波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

木登り狸

2018-12-16 14:10:34 | 超短編





 岡村久男は昔、親にはぐれた子狸を、山歩きをしていて見つけた。まだ餌も自分では取れないほどの幼さで、哀れに思って家に連れ帰り、しばらく飼っていたことがある。しばらくといっても、三箇月ほどである。いつもこせこせしていてなつきが悪く、扱いかねて近くに放してやった。
 それから五年ほど歳月が流れた。もう狸のことなど、思い出しもしなかった。
 ある秋のこと、木にコクワが見事に稔っているのを見つけて、蔓の絡んでいる木に登った。青空を透かしてみのるコクワの実の甘さに酔いながら、周囲の自然の美しさにも心惹かれて、久男は木から降りられずにいた。とはいうものの彼は山の動物ではないから、いつまでも自然に浸っているわけにもいかず、幹に足をかけて木を降りにかかった。
 するとすぐ下の地面に四足で立ち、彼を見上げている犬くらいの動物がいる。狸だ。しかし俺がなぜ狸に追われなければならない。さては自分が、コクワを食べているのを見て、それを狙っているなと読めてきた。とはいうものの、久男はコクワを独り占めにするつもりはまったくなかた。それでせいぜい家に持ち帰ろうとして、帽子の中に実を摘んで入れていたのである。惜しいと思いながら、それを下の狸にこぼしてやった。しかしあろうことか、狸はそのコクワをかえりみず、しきりに上の男を見つめるだけである。そんなことをしていても埓があかないと見たらしく、狸はついに幹に両前足をかけた。登れるものなら、登ってみろ、そう言ってやりたかった。しかしである。予測に反することが起こった。狸の体は地を離れ、三歩、四歩、五歩と接近してくるのである。久男を不安が襲う。彼は詰められた距離を上へ細くなる幹を登って、必死に狸との間を放そうとした。登れば登るほど,狸の木登りは身軽に確かなものになってくる。
 近く見ると狸の毛には艶があり、目方もそうとうありそうだ。木登りする狸などはじめてだし、狸と断定したそのことが、間違いであったと気づいた。するとこの奇っ怪な生き物は何ものなのだ。久男に不安どころか、恐怖が芽生えた。心臓が高鳴り、処置なしの赤信号が点滅しはじめる。
 その久男の諦めの表情を、どこかで察知した相手が、天性の技を操るかのように、ほとんど駆け上がる速さで迫り、彼を抱え込んだのである。食われると覚悟しながらも、彼は必死に格闘した。力の限りを尽くして、襲い来る口を押しのけ、前足、後ろ足をを振り払った。だが相手はそんなことではひるまない。強暴さとは打って変わった別な力で襲いかぶさってくる。その時ふっと聞いたのである。悲鳴のようなものを。その声はかつて山で迷子になっていた、子狸のものではないか。そうだ。そうに違いない。山に追い返した狸が、見事に成長を遂げた姿だ。
 木に登る狸。久男にとってはまったく新しい発見である。まだ信用はできない。自分はこれまで見たこともない奇っ怪なものに相対しているのかもしれない。それでなければ、
自分は気が狂ったのだ。それらを確認するためにも、木を降りなければならなかった。
 久男が木を降りにかかると、狸は急に大人しく従順になってついてきた。久男が着地して、頭を撫ぜてやると、喜んだ仕草で尻尾を振った。
 久男が山の低い方へと歩み出すと、すくんだように硬化した。五十メートルはしおたれた姿勢をとってついてきた。しかしそれが動物との境界線だった。久男がいくら身を低くして呼んでも動こうとしなかった。四五十メートル離れて振り返っても、そこに立ち止まって尻尾を振るだけだった。七十メートル離れても、百メートル離れても、同じだった。
 久男は家に着くと、早速図鑑を出して、調べにかかった。何たる不明。歳時記には、狸は木に登るとあった。そうか。猫も木に登るな。顔が膨らんで狸とよく似ている猫がいると思っていたが、やはり似たものを負っていたわけか。
 肌寒いのか飼い猫のタコが寄って来た。この猫は狸に似ていない。狸に似ているのを避けて選んだ記憶がある。これからは,狸に似た猫も加えなければならないな。さっきの狸を目に浮かべて、そう思った。

end

最新の画像もっと見る

コメントを投稿