのは当然である。
この本を読み始めて最初にショックを受けたのは、中国では農村と都市で戸籍が違うということであり、こんな馬鹿な話は我々の認識では考えられないことだ。
これでは戸籍の意味がないように思うが、それが現実にあるわけで、その現実の本旨とするところは、農民というものを人間の内と見なしてないということに他ならない。
これが民主主義を標榜する共産主義、社会主義の現実の姿であったわけで、まさしく中国の共産主義というものが、共産党員の共産党員のための政治と化している現実の姿なのであろう。
如何なる民族、如何なる国家にとっても、その国民を養う基幹産業は食を賄う食料生産者のはずで、食料を生産するということは、人類誕生のときから自然を相手の仕事であり、過酷な労働を伴う作業であり、そういう階層を如何に管理運用するかが政治、あるいは統治の基本の中の基本な筈である。
日本がアメリカに敗北したとき、勝ったアメリカは真っ先に日本の農民を解放したではないか。
この時のアメリカの意図は、日本の農家の貧困が日本をしてアメリカに刃向かわせた、だから日本人を貧困から脱出させれば、二度とこういうことをしないだろうと言うものであった。
そういう意図のもと、農地解放を元資本家、元地主の意向など全く無視して、情け容赦のない施策を実施して、農民を解放し、そのことによって日本の農民の意識改革が進み、それが弾みとなって日本全体の経済力の底上げが実現し、その後の高度経済成長が実現したわけである。
それ以来というもの、日本の農家は、ある意味で政府が過保護にしているので、その後の世界的潮流の中で、また新たな軋轢に直面している。
ところが中国の共産党の政府というのは、革命が成就したら最後、再び過去の歴代の君主と同じように、農民を生かさぬよう殺さぬよう飼い殺しのままにして、都市の住民にのみ視線を向けていたわけである。
無理もない話で、工業化というのは目に見える形でその発展段階を認識することが出来るが、農民の姿などというものは政治の中枢にいる人たちの目には映らないわけで、食料などというものは、時間が来れば自ずと目の前に現われてくるものだ、という認識であったものと思う。
1960年代の文化大革命のとき、都市の有識者を農村に下放するということが頻繁に行われた。
これは都市の不穏分子と思われたもの、要するに少しでも批判的な意見を言うか、言いそうと思われる人たちに対して、反体制というレッテルを貼り、あるいは貼ることによって、そういうインテリーに対して刑罰として農村での作業に従事させるということであった。
ところが、私としてはインテリーを農村に送り込むようなことが刑罰に値するのかと、実に不可解な思いをもっていたが、農村の実態が分かってみると確かにそれは都会に住むインテリーにしてみれば大きな刑罰に値するわけだ。
だとしたら、その農村で生まれ、育ち、日々農作業に従事し、食料を生産しつつ死んでいく農民というのは、まさしく牢獄の中で生きているに等しいわけで、こんな馬鹿な話は信じられなかった。
農村と都市では別々の戸籍があって、農村から都市に住まいを移すことが出来ないということは、我々の感覚からすれば完全なる基本的人権異の侵害に当たるものと思う。
差別そのものではないのか。
これが毛沢東に率いられた革命の前の中国の現状ならばまだ納得が行く。
ところが革命は1949年に成就して、中国共産党は中国全土を手中に収めたわけで、ならばその中で農村と都市で格差などあってはならなのではなかろうか。
中国共産党隷下の人々は、農民であろうと、工業労働者であろうと、等しく基本的人権を持った中国人民であって、ただただ従事している職業の相違だけではなかったのか。
ところが中国共産党の施策は、その格差の是正には全く無頓着で、一向にそれを是正しようともせず、農民はそれこそ食料を生む機械とでも言いたげな施策を続けていたのである。
今日、日本企業の中国への進出が著しいが、これも用心に用心を重ねなければならない。
金にめざとい日本の資本家たちなので、その点はぬかりなくしているように思うが、これが案外アテにならない。
中国に進出する企業の大部分は、本当の意味の資本家ではなく、あくまでも企業経営者であるわけで、経営の感覚は優れているかも知れないが、相手の潜在意識まで考察するという点ではまことにお粗末なわけで、バブルを招きバブルを崩壊させたのもいわゆる日本の企業経営者たちの状況判断能力が劣っていたからに他ならない。
日本の経営者が経営感覚に優れていれば、バブル経済などというものはあり得ない筈であるが、経営感覚が出鱈目であったからこそ、そうなったわけである。
こういう未来予測にまことに心許ない経営者がいくら集まっても、ゼロをいくら積み上げてもゼロなのと同じように、そのうちに大火傷をするのがオチであろう。
我々日本人は、中国というとどうしても文化的な先輩という潜在意識を払拭しきれず、理性と知性で相手を見る際に腰が引けてしまう。
同じ黄色人種だし、同じ漢字文明を共有しているし、同じアジアに生息し一衣帯水の位置関係にもあり、ついつい話せば分かるという感覚に陥りがちであるが、ここに我が方の甘さがある。
戦前に、我が同胞があの地に無鉄砲にも入り込んで大東亜共栄圏を夢見たという事実は、我々が如何に相手、つまり中国人の本質を知らなすぎたかということである。
あの時代、つまり昭和の初期の段階で、日本を食い潰して大陸にわたり、中国人を騙したり日本人の同胞に寄生したりして大言壮語を吹聴して糊口を凌いでいた大陸浪人とか大陸ゴロと呼ばれた人たちがいた。
こういう人たちの言うことは全く無責任なことばかりをいっているわけで、それを真に受けた同胞もかなりの数いたと思う。
大陸ゴロの言う嘘も、大本営発表の嘘も、嘘であることの代わりはないわけで、我々として親から引き継いだ自分の頭脳で、自分の思考で、相手、つまり中国のことを考え抜かねばならない。
毛沢東の言った言葉として「中国人が原爆で1億死のうが2億死のうが、まだ中国人は生き残れる、だから核戦争など怖くはない」という主旨のものがあるが、中国の為政者にとっては、国民の存在などというものはまるで汚い海辺に沸くシャコかシシャモぐらいのものでしかないのである。
「中国人が1億死のうが2億死のうがまだ生き残れる」という発想は、明らかに中国古来の発想そのもので、これは旧日本軍が中国に攻め込んだ時にも見事に出ているわけで、時の張学良は何処までも撤退した事実に現われている。
我々のアメリカとの戦いでは、負けが込んで来ると、本土決戦を大まじめに検討していたが、中国人の発想は「1億死のうが2億死のうがまだ生き残れる」という発想なので、この考え方の相違を我々は肝に銘じておかなければならない。
国民の命など屁とも思わない為政者というのは、戦う相手としてまことに手強い存在だと思う。
アメリカも日本と戦うに際して、日本軍は死を顧みず攻撃してくるので、恐らく心底怖かったろうと思う。
だからそれに対抗するために物量をふんだんに投入したのであろう。
実に読みにくい本で、最後まで読み通すことが出来なかった。
なぜこうも読みにくいのかというと、これは明らかに学術論文で、一般向けの教養書でないからである。
細かい数字の羅列が多く、統計数字がこと細かく並べてあるので、全く面白味に欠けていた。
そもそも中国を語るのに統計をアテにすること自体が間違っている。
おおよその目安程度の認識で統計やグラフ、あるいは各種報告書の数字を参考にするぐらいの認識ならばいざ知らず、数字を真正面から真に受けて物事を語ろうとすれば、大きな錯誤が生じてくると思う。
新生中国が1949年に誕生したとしても、そのことによって中国の文盲が一気に解消されたとはとても思えないし、行政システムの中で下級レベルの官僚、あるいは党の下級党員が誠実に業務をこなしているとはとても思えないからである。
統計の信用性というのは、それこそ文明の進化の度合いと軌を一にしているはずで、文明の遅れているところでは、統計による計測そのものが成り立たないと思う。
この本を読んでまず最初に驚いたのは、未だに中国では農民というものを一人前の人間と認めていない点である。
まさしく中国の4千年とも5千年とも言われる歴史が、21世紀にいたってもそのまま生きているわけで、1949年の共産主義革命による新生中国の誕生も、ただたんに君主が交替しただけのことで、中国人の民族的な本質はいささかも変わっていない。
無理もない話で、民族の本質などというものがそうそう安易に変質するものではない。
我々だとて、戦前と戦後で、我が日本民族の本質はいささかも変わっていないわけで、そのことを考えれば中国のみをあざ笑うわけにはいかないのは当然である。
この本を読み始めて最初にショックを受けたのは、中国では農村と都市で戸籍が違うということであり、こんな馬鹿な話は我々の認識では考えられないことだ。
これでは戸籍の意味がないように思うが、それが現実にあるわけで、その現実の本旨とするところは、農民というものを人間の内と見なしてないということに他ならない。
これが民主主義を標榜する共産主義、社会主義の現実の姿であったわけで、まさしく中国の共産主義というものが、共産党員の共産党員のための政治と化している現実の姿なのであろう。
如何なる民族、如何なる国家にとっても、その国民を養う基幹産業は食を賄う食料生産者のはずで、食料を生産するということは、人類誕生のときから自然を相手の仕事であり、過酷な労働を伴う作業であり、そういう階層を如何に管理運用するかが政治、あるいは統治の基本の中の基本な筈である。
日本がアメリカに敗北したとき、勝ったアメリカは真っ先に日本の農民を解放したではないか。
この時のアメリカの意図は、日本の農家の貧困が日本をしてアメリカに刃向かわせた、だから日本人を貧困から脱出させれば、二度とこういうことをしないだろうと言うものであった。
そういう意図のもと、農地解放を元資本家、元地主の意向など全く無視して、情け容赦のない施策を実施して、農民を解放し、そのことによって日本の農民の意識改革が進み、それが弾みとなって日本全体の経済力の底上げが実現し、その後の高度経済成長が実現したわけである。
それ以来というもの、日本の農家は、ある意味で政府が過保護にしているので、その後の世界的潮流の中で、また新たな軋轢に直面している。
ところが中国の共産党の政府というのは、革命が成就したら最後、再び過去の歴代の君主と同じように、農民を生かさぬよう殺さぬよう飼い殺しのままにして、都市の住民にのみ視線を向けていたわけである。
無理もない話で、工業化というのは目に見える形でその発展段階を認識することが出来るが、農民の姿などというものは政治の中枢にいる人たちの目には映らないわけで、食料などというものは、時間が来れば自ずと目の前に現われてくるものだ、という認識であったものと思う。
1960年代の文化大革命のとき、都市の有識者を農村に下放するということが頻繁に行われた。
これは都市の不穏分子と思われたもの、要するに少しでも批判的な意見を言うか、言いそうと思われる人たちに対して、反体制というレッテルを貼り、あるいは貼ることによって、そういうインテリーに対して刑罰として農村での作業に従事させるということであった。
ところが、私としてはインテリーを農村に送り込むようなことが刑罰に値するのかと、実に不可解な思いをもっていたが、農村の実態が分かってみると確かにそれは都会に住むインテリーにしてみれば大きな刑罰に値するわけだ。
だとしたら、その農村で生まれ、育ち、日々農作業に従事し、食料を生産しつつ死んでいく農民というのは、まさしく牢獄の中で生きているに等しいわけで、こんな馬鹿な話は信じられなかった。
農村と都市では別々の戸籍があって、農村から都市に住まいを移すことが出来ないということは、我々の感覚からすれば完全なる基本的人権異の侵害に当たるものと思う。
差別そのものではないのか。
これが毛沢東に率いられた革命の前の中国の現状ならばまだ納得が行く。
ところが革命は1949年に成就して、中国共産党は中国全土を手中に収めたわけで、ならばその中で農村と都市で格差などあってはならなのではなかろうか。
中国共産党隷下の人々は、農民であろうと、工業労働者であろうと、等しく基本的人権を持った中国人民であって、ただただ従事している職業の相違だけではなかったのか。
ところが中国共産党の施策は、その格差の是正には全く無頓着で、一向にそれを是正しようともせず、農民はそれこそ食料を生む機械とでも言いたげな施策を続けていたのである。
今日、日本企業の中国への進出が著しいが、これも用心に用心を重ねなければならない。
金にめざとい日本の資本家たちなので、その点はぬかりなくしているように思うが、これが案外アテにならない。
中国に進出する企業の大部分は、本当の意味の資本家ではなく、あくまでも企業経営者であるわけで、経営の感覚は優れているかも知れないが、相手の潜在意識まで考察するという点ではまことにお粗末なわけで、バブルを招きバブルを崩壊させたのもいわゆる日本の企業経営者たちの状況判断能力が劣っていたからに他ならない。
日本の経営者が経営感覚に優れていれば、バブル経済などというものはあり得ない筈であるが、経営感覚が出鱈目であったからこそ、そうなったわけである。
こういう未来予測にまことに心許ない経営者がいくら集まっても、ゼロをいくら積み上げてもゼロなのと同じように、そのうちに大火傷をするのがオチであろう。
我々日本人は、中国というとどうしても文化的な先輩という潜在意識を払拭しきれず、理性と知性で相手を見る際に腰が引けてしまう。
同じ黄色人種だし、同じ漢字文明を共有しているし、同じアジアに生息し一衣帯水の位置関係にもあり、ついつい話せば分かるという感覚に陥りがちであるが、ここに我が方の甘さがある。
戦前に、我が同胞があの地に無鉄砲にも入り込んで大東亜共栄圏を夢見たという事実は、我々が如何に相手、つまり中国人の本質を知らなすぎたかということである。
あの時代、つまり昭和の初期の段階で、日本を食い潰して大陸にわたり、中国人を騙したり日本人の同胞に寄生したりして大言壮語を吹聴して糊口を凌いでいた大陸浪人とか大陸ゴロと呼ばれた人たちがいた。
こういう人たちの言うことは全く無責任なことばかりをいっているわけで、それを真に受けた同胞もかなりの数いたと思う。
大陸ゴロの言う嘘も、大本営発表の嘘も、嘘であることの代わりはないわけで、我々として親から引き継いだ自分の頭脳で、自分の思考で、相手、つまり中国のことを考え抜かねばならない。
毛沢東の言った言葉として「中国人が原爆で1億死のうが2億死のうが、まだ中国人は生き残れる、だから核戦争など怖くはない」という主旨のものがあるが、中国の為政者にとっては、国民の存在などというものはまるで汚い海辺に沸くシャコかシシャモぐらいのものでしかないのである。
「中国人が1億死のうが2億死のうがまだ生き残れる」という発想は、明らかに中国古来の発想そのもので、これは旧日本軍が中国に攻め込んだ時にも見事に出ているわけで、時の張学良は何処までも撤退した事実に現われている。
我々のアメリカとの戦いでは、負けが込んで来ると、本土決戦を大まじめに検討していたが、中国人の発想は「1億死のうが2億死のうがまだ生き残れる」という発想なので、この考え方の相違を我々は肝に銘じておかなければならない。
国民の命など屁とも思わない為政者というのは、戦う相手としてまことに手強い存在だと思う。
アメリカも日本と戦うに際して、日本軍は死を顧みず攻撃してくるので、恐らく心底怖かったろうと思う。
だからそれに対抗するために物量をふんだんに投入したのであろう。