波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

2018-09-29 19:17:20 | 超短編



 何でものろさを好む男が、超スピードの新幹線を避け、鈍行で旅に出た。
むろん各駅停車。
 大都会を出て、駅を二つほど過ぎると、車窓には緑が溢れてきて、草の匂いや
遅咲きの花の香りもしてきて、ついに蝶が列車の窓から飛び込んだ。蝶はのろさを好む彼を、
蝶もまた好んだのであろう。
 春夏秋の季節が過ぎれば、命の尽きてしまう蝶にとっては、時の経過はのろいほどいいに違いないのである。そして刻下はすでに秋なのである。
 男の周りを舞い続けていた蝶が、不意に姿を消した。窓から出て行く蝶を、男は確認していない。

「どこに消えてしまったのだろう」

左見右見して蝶を探している男の耳に、通路をはさんだ隣の席から、
「ちょうちょ、ちょうちょ」
女の子の声が弾んだ。
 隣のボックスにいるのは、母親と女の子だけだった。すいた列車で、
男のボックスにも客はなかった。
「あたち、あのちょうちょが欲しい」
女の子が指差しているのは、
男の頭頂部だった。
「そうか、お前は、そんなところに来ていたのか」
といとしそうにそう言ったが、しかし男の心は彼の次なる行動とは一致しなかった。
 女の子は大きく口を開き、その口に指を入れて、いかにも蝶が欲しそうにしゃぶりだした。女の子の目は、彼の横顔を通り抜けて頭上の一匹の蝶に向けられていた。
 男は思わず席を立つと、腰を屈めて
「どんぞ」
 と女の子の前に頭を差し出していた。
 女の子はおぼつかない手つきで、蝶を捕まえにかかる。
 男には蝶は見えないが、女の子とその母親の呼吸から、蝶の動きを読み取ることができた。
 もう少しのところで、蝶は飛び立ってしまったのだ。
 蝶は矢のような速度となり、彼の窓から飛び立っていった。女の子が走り寄ってきて、男の前から空を見上げた。
「あのお空に消えたのね。よかったわ。きれいなお空で」
 と女の子は言った。それから口をつぐんで、どこまでも青く澄む秋の空を、じっと見詰めていた。

   おわり