ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「世界の中の日本・最良の選択」

2007-07-04 20:25:18 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「世界の中の日本・最良の選択」という本を読んだ。
著者は、テレビにも時々登場していた俵孝太郎である。
1930年生まれということで私よりも十歳年上であるが、この世代の人間は、どうも世相を見る目がひねくれているのではないかと思う。
無理もない話で、先の戦争の結果から人生が始まっているわけで、ある意味で無から有を生じさせたというか、戦後の復興をそのまま体験してきた世代なので、同胞に対する不信感が一番強い世代ではないかと思う。
こういう職業の人、知識人といわれる人々は、ご幼少の頃もそれなりに早熟であったので、自分達の親が日本政府から騙されていた、ということを身をもって体験しているわけで、そういうものに対する不信感というのは終生拭い去ることがなかったに違いない。
だから何処か醒めた目で世相というもの眺めている。
私とはわずか十年の違いであるが、価値観はずいぶんとかけ離れているように思える。
この本は2002年に書かれているので、小泉政権発足直後に書かれており、小泉政権の最初のケツマズキ、つまり折角論功報償的に起用した田中真紀子外務大臣の更迭から論を展開しているが、著者はこの件で田中真紀子の肩を持ち、小泉さんの失敗だと言い立てている。
ところが、私に言わしめれば田中真紀子の方が大臣の器ではなかったと思う。
田中真紀子が外務省の改革に熱意を示したことは、それはそれで結構なことであるが、その手法があまりにもものを知らなすぎたと思う。
外務省の改革をしなくてもいいというわけではないが、するからには、それ相応の手順とか手法というものがあるわけで、ただ中小企業のワンマン経営者のように、がむしゃらにすればいいというものではない。
外務省の改革ともなれば、それがそのまま国益と直結しているわけで、そういうことを全く度外視して、小さな子供が駄々をこねるような我が儘を通していいというわけには行かないと思う。
その点に関して、この著者は田中真紀子の肩を持って、小泉首相を糾弾するような論調を書いているが、そこに長年、政治記者として政界の裏表を見てきたひとなりの価値判断が横たわっていたのであろう。
彼の既成概念の中には、「古い自民党体質こそ政治だ!」という過去の認識で凝り固まっているのであろう。
田中角栄、中曽根康弘、後藤田正治、宮沢喜一、等々の古い自民党の政治家こそ、政局のキーパーソンであって、小泉純一郎というような自分とは一回りも違う若い政治家など頼りにならないという思いも分からないではない。
しかし、人類の進化というのは、若い者が主導する変革があってはじめて前に進むわけで、人生の先輩、いやその道の先輩、先達たちが、そういう若者の後押しをし、責任を与え、暖かく見守ってこそ全体としての前進があるわけで、「あの若造が何事か!」というような醒めた目で見ていては、よい結果は生まれないと思う。
今の日本の政治というのは、独裁者のワンマン政治ではないわけで、多くの国民の要望に優先順位を付けて、それを調整する部分が非常に多いと思う。
小泉純一郎の改革路線も、政治改革が突然湧き出てきたわけではなく、改革しなければならない項目は以前から掃いて捨てるほどある中でどれから手を付けるかの問題に過ぎない。
彼、小泉純一郎が、「自民党をぶっつぶしても改革をする」といっているのならば、人生のOBとしてそれに諸手を挙げて応援してしかるべきだと思う。
それに棹さす勢力というのがそれこそ抵抗勢力で、自民党のOBがそちら身を置いてはならない。
ところが、こういう勢力は改革されると自分が困るわけで、結論として総論賛成、各論反対ということになる。
その改革の指針を声高に叫んだので、それが初期の小泉人気であったことは否めないが、評論家と称する人々は、そういう国民の気持ちをせせら笑ってぃたわけだ。
小泉氏のいう抵抗勢力に与していたわけだ。
この著者のように、戦前生まれの者が、戦後の大学教育を受け、花形企業で立身出世をして、政府の委員を何年も続けた人から国会議員を見れば、居並ぶ国会議員たちがある意味でアホに見えるのも当然だと思う。
彼ら、優良企業の人間としては、一度入社試験を通過すれば、あとは将来の地位が保証されているという意味で、エスカレーターに乗った様なもので、戦前、戦中の陸士や海兵と同じである。
ところが国会議員というのは,長くて4年ごとに毎回毎回、選挙という篩を掛けられ、資格試験、選抜試験を科せられているようなもので、一度関門を潜ったからといって安閑とはしておれない。
だから任期中、本来ならば国会審議に精力を傾注しなければならないところであるが、関門を通過した途端に次ぎの関門に備えなければならない。
その延長線上で、国民に対するパフォーマンスとして、耳障りのいい発言ばかりをしなければならず、本当のことが言えない。
ついつい我田引水、我田引(鉄道)、我田引(道路)、我田引(公共工事)ということにならざるを得ないのも宜なるかなである。
その点、知識人とか評論家というのは、そういう心配が最初から無いので、その意味で言いたいことはいえ、言ったことに責任もないわけである。
とはいうものの、この著者は、この本の中で非常に良いことを言っていた。
日本の国土は地球の330分の1、日本の人口は世界の2%。
330mの商店街に間口1mの店を構えた商店に例えると、2%の人たちは当然、間口1mの店の仲に収りきれないので、商店街に出ていって、ぽん引きをしたり、チンドン屋を繰り出したりと商売に余念がないわけだが、これを端から見るとどういう風に映るかという問題提起をしている。
この例え話は非常に分かりやすい現実の我々の姿だと思う。
私は他の論説で「日本人は世界の嫌われ者だ」ということを強調しておいたが、この例からもそれは自ずと理解できると思う。
我々は、自分が島国の住人なので大陸国家の人々が潜在意識として我々のことをどう考えているかということに無頓着だと思う。
自分達の立ち居振る舞いを他の人がどう見ているかということを全く意識していないわけで、その意識していないことが相手の潜在意識を刺激しているわけで、それがこの例え話によく表れている。
自分では良かれと思っていても、あまりにも傍若無人に唯我独尊に振る舞っていれば、相手は我々の存在が鼻についてくるわけで、その無頓着なところが恐ろしいというわけだ。
この部分には私も大いに共感するものがあった。