例によって図書館から借りてきた本で、「世界の駅・日本の駅」という本を読んだ。
正直言ってあまり出来の良い本ではない。
大勢の人がそれぞれのテーマに沿っての共同執筆という面では大いに得るところがあるが、その内容がいささか乏しいように思う。
なんとなく物足りなさが残る。
男の子というのは昔から動くものが好きなようで、汽車とか電車、自動車とか船、飛行機とかロケットは、たいていの子供が好きだと思うが、私もその例に漏れず大人になった今でも好きである。マニアと言うほどのめり込むようなことはないが、一応の好奇心は昔から携えている。
定年後、暇があるので、日本中の列車の写真や、列車の映像を撮って歩きたいと思ってはいるが、私のことだから当然、途中で挫折するに決まっているので未だに手をつけてはいない。
途中で挫折するというメンタルな恐怖よりも、暇はあっても金がないという経済の要因の方が大きいことも確かではある。
だから恐らく今後とも、頭の中で思考を巡らすだけで、実際にそれに係ることはないであろう。
駅を主題として文章を書くともなれば、私としては「フウテンの寅さん」のシリーズに登場している、京成電鉄、葛飾・柴又駅を挙げないわけにはいかない。
正確に記すとすれば、京成電鉄金町線、柴又駅というのが本当の言い方であろうが、ついつい寅さんの口上の「葛飾柴又」というフレーズが先に出てきてしまう。
文章を綴るという作業は、どうしても知的運動という捉え方がされがちで、そういうイメージのなかで「フウテンの寅さん」ではイメージにすぐわないようで、固い話題にはなりがたい部分がある。だが、駅について語るとなれば、やはりこの映画を抜きにではありえないように思う。
柴又駅が登場するシーンは、寅さんが失恋して、再びさびしくも悲しく旅に出る場面で、さくらに見送られて電車に乗るシーンである。
私も実にバカな男で、この寅さんの故郷、葛飾柴又がどういうところか自分の目で確かめたくて、現地まで見に行ったことがある。
それで、柴又の駅で降りて、改札口を出て町に向かっていくらも歩かないうちに、寅さんの等身大の銅像があったのには驚いた。
見慣れた例のポーズで立っていた。
私に取って,映画の中の駅ということで言えば、この駅が一番大事なものに見えるが、駅での別れという場面では、『カサブランカ』の中でハンフリー・ボガードがパリから逃れるために,雨の中で列車に乗り込むための別れのシーンであろう。
バーグマンを呼び行ったサム(ドーリー・ウイリアム)が、手紙だけを持って帰ってきて、その手紙が非情にもむなしく雨に濡れるシーンが、駅での別れの最高の哀愁を描き出していた。
駅というのは鉄道の結節点というのみならず、人と人の結節点でもあると思う。
出会いと別れというのは,駅にはついて回る事象であって、それだからこそ,人々にとっては忘れがたいモノなのであろう。
これが自動車が発達してきてモーターリゼーションの時代になると、別れも出会いもそれぞれの家の前ということになるので、味もそっけもない事になる。
人が生きていくのにどちらが便利かと問えば、合理的という意味で自動車の方に軍配が上がるであろうが、合理性の追求ということは、それだけ情緒的なことを犠牲にするということでもあるわけで、一概にどちらが良いということは言えないと思う。
ただ鉄道とモーターリゼイションの共存ということから言うと、貨物の輸送には鉄道をより有効的に使うべきだと思う。
昨今の日本では道路は特段に良くなって、日本全国どこでも車で入っていけれるので、トラック輸送が普及しているが、ヤマト運輸が山間僻地にまでトラックで配達するのは致し方ないとしても、大都市の間を何台ものトラックが行き交う現状というのは再考する必要があると思う。
荷物の輸送.移送というのは、積み替えの利便性の観点から、どうしても戸口から戸口へのトラック輸送が好まれるが、大都市の間を何台ものトラックが行き交う現実は、明らかに日本全体のエネルギーの観点からも、得策ではないと思う。
今はコンテナーという便利なものが普及してきたので、このコンテナーの使い方を大いに工夫して、荷物の積み下ろしの作業の合理化を更に研究して、都市間のモノの移動はコンテナーによる鉄道輸送に切り替えるべく工夫すべきだと思う。
コンテナーの利用ということはフォークリフトの使用が前提になっているわけで、コンテナーとフォークリフトを上手に使い分ければ、貨物列車の運用も今以上に工夫の余地はあると思う。
大都市のモノの移動をトラック輸送から貨物列車の振りかえれば、道路の混み具合も、交通事故の頻度も、運転手の加重な労働条件の改善にも十分に役立つと思う。
巷を走り回っている大型トラックは、荷物を積載量いっぱいにして走っているのではなく、恐らく積載量の10%ぐらいの荷物だけで走りまわっているのであって、その分余計に車がいる。
10トンの荷物を運ぼうとすると、1トンぐらいしか積んでいない車が10台要るわけで、これでは道が混み、事故も起きやすく、運転手も余分に拘束されるという結果になる。
この狭い日本で、戸口から戸口まで直接モノを運ぶというのは、明らかに過剰なサービスであって、それにいくらかでも近づけようとするならば、都市間はコンテナを利用して移動し、各戸には小型トラックで配達するというシステムでなければならないと思う。
正確には知らないが、郵便物もちかごろではトラック便を使っているように見受けられるが、これなども一考の余地があると思う。
コンテナーの利用がこれまで以上に普及すれば、貨物駅の機能ももっともっと充実してきて、従来の貨物駅のイメージとは別のモノになる気がしてならない。
しかし、公共交通機関の発達が進むと、私としては都市機能の分散が起きると思っていったが、実際はその正反対のことが起きて、都市への集中が加速してしまった。
メデイアが発達し、コミニケーションのツールが発達して、人々は従来に比べると安易に情報が得られるようになったら、人々はますます都市に群がって故郷を捨てる傾向になってきた。
そのことは一体どういう事なのであろう。
私が考えるには、我々がこの世の中を生き抜くためには、都市の方が田舎よりも便利だから、単純にその便利さに惹かれて、都市に集まってくるのではなかろうか。
確かに、盆栽や、家庭菜園や、四季折々の自然に接したい人は、田舎に帰る願望を持っているかも知れないが、加齢にともない体の自由が利かなくなってくると、何かと便利な都会に住みたいと思う人が多いということなのであろう。
1時間に一本のバスや、1時間に一本しか電車が来ない田舎では、車に乗れない人は非常な不便をかこっているわけで、そういう人が田舎から脱出したいと願っているのも無理ない話だと思う。
正直言ってあまり出来の良い本ではない。
大勢の人がそれぞれのテーマに沿っての共同執筆という面では大いに得るところがあるが、その内容がいささか乏しいように思う。
なんとなく物足りなさが残る。
男の子というのは昔から動くものが好きなようで、汽車とか電車、自動車とか船、飛行機とかロケットは、たいていの子供が好きだと思うが、私もその例に漏れず大人になった今でも好きである。マニアと言うほどのめり込むようなことはないが、一応の好奇心は昔から携えている。
定年後、暇があるので、日本中の列車の写真や、列車の映像を撮って歩きたいと思ってはいるが、私のことだから当然、途中で挫折するに決まっているので未だに手をつけてはいない。
途中で挫折するというメンタルな恐怖よりも、暇はあっても金がないという経済の要因の方が大きいことも確かではある。
だから恐らく今後とも、頭の中で思考を巡らすだけで、実際にそれに係ることはないであろう。
駅を主題として文章を書くともなれば、私としては「フウテンの寅さん」のシリーズに登場している、京成電鉄、葛飾・柴又駅を挙げないわけにはいかない。
正確に記すとすれば、京成電鉄金町線、柴又駅というのが本当の言い方であろうが、ついつい寅さんの口上の「葛飾柴又」というフレーズが先に出てきてしまう。
文章を綴るという作業は、どうしても知的運動という捉え方がされがちで、そういうイメージのなかで「フウテンの寅さん」ではイメージにすぐわないようで、固い話題にはなりがたい部分がある。だが、駅について語るとなれば、やはりこの映画を抜きにではありえないように思う。
柴又駅が登場するシーンは、寅さんが失恋して、再びさびしくも悲しく旅に出る場面で、さくらに見送られて電車に乗るシーンである。
私も実にバカな男で、この寅さんの故郷、葛飾柴又がどういうところか自分の目で確かめたくて、現地まで見に行ったことがある。
それで、柴又の駅で降りて、改札口を出て町に向かっていくらも歩かないうちに、寅さんの等身大の銅像があったのには驚いた。
見慣れた例のポーズで立っていた。
私に取って,映画の中の駅ということで言えば、この駅が一番大事なものに見えるが、駅での別れという場面では、『カサブランカ』の中でハンフリー・ボガードがパリから逃れるために,雨の中で列車に乗り込むための別れのシーンであろう。
バーグマンを呼び行ったサム(ドーリー・ウイリアム)が、手紙だけを持って帰ってきて、その手紙が非情にもむなしく雨に濡れるシーンが、駅での別れの最高の哀愁を描き出していた。
駅というのは鉄道の結節点というのみならず、人と人の結節点でもあると思う。
出会いと別れというのは,駅にはついて回る事象であって、それだからこそ,人々にとっては忘れがたいモノなのであろう。
これが自動車が発達してきてモーターリゼーションの時代になると、別れも出会いもそれぞれの家の前ということになるので、味もそっけもない事になる。
人が生きていくのにどちらが便利かと問えば、合理的という意味で自動車の方に軍配が上がるであろうが、合理性の追求ということは、それだけ情緒的なことを犠牲にするということでもあるわけで、一概にどちらが良いということは言えないと思う。
ただ鉄道とモーターリゼイションの共存ということから言うと、貨物の輸送には鉄道をより有効的に使うべきだと思う。
昨今の日本では道路は特段に良くなって、日本全国どこでも車で入っていけれるので、トラック輸送が普及しているが、ヤマト運輸が山間僻地にまでトラックで配達するのは致し方ないとしても、大都市の間を何台ものトラックが行き交う現状というのは再考する必要があると思う。
荷物の輸送.移送というのは、積み替えの利便性の観点から、どうしても戸口から戸口へのトラック輸送が好まれるが、大都市の間を何台ものトラックが行き交う現実は、明らかに日本全体のエネルギーの観点からも、得策ではないと思う。
今はコンテナーという便利なものが普及してきたので、このコンテナーの使い方を大いに工夫して、荷物の積み下ろしの作業の合理化を更に研究して、都市間のモノの移動はコンテナーによる鉄道輸送に切り替えるべく工夫すべきだと思う。
コンテナーの利用ということはフォークリフトの使用が前提になっているわけで、コンテナーとフォークリフトを上手に使い分ければ、貨物列車の運用も今以上に工夫の余地はあると思う。
大都市のモノの移動をトラック輸送から貨物列車の振りかえれば、道路の混み具合も、交通事故の頻度も、運転手の加重な労働条件の改善にも十分に役立つと思う。
巷を走り回っている大型トラックは、荷物を積載量いっぱいにして走っているのではなく、恐らく積載量の10%ぐらいの荷物だけで走りまわっているのであって、その分余計に車がいる。
10トンの荷物を運ぼうとすると、1トンぐらいしか積んでいない車が10台要るわけで、これでは道が混み、事故も起きやすく、運転手も余分に拘束されるという結果になる。
この狭い日本で、戸口から戸口まで直接モノを運ぶというのは、明らかに過剰なサービスであって、それにいくらかでも近づけようとするならば、都市間はコンテナを利用して移動し、各戸には小型トラックで配達するというシステムでなければならないと思う。
正確には知らないが、郵便物もちかごろではトラック便を使っているように見受けられるが、これなども一考の余地があると思う。
コンテナーの利用がこれまで以上に普及すれば、貨物駅の機能ももっともっと充実してきて、従来の貨物駅のイメージとは別のモノになる気がしてならない。
しかし、公共交通機関の発達が進むと、私としては都市機能の分散が起きると思っていったが、実際はその正反対のことが起きて、都市への集中が加速してしまった。
メデイアが発達し、コミニケーションのツールが発達して、人々は従来に比べると安易に情報が得られるようになったら、人々はますます都市に群がって故郷を捨てる傾向になってきた。
そのことは一体どういう事なのであろう。
私が考えるには、我々がこの世の中を生き抜くためには、都市の方が田舎よりも便利だから、単純にその便利さに惹かれて、都市に集まってくるのではなかろうか。
確かに、盆栽や、家庭菜園や、四季折々の自然に接したい人は、田舎に帰る願望を持っているかも知れないが、加齢にともない体の自由が利かなくなってくると、何かと便利な都会に住みたいと思う人が多いということなのであろう。
1時間に一本のバスや、1時間に一本しか電車が来ない田舎では、車に乗れない人は非常な不便をかこっているわけで、そういう人が田舎から脱出したいと願っているのも無理ない話だと思う。