波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

バイク 雪女完

2019-06-02 12:54:16 | 超短編

湯に浸かりっぱなしで、疲れさえ感じ始めていた直子の耳に、初めてと言っていい子どもたちのざわめきが耳に飛び込んできた。手を触れることもなく終わった、園部透を揶揄するものでも、直子にあてこすったものでもない。何と彼女の耳に、響いてきたのは、

「雪が解けたら、山に入って、雀蜂を退治するぞ」という叫びだった。子供たちは一人の声に刺激されて、別な言葉を口々に叫び始めたのだ。その中には、家でつかっている防毒マスクを持ち出して,雀蜂に害虫退治の毒を振りかけてやる、と声を張り上げた。

こうなると、直子はだまっているわけにいかなくなった。湯から出ると水だらけの着衣を絞って着た。そのうち子供たちは、自分たちの声をバネにして、山の方角へ歩き出した。

直子は着た衣が、パリパリと凍りついていくのに逆らうように、実家をめざして走り出した。

それを目ざとく見つけた子供が、

「あっ、あ女王様が湯からあがって、雪道を走ってる」

と叫んだ。それに続いて後を追おうとした小学生を、先を進む中学生が、

「行くのはまだ早い、蜂を退治して、蜂蜜をプレゼントするんだ」

それを聞いた直子の中にぬくもりが膨らんできた。あの子供たちに、蜂蜜パイを焼いて食べさせてあげよう。直子の帰りが遅いんを気遣って、家から母親が出て来た。

子供達の声も一区切りがついて、雪景色に静まりを与えていた。

 


バイク 雪女 未完 5

2019-05-06 13:27:55 | 超短編


 そのうち羽音が頻繁になり、それが迫真するバイクの爆音とも重なり合って直子をかきむしり、雑草の繁茂する方へなだれ込んで行った。いくつもの羽音の中に、一つのバイクの音を捉えている気もしていた。
 直子が草の茂みに飛び込むやいなや、一つのバイクの響きは、まぎれもなく彼女を捉えて強迫してきた。それを掻き消す雑駁な音も飛び込んできて、彼女は不当な攻撃を振り払うべく必死に叫んでいた。雀蜂が礫のように、彼女を襲ってきたのだ。直子は雑草の中に倒れこみ,頭を押さえて叫んだ。
「助けて、誰か来て!」
 蜂の攻撃を逃れて、草の上を転げまわっている直子の耳に、明るく軽快な羽音を響かせてる確かな、しかしこれこそが本物であるというような手応えのようなものを感じ取っていた。
 園部のバイクだ。直子は項に食らいついてくる蜂をもぎ取り払い除けながら、救いの色々を実感していた。しかし、その救いは迫ってくるにしては、夢のように遠かった。
 ほどなくバイクの音は農道の傍らに来て止まり、彼女の上に一人の男が覆いかぶさってきた。それが一度として接したことも、言葉を交わしたこともない,園部透だったのだ。
 園部は直子の腕や項に食らいついている雀蜂を握りつぶして殺した。なお迫って来る蜂を手で追いながら、直子を横抱きにすると、農道へと運び上げた。そのまま直子をバイクの後部座席に乗せると、
「ぼくにしっかりつかまっていなよ。うっかり手を放したら命がないよ」
 園部透はそう言い放ってバイクをスタートさせた。
「市の大きな病院へ飛ばすか、近い村の病院に信頼して、近いほうを選ぶか」
 透はそんな言葉を吐いてはいても、それは直子に訊くというより、彼自身への問いかけだった。
 彼に救い出された安心によるのか、直子は意識がかすんでいき、背後から彼に捕まっている力の配分が全くわからなかった。園部透もそれを感じるらしく、
「力を緩めちゃダメだ。しっかり捕まるんだ。いのちだ。いのちだ。力を抜いたら,アスフアルトに頭をぶつけて、それでおしまいだ。命を大事にしな。俺のいのちじゃない、君のいのちだ」
 それが園部透との全てだった。直子は早朝のこととて、開院準備中の村の診療所に運び込まれ、ベッドに寝かされると、意識も遠くなり眠ってしまった。すぐ注射がうたれ、眠り込みながら、雀蜂にさされた時の報告を、問われるままに伝えただけである。
 園部透は、広くもない診療所内とか、前庭を歩き回っていたが、自分のするべきことも見つからず、病院を出て行った。彼のバイクの遠ざかる音を、直子は耳にしたような気がするが、定かではなかった。

未完 5



バイク 雪女 未完 4

2019-05-06 12:30:32 | 超短編


 彼、園部透が突然バスに乗らなくなったのだ。バスには乗らなくても、彼が高校を
退めたわけではなかった。それが分かってから、彼女は心臓の止まる思いはなくなったが、彼を失った思いは強く残って、園部透のことを思わない日はなかった。彼がいなくなったのは、高校のあるY市で下宿をしたからでもなく、通学の手段をバスからバイクに変えたからだった。長距離歩かなければならない孫の大変さを思いやって、祖父が彼の父に協力してバイクを買い与えたからだった。彼女、井関直子は、また苦しみを募らせることになる。彼が消えてしまったのではなく、同じ高校に通学していることではほっとしたものの、彼と顔を会わせる機会がなくなってしまったのだ。そのことが何より井関直子の心を痛めた。
 彼の乗るバイクの音が、あたかも井関直子の心臓の炸裂音のように重なってきてならなくなった。高校に向かって走っているバスが停留所に停っているすぐ横を彼の乗ったバイクが追い越していくときなど、いわれのない心のおののきを覚えるようになった。あの蜂の羽音のようなバイクの唸りが、耳につくようになった。聞きたくなくても、勝手に耳に飛び込んできて彼女をかきむしり、遠ざかっていくのだ。
 高校の花壇や自宅の庭に来る蜂の羽音さえ、バイクの音と勘違いするほど、直子は痛めつけられられるようになり、バイクを買い与えた彼の祖父と父親を敵のようにも感じはじめた。
 バスが高校前の停留所に留まる時など、あんなにもうまくいっていたのに、それが不当だと言わぬばかりに、彼をバス通学から追放してしまったのだ。彼女に蜂の唸りだけを残して、園部透を遠ざけてしまったのだ。彼の所属する2階の教室の前を、素知らぬ顔をして、何度か行ったり来たりしたが、一度も彼を見かけることはなかった。
 そしてあの日、直子は重たい頭を抱えたまま、通学の始発になっているバスターミナルに向かって歩いていた。足が地につかない感じは、熱もいくらかあるようだった。いつもより、時間が遅いのか、早いのか、その確認もつかめなかった。
 時折低空を大きな蜂が横切って、唸りを残していった。彼のバイクだわ、と足を留めたりもした。

未完 4


日傘のノースリーブ

2019-04-25 23:46:42 | 超短編



二階の窓の下を、家族連れが通る。野鳥が歌い、草花もいっぱいの、市民公園の方へ路地を曲がるのかと思っていたら、ショッピングモールの屹立する方へ行ってしまった。
 彼はがっかりして、チェット舌を鳴らした。それから彼は、路地を挟んだ二階の窓に目をやった。そこでは若いOLが一人で部屋を借りている。彼は意識して、めったに見ないのだが、この日に限って、さっきの家族連れに裏切られた腹いせから、OLの窓に目をやった。人の気配がして、ノースリーブの女が歩み寄ってくるところだった。彼女は窓辺に近づくと窓を閉めた。チェッと彼は二度目の舌を鳴らした。どこかに出かける様子もあったから、彼は窓辺を離れず、そのまま下を見ていた。
 二三分して、女が玄関を出て来て、チラと路地の上を仰いだ。そして、彼の視線を遮るように、日傘を開いた。
 彼女は市民公園のある方角に、路地を曲がって行った。
「まあ、いいか」
 と彼は呟き、舌は鳴らさなかった。

end


バイク 雪女 未完 3

2019-04-24 03:08:48 | 超短編



 バイク 雪女3
 女は中学生の声が、途中でぷつりと切れてしまうのを感じるようになった。切れるのは幼い子供に聞かせたくないものがあるからなのだろう。そしてその内容こそが、彼女がこの村を出ていかなければならなかったものを含んでいるからなのだと、身震いしながら、考えないではいられなかった。今も小学生の声が大きくなると、それを制するように中学生の声がひときわ大きくなって、その後は沈黙が訪れた。女はその静まりの中から、中学生の声をすくいあげようとしたが、声はひそひそ話のようになっていて、とても聴き取れるものではなかった。
 女は自分がこの村を脱出しなければならなかった七年前に引き戻され、緊張から息ができないほど苦しくなってきた。そしてその恋がもとになって、悲劇に結びついて行ったとしか思えない出来事が下敷きになっていた。
 今、中学生の声が聞こえなくても、明らかになってつきあげてくる、そのときのことが、四方から押し寄せてくるのを感じ取っていた。
 その出来事が起こったのは、彼女が高校二年生のときだった。彼女はそのとき、この村から一時間あまりの街の高校にバスで通っていた。忌まわしいあの夏、彼女の記憶は、いきなり、その夏の日へと飛び火する。それまでは、不幸のかけらさえ見つけられないほど楽しく安らかで、平和そのものと言っていい学園生活だった。バスの通学は夢の中を走っているようなものだった。
 その中に突如降って沸くように現れたのが、彼女の心を虜にしたあの高校生、園部透だった。しかし心を虜にしたくらいだから、彼女が不幸に陥ったわけではない。幸せのてっぺんに火がついたようなものだった。
 彼、園部透は一学年上の、東京からの転校生だった。母親が急死して、父親の故郷であるこの村に引き揚げてきたのである。
 彼の実家は村の奥地にあり、高校にバスで通学するには、一時間半も歩かなければならなかった。山道を一時間半も歩くのは、容易なことではなかった。彼はバスの中でも、よく居眠りをしていた。彼とはいつも離れた席に座っていたが、彼女は彼が降りるべき、高校前の停留所で目を覚ますか気が気でなかった。それで幾度となく、彼を振り返っていた。
 彼が眠っていたからといって、声をかけられる間柄ではなかった。というのは一度も話などしていなかったのだ。しかし彼は、バスが高校前に来ると、目を覚まして、彼女と目を合わせた。それはもう不思議としか言えなかった。彼女は涙が出るほどの安堵にかられて、さっさとバスを降りて、高校に駆け込んで行った。
 そんな危うい、幸せの絶頂とも言える時は長くはつづかなかった。

未完3

雪柳

2019-04-23 08:29:45 | 超短編


 男が一週間留守にして、北海道の実家から戻ると、郵便受けを囲むようにして、
雪柳が満開になっていた。
 周りを囲むどころか、郵便の出し入れ口にも、枝の何本かが,顔をさし入れて
ポストの中まで明るく飾っていた。
 世界は広いのに、わざわざ中まだ枝を伸ばして咲く花なんて、物好きな奴である。
雪柳にこんな習性があるのかと、男は頭をひねっていた。
 新聞を抜き取り、宣伝のビラを捨てていくと、奥の奥に直子からの花便りが届いて
いた。花便りは郵便受けの中に散った雪柳の花に埋まるほどになっていた。事実彼は、
一枚の葉書を掘り出すようにしてすくい上げていた。
未完

南の国から来た紳士

2019-04-19 00:05:50 | 超短編



北海道は四月になって大雪に見舞われた。北国に住む彼は、まだ雪国に行ったことがないと言っていた友人を思い出し、この機会に招いてやってはどうかと電話をした。
友人は喜んで行くと言い、お土産は何がいいかと訊くので、お土産なんかいらないよ、手ぶらで結構、と言ってやった。それでも、五歳の娘の好物は何かとしつこく訊いてくるので、、じゃあ、キオスクで長崎の安い駄菓子でも買って来てくれと言った。
というわけで、彼はやって来たが、列車を降りて来る友人を見て、驚いた。膝の上まである超長靴に、内側に毛皮のついた防寒服、防寒帽、分厚い手袋……と、まるで北極探検にでも出かける格好をして、また駅を出て道を歩きながら、五歳の娘は面白がって、
「おじさんは、なんというサンタクロース?」
と質問を浴びせた。
「おじさんはねえ、南の国から来たサンタクロースだよ」
と南から来た紳士は答えた。はあはあ喘ぎの息をしているのは、雪国の街に備えた完璧な身支度のせいだった。

二日間、雪国に滞在して、彼は帰って行ったが、彼が準備してきた、防寒用の品々でダンボールが一杯になっていた。
北の友人の普段着を身に付けて帰っていった。南から来た紳士は、なんと多くのお土産を携えてきたのだろう。
北国の友人は、電話でやりとりしたときのことを思い合わせて、そんなことを考えていた。




バイク 雪女 未完2

2019-03-30 22:25:42 | 超短編


子供たちに発覚してしまったが、女はひるんではいられなかった。衣服を盗まれれば、夜になって闇に体が隠されるまで、岩風呂につかっていなければならないし、湯の中でそんなに体が持つかどうかも自信がなかった。なるようになれ、と捨鉢な思いにもなって、女は体半分を外気に晒してでも、衣類を手に入れなければならなかった。それを何とか手にして、湯の中ででも着ようと考えた。
 子供がざわめき、女は自分が前からも横からも観察の目にさらされているのを感じた。
 女は衣類を抱えたのはいいが、慌てていて岩に足を滑らせてしまい、湯の中に落ち込んで沈んでしまった。
「ああっ」
 と子供の声が危険を告げて叫んだ。
「どうした」
と中学生の一人が言った。
「雪女は水に潜って、人魚になった」
 と女が岩に這い上がるところから、湯に滑り落ちるところまでを、つぶさに見ていた、小学生の中でも幼い子供の声が叫んだ。
 女は全身湯に浸かった体を起こして、上半身を湯から出し、奥へと進んで行った。向こうを向いているので、見えるのは背中だけだった。
「雪女をよく見たか?」
 と中学生の一人は、女の背を目で追いながら言った。年齢からの恥じらいがあって、あえて見なかった中学生は、残念そうにそう言った。
「見た見た、雪女をよーく見た。家のママより、おっぱいもシリも。大きかった」
岩場に上がった女を観察した幼い子供がはしゃいで言った。
「シリなんて言わないで、ヒップと言え」
 と中学生が言った。
「綺麗な雪女だったよ」
 と別な小学生が言った。それに何人かが声をそろえた。
「おっぱいが、そんなに大きな人なら、それは雪女ではないな」
もう一人の中学生が言った。この中学生は、雪女の正体を、既に知っているような口調だった。
「どうしておっぱいがあったら、雪女じゃないの」
 背が低いため、下の枝などに邪魔されずに、つぶさに女を見ることができた低学年の小学生が、抗議を突きつけるように中学生に言った。
「っパイが大きかったりヒップが豊かだったりする女はようー、あったかいのさ。あったかい雪女なんていねええよ。雪から生まれたから、雪女なんだ。そもそも雪女なら、温泉になんか、入らねえよ」
 しかしこれには、一番小さい子供を抜かした小学生も束になって反撃してきた。子供たちは自分が目に収めた貴重な体験を、宝物にしておきたかttのだろう。
「あれは絶対雪女だよ。だいたい雪の下に女がつくんだからな。雪は冷たくても、女はあったかいよ。家のママだって、マフラーで首をおおって行くんだよ、手袋はしたかいって、いつも言うからね」
「お前は一体、何が言いたいんだよ。しょせん、雪女なら、温泉に浸かったりはしねえよ。雪は冷たいんだ。その雪から生まれたのが雪女だ」
 と中学生がぴしゃりと言った。
「それじゃ、さ、お兄ちゃんたちは、あの女の人は、雪女じゃなく、なんだというの?」
 と雪女を主張する小学生代表するように一人の防寒帽を深くかぶった子供が言った。
「あの人は、人間世界の美人さ。こんな村里にはめったに現れない美女の中の美女さ」
 一人の中学生はこう言って、もう一人の中学生と、二人だけの密やかな話をした。どうやら二人は、揺るがない真実の骨子を握っているらしい。

 二人の中学生はしばらく話し合って、なにか妥結点に達したらしい。二人はそんな頷き方して一人が隠されている秘密を明らかにするとでもいうように、口火を切ろうとした。けれども好奇心いっぱいの小学生の間では、そんなもどかしい中学生の話し合いにしびれを切らして、雪女の動向が気になり
深い雪を踏んで女の隠れた岩場の背後の方へと、動き出していた。一番小さな小学生まで、負けじと深雪に飛び込んでいた。
 そんな動向に勘づいた中学生が。慌てて彼らを制しにかかった。
「おまえら、」そっちへ行くのはやめておけ。戻って俺の話を聴け」
と、口火を切ろうとした中学生が、脅すように言った。二人ほどは岩場を回って、姿を消すところだった。
「そこの二人も戻って来い。重大な話があるんだ。あの人は雪女じゃない」
 そう言って岩場の奥へ消えようとしている二人の小学生を呼んだ。
 ふたりが深い雪をこいで戻ると、おもむろに話しだした。
「今から七年前、大騒ぎになってこの村から姿をくらました女の人だ。くらますといっても、その人が悪いことをしたわけじゃない。騒いだ村人が悪かったんだ。騒ぎ過ぎて、あの人がこの村にいられないようにしてしまったのよ。俺はその時、まだ小学二年生ほどで、小さかった。だから詳しくは覚えていない。だけどその後、想像したものがはっきりしてきたり、大人たちの話す中身がだんだん分かってきて、女の人をいられなくしたのは、騒ぎ立てた村の人間たちだと分かってきた。
 それから、幼くしてそのことを知った俺たちは、その女の人が、いつか必ず女王様になってこの村に帰ってくると考えるようになった。お前たちがさっき見た人は、雪女じゃない。その女王になって帰って来た人だ」
 女王さまと聞いて、子供たちは納得がいったらしく、まだ雪の中にいたものも、山道に戻ってきた。けれども完全に納得できたわけではない。
「何がどうして、そんな騒ぎになったのさ」
 と一人の小学生が切り込んで来た。話の中味によっては、雪女の捜索に乗り出すぞといった意気込みが感じられる。


 洞穴のようになった岩場に深く入り込んだ女は、耳を澄まして子供たちの話す一部始終を聴こうとしていた。聴きながら湯の中で下着を身に着けていった。水の中で衣類を着たことなどないので骨が折れた。水圧で押された下着はまったく思うようにいかなかった。しかもあまり着衣に集中しすぎると、子供たちの声が聴こえなくなる。
 幸い湯の中に盛り上がった岩盤を見つけて、そこに乗れば湯は腹の辺りまでしかこなかった。女はその岩盤の上から滑り落ちないようにして下着を身に着けていった。厚地のタイツをはくのは一苦労だった。セーターを着るとなると、湯を吸い込んだ編み物は重く、一匹の生き物を相手にしているようだった。

未完 2





木の葉

2019-03-28 23:23:26 | 超短編


子馬が木に繋がれ、
親馬は売られて行った。
そうとは知らない子馬は、
母馬を待って、木を齧る。
子馬の口は、木の皮でいっぱいだ。
木の根元にも、木屑が積もっている。
通りすがりの木つつきが、びっくり仰天。
木をつつくのは、キツツキの仕事なのに、
これはいったい、どうしたというの?
直情径行型のキツツキは、大いに戸惑ってしまい、
そこでキツツキらしくもない、懐疑を取り入れ、パタパタと舞いあがって、てっぺん近くの幹にとりついた。
そして天に届けとばかりに、そこからは天性の
キツツキの本領を発揮して、本能の命ずるままに
木をつついていった
本能のままなのだから、疲れなどしない。
力がなくなれば倒れるだけである。
 そうやってキツツキは木を叩きつづけて力つき、ボロ切れのようになって、幹にぶら下がっていた。しばらくして力が沸いてくると、また木をつついた。そんなことを繰り返していた。
子馬は鳥が何をしているのかは、分からなかった。ただ木屑がパラパラと際限もなく落ちてくるので、そしてその木屑は自分が削り取っている木の屑と全く同じなので、共同作業をしているような気持ちになって、キツツキという鳥に親しみのようなものを感じていた。時々音がやみ、木屑も落ちてこなくなるので、心配もしていた。
 子馬も幹を削る行為が時々やむなく中断することがあった。それは木の周りを巡っているうちに、ロープが短くなっていき、首が締められるように苦しくなって、中断を余儀なくされてしまうのだ。そんなとき、いろいろ打開策を講じてみて、木の周りを逆回りすればいいことに気がついて、そのようなことを幾度となくやっていた。
 子馬は母馬を待つのに耐えられなくて、結果的に木を削るようなことをしていたのだが、キツツキが何のために、幹を削っているのかは分からなかった。キツツキが木をほじくるのに長けた鳥であるとは知っていたが、今キツツキが木をつついているのとは、ちょっと様子が違っているような気がするのである。木をつつく速さといったら、まるで電動ノコギリで木を切っているような振動が鳴り響いて、子馬が木をかじるのの手助けをしている、もしくは一緒になって、ある目的のためにとりつかれてやっている気さえするのである。
 それにしても、子馬がいなくなった母馬が帰ってくるのを待ちかねて、木の周りをぐるぐる廻り、木の皮を削っているなどと、どうして考えが及ぶだろう。まして、子馬を哀れんで、天にも届けとばかり、木を削る作業を開始したなどとはどうして考えられるだろう。力がつきてボロ切れみたいにぶら下がり、力が沸いてくると、また叩きはじめるなんて。
 しかしキツツキは、通り過ぎるわけにはいかなくて、子馬との共同作業にのめりこんでいたのである。
 木には多くの葉っぱが繁っている。その葉っぱに、子馬の幹削りとキツツキの木叩きが、伝わっていないはずはない。もし、葉っぱの一枚一枚が、木に繋がれた子馬が、母馬を待っていることが分かったら、どういうことになるのだろうか。葉の集合体としての意識が、風に乗って飛べば、五キロや十キロの距離は、あっけなく運ばれていくと思えた。事実母馬は何時間か前に、それを体の奥深くで聴いて木削りに着手していたのである。子馬の意志を届けたのは、揺り動かされた多くの木の葉だった。木の葉が母馬の繋がれている木の葉に振動の波を送り、それが母馬に伝わって、木の幹を削ることをはじめたのであった。母馬のつながれた木は、子馬の繋がれた木より細かった。そして母馬の歯は、生まれて間もない子馬の歯よりずっと頑丈だった。
 幹を削られた細木は、まもなく折れて倒れる寸前のところに来ていた。倒れれば、そこでロープは外れて一本の紐になる。日が暮れれば馬は馬小屋に入れられる。そうされる前に、脱出しなければならない。
 木ほじくりに果敢に取り掛かったキツツキは、鳥の目でそれは分かった。目が見えなくなる前に、母馬を脱出させなければならない。とにかく馬小屋にいれられる前に、母馬を逃がさなければならない。
 子馬はロープが幹に巻きついて、それを解くために逆回りに回わって、そんなことを何十回となく繰り返しているうちに、疲れきってしまい、自分が何をしているのか、分からなくなってしまった。
 飼主は母馬を手放して入った大金に、気持ちが大きくなり、村の中心にある酒場に入って、景気よくやっているところだった。木に繋いだ子馬のことなど忘れていた。
 そこへ母馬を手放したばくろうから、携帯が鳴った。
「何、俺が売った馬がいなくなったって? おいおい、俺が盗んだとでも言うのかよ。俺は酒場クローバーに入って、外には一度も出ていないんだぞ。それを保証してくれるものは何人もいるぞ」
「まあ話をよく聞け。あんたが盗んだなんて言っておらんよ。繋いだ細木を、歯で削り倒して逃げやがったんだ。木を削って食うほど、あんたんところじゃ欠乏状態にしておったんか」
「アホらしい。馬喰のくせして、ちゃんと馬体を見て買い取ったんだろうが」
 ばくろうは黙った。馬に逃げられて、その腹いせでケイタイをしてきたらしい。
 飼主はケイタイで酔いも覚めて酒場を出ると、我が家に向かって歩いた。
 馬が二頭いた。母馬と子馬である。木の根元には、木屑が盛り上がって、木の香りがしている。いい匂いだ。
 母馬は白い目で、飼主を睨んだ。
 飼主は子馬のロープを解いてやり、母馬が引きずっているロープを、取り除いて言った。
「おまえはここがよくて、帰って来たんだ。へっ、誰があんなばくろうになんか、返すもんか」
 黙っていられなかった、通りすがりの、あのキツツキはどこへ行ったのだろうか。あたりは静まり返って,木の葉のそよぎもない。

end



花疲れ 完

2019-03-18 21:37:29 | 超短編







 車が来ると末娘を後部座席に寝かせ、父親は助手席に乗った。長男の運転する車はスタートする間際だった。
 置いていかれると見た未来の夫は、助手席に近い地面に手をついて、本日の自分の不手際といたらなさを述べまくった。男も相当酔っているので、その声はしどろもどろ、地面に頭を下げまくる物腰も哀れだった。車に男の乗るスペースも用意しない父親の態度にこれで縁切りといった冷たいものがあって、未来の夫は起死回生の訴えで悶絶寸前といったところだった。
 助手席の父親に心の動く様子はなく、タバコをくわえて火を点ずると、車は出て行った。残された男は、号泣に近い喚き方をした。車の尾灯が消えると、男は立ち上がり、よろめきつつ、なんとか身を持ちこたえていたが、娘の倒れていた桜の大木の下に来ると、くずおれてしまった。そしてまだそこに女が横たわっているかのように、拳でその辺を叩きつつ言い募った。
「どうして町子は、今日に限って、こんなになってしまったんだよお。今まで僕にそんな態度は一度としてしなかったじゃないか。まるで悪魔に魅入られたみたいだよ」
 男の絶叫ぶりに、となりで酒宴を張っていたグループの一人が、ワインを抱えてきて、男の肩を叩いて言った。
「未来の若い旦那さん、失礼とは思いながら、いきさつはすべて隣から聞かせて貰いましたよ。あなた様のおっしゃることに間違いはなかった。あの女の人は、それはそれは気持ちよくお酒を召し上がっておられた。あんなにも朗らかに明るく、お酒を召し上がる女の人を私は見たことがない。あれでは差し上げないと、バチが当たる気がする。隣のグループにいる私まで、グラスを持っていきたいくらいでした。それでもあなたは、町子,町子、もうよしておきなさい。普段は飲んでいないのだし、体に悪いに違いないのだから、とか言われて、しきりに止めておられました」
 男は揺さぶり語りかけてくる隣席の花見客の説得に、半身を起こしてしまった。そして勧められるままにグラスにワインを注がれて、威勢よく飲んだ。捨鉢な形相をして飲んだ。男に酒を勧める隣の花見客は、自分のグラスにもワインを注いで飲んだ。
「あの女の方にさしあげられなかったから、あなたにさしあげるわけじゃありませんよ」
 隣席の花見客は、そんなことを言いながら、空になった男のグラスに次々とワインを注いだ。
「女の方の代わりに、あなたに勧めるわけではございませんが、普段お飲みにならない方が,あんなになるというのは、何か異変が起こったとは考えられんでしょうか。たとえば余病が併発したとか……」
 このとき、男の中に、生き生きとして迫って来るものがあった。しかしそれは過去の記憶とか証言というようなものではない。隣客が語った、余病という言葉そのものだった。この言葉の裏に何かがあるという、漠然とした、しかし他に救いの道は全くないといった、ぎりぎりの証拠物件のようなものだった。男は、見かねて救済に訪れた隣客の発したその言葉を、余病、余病と繰り返して、己の中に叩き込むだけだった。
 隣客は男の中に何かが動いたとは感じたが、それが具体的にはつかめないまま、それでも自分の語りかけが功を奏して、希望の光らしきものが、相手に伝わったらしいのを喜んでいた。そして男に語りかける動因となったものを目に浮かべ、その一点は伝えなければならない義務のようなものを感じて言葉を継いだ。」
「あれほどあなたが謝っているのに、タバコをくわえて火をつけるというのは、よくありません。自分の考えを改める一呼吸にするというなら、まだ分かりますけど、長男に命じてそのまま車をスタートさせたんですよ。
 その時でした。私のささやかな正義感らしきものに火がついたのは。女の方の迫真するお酒の飲み方だけでは、動けなかったでしょう。
 あの父親はタバコをくわえて火をつけ、あなたをなぶりものにしただけでなく車を発進させて、あなたを見捨てたのですよ。その時父親のタバコの火が点滅するのと時を合わせるように、私の中に正義の火が点火したのですよ……」
 隣席の人は、そんなこと語っていたが、男の中にあるのは、余病という一語だけだった。彼女にどんな余病があったのだろう……」

 男はふらふらになって自分の部屋に帰り着くと、そのままベッドに倒れ込んだ。体にあるのは酒の痺れと疲れと、詰め込まれた人生の濁りと重さのようなものだった。しかしその中に一点、余病という言葉だけは、灯のように熾っていた.余病が男のいのちの残り火のように点滅していた。
 そんな重たく澱んだ意識を揺さぶるように、携帯が鳴った。町子からの携帯のメールである。
 「私いま、はっと目覚めた。監視されていて話せない。私あなたにあやまる。これまで言わなかったこと。私の家、中学二年まで、造り酒屋だった。そのとき、隠れて飲むことを覚えた。ママも急病で死んでしまったし、寂しくて、そうしないと生きていられなかった。パパも飲んだくれていて、私のことを気にかけるどころじゃなかった。私は飲んで、精神科の先生に拾われた。私は病院の先生と、誰にも言わないと約束して全部話した。盗み飲みとか、学校に行かないとか、全部話した。先生は約束を守ってくれて、奇跡みたいに私のアル中は治った。先生の奥さんもいい人だった。私を家に泊めてくれたし、ママみたいに優しくしてくれた。
 そんなことが、昨日お花見をしているとき、いっぺんに花開いてしまったのよ。ごめん、アル中のこと黙っていて。
 私、あなたを見捨てたパパが嫌い。あなたを見捨てたから、私がパパを見捨てる…」
 男は夢の中にいる気分で、返信をした。町子のことをよく観察していた、隣の花見のグループにいた人のこと。その人が落ち込んでいる酔っぱらい男を親切に慰めてくれたこと。あんなに愉快そうに飲んでいた女の人が、急に倒れるなんて、おかしいと、町子のメールを予見するようなことを話していたこと等々。その後熟睡して、はっきり目が覚めたのは翌日の朝だった。町子からも引きも切らずにメールは来た。造り酒屋からチェーンのスーパーにするときの凄まじい説得が父親を変えてしまったなどなど。
 町子のメールにはそれらが綴られていたが、男の頭にまっすぐ飛び込んではこなかった。あるのはただ、その父親から、どうやって娘を取り返すかの作戦だけだった。
 そんな中で、あなたを見捨てたパパを、私は見捨てる、という町子の決意が、灯のように燃えていた。





花疲れ

2019-03-16 01:33:18 | 超短編


花疲れ
ここに寝かせてと
花の下
父の怒声に
花びらが舞う




花見の酒に酔って、すっかり花疲れしてしまった若い女が、立って歩けないほどになっている。女の傍らに、ひとりの男が申し訳なさそうに立っている。
「君は、町子がこんなになるまで、気がつかなかったのかね。すぐ近くにいながら」
娘の父親が、いかにも不快そうに言葉を投げつける。
「ええ、注意はしたのですが、平気だから、平気だからと、最後は独酌で飲みはじめたんです」
「腰が立たないほど酔って、平気のわけないじゃないか」
父親は娘を自宅に連れて行く車を探すのに手こずっていたが、最後は長男と連絡がついて、これでもいくぶん声が低くなっていた。しかし額の青筋は引いていなかった。
「この秋には一緒になるものが、こんなことでいいのかね。わしもなさけなくてことばにならんよ。こんな未来の旦那に、このまま可愛い末娘をわたしていいのと、考えてしまうよ」
父親はそう言って、桜の木の下に仰向けに寝そべっている娘の上に不安そうに目をやった。娘は花見にふさわしい淡いピンクのジャケットの下で、荒い息をついていた。激怒する父親を宥める声も、怒鳴り散らされている許嫁を慮る声も出てこなかった。あるいは父の怒声を聞き取れないほど、意識が混濁しているのかもしれない。それとも他者に関わっていられないほど、泥酔に襲われているのか。一緒に酒盛りをしていた仲間たちは、帰宅するなり二次会に出るなりして、ここにはいなかった。いるのは娘の父と男と、未来の新妻町子を残すのみだった。父親は小さいながらスーパーを取り仕切る店長であったのだ。


未完

雪解川

2019-03-12 02:09:47 | 超短編




 日曜日、いつもは昼近くまで寝ていて、母親に小言をいわれている姉が、
珍しく早々と起き出して来て、弟が訝しく思っていると、すっぴんの普段着
のまま、町へ出て行った。どうしたことだろう。不審顔の弟に、姉は間もな
く戻ってきて、
「これ、お花の種。庭に蒔いておいてね」
 と差し出し、時々くれる小遣いにしては多い額を押しつけた。花の種をま
く手数料が込になっているなと、大学生の弟は思った。それから姉は念入り
な化粧をしすっかり春の装いになって、三面鏡の前で春コートの試着をは
じめる。年間一着のコートしかない弟に比べて、姉は春コートだけで三着は
持っている。
「これがいい?」
 と訊くので、弟は、
「いつにもなく早く起きて出かけて行き、花の種なんか買って戻ってくるか
ら、変だと思っていたら、本番はこれからだったのか」
 と言ってやった。彼とのデートと分かっていたが、そのことには触れなか
った。というのは以前、音楽喫茶「ウィーン」でモーツアルトを聴いている
と、近くの席に姉が彼と一緒にやって来て、弟を見つけると、姉は一人歩み
寄って来て、
「雅夫、お母さんたちには内緒だよ。近いうちに彼を連れて行くんだから、
顔見せに」
 と言って、男を振り返って仄かに笑った。
「はい、これ。どうせないんでしょう」
 と財布から小遣いをくれた。
 そういうことか。弟は黙って頷き、レクイエムが佳境に入る前に、小遣い
と伝票をさらってレジに向かった。
 弟はその時のお釣りの重さを、めったにない祝福と感じて、ウィーンをあ
とにしたのである。
 弟は姉が最後に身につけた春コートの華やかさに目を洗われながら、あの時
姉が 「顔を見せに行くんだから」と口走ったことが、いよいよ実現するん
だなと噛み締めていた。すると花の種を弟に蒔かせることも一連のものとし
て考えさせられ、蒔くのを一週間遅らせてやれとの反抗も引っ込めざるを得
なくなった。一週間遅らせれば、花開のは、彼が帰った後ということになり、
二人の出会いを喜ばない弟を演出することになってしまう。それはいささか
不本意だ。片付くものは。早くそうなったほうがいいのである。
「今着ているのがいいよ。春の季節にもぴったりで、見ているものを急かせ
るしね。ぼくも早くサラリーマンになろうと思った。小遣い貰うばかりじゃ忍
びないからね」
「あら、ごめんね。いつも少ししか上げられなくて、なんか足りないところ
を突かれたみたいね。よし、もう一枚奮発するか」
 姉は言って、自分の腹の辺りをぽんと叩いた。
「そんなんじゃねえよ」
 弟は言わんとするものが通じなかったと見て、頭を振って言った。
「私雅夫がウィーンに一人で行ってたなんて、知らなかったわ。そんな雅夫
が一人前のサラリーマンなんかになれるのかなんて、考えてしまったわ。結
婚なんかしたくないんだけど、一緒に生活したほうが、経済的なことってあ
るのよ。そうすれば雅夫にも、お小遣いなんかじゃなく、学費としてだして
あげられるんじゃないかって。雅夫、今でも大学に残りたいと思ってるんで
しょう。お姉ちゃんお前の相手をしてあげられなくて、今になって後悔して
るのよ。学校の友達とだべることばっかしていてさ。大切な時に、お前を一
人ぽっちにしてさ。成長に役立つようなこと、何もしてあげられなかったじ
ゃない」
 姉は言って、財布を出すと、足りなかったものを補うように一枚出すと、
弟に差し出した。弟は話せば話すほど、悪い方向に落ちていく気がして、紙
幣を半分に引き裂いてしまった。
 姉はそれをオロオロ顔で見つめ、頭を抱えて座り込んでしまった。
「私、あんたを責めないわ。私を責める」
 そう言って唇を噛んでいたが、ふとそんな己と闘うように立ち上がると、
着込んだ外出用の装いを脱ぎ払ってしまった。そうして普段着になると庭に
出て鍬で地面を耕しはじめた。
 雅夫は忍びなかったから、勝手口を出て、満々と水をたたえて流れる雪解
川の土手に立った。
 父は会社のゴルフクラブの旅行で出かけていたし、母も同窓の三人ほどで
古典芸能の鑑賞とかで出かけていた。その母からの携帯が鳴って、
「お姉ちゃんが、いくら電話をしても出ないから、行ってみて」
 と慌てた声で言った。
「心配ねえよ。さっき庭の花畑を耕していたよ」
 と雅夫は言った。
「それでおまえは今、どこにいるの」
 母のうろたえた声は続いていた。
「雪解川」
 と弟は言った。
「危ないよ、水がいっぱいで。雪解川で何してるの」
ただ見ていただけさ。さっき大きな鹿が流されて行った」
「鹿が流されていったの。生きてる鹿が?」
「たぶん死んでるさ。角に古ダンスなんかが被さってるのに、払いもしなか
ったからね」
「もういいから、早く土手を降りて、お姉ちゃんに言いなさい。電話するよう
にって。二人とも、変なことをはじめたもんだよ。畑をおこしたり,雪解川
を見たり。

end 




海を見る男と猫

2019-03-08 21:46:59 | 超短編



 波のひた寄せる砂浜に、一つのベンチが置かれている。
男と猫が座っている。
 ベンチは海の方を向いているので、猫と男は海の方を向いて座っている。
 けれども、同じものを見ているのではなかった。
 男は沖をゆく船を見ていた。
 猫は海の方を見てはいても、沖を見ていなかった。遠くの海を見ているのでもなかった。
 それでも猫は海を見ていた。毛糸玉にじゃれる無邪気で純真な感覚で海を見ていた。
 海にはたくさんの魚が泳いでいた。
 けれども猫は、一尾の魚だけを見ていた。そんなにたくさんの魚など、必要ではなかった。
 今触っている毛糸玉があれば、それで十分だった。いろいろの色なんかいらなかった。
 今打ち込める一つの玉があれば、それだけで十分だった
 隣に座っている人間は猫が何を考えているのか心配になって、時々視線をよこした。
 愛する対象として、猫を高い所に置いていたから、気にかけるのも当然だった。
 人間の横には双眼鏡が置いてあった。沖の船を観察するだけではなかった。角度をずらして、上の空を眺めたりもするからだった。
 猫は人間が双眼鏡を手にするのを嫌った。それが猫を見るためのものとは、思えないからだった。
 やはりそれで海を見る人間のほうが好きだった。
 海を見ている限り、猫とも繋がっているからだ。
 人間は猫の今ある状態のおおよそが掴めると、ホッとしてまた冲に目を転じた。沖を目にしても、そこに何かを追い詰めているのでもなかった。白く輝く客船の中に、とうに他界した今はいない母が、無事に旅立って行ったのだとぼんやり考えることもあったし、船の模型の中に蔵を結んだ、世の中のことごとくが、秩序を保ってつつがなく続いていくように思えて、肩のしこりが溶けて、精神の安定を保てるようにもなるといった、ある種のバロメーターの役を果たしているとも言えた。とにかく水平線上に大きな船が浮かんでいさえすれば、十分だったのである。
 あるところから、猫の顔の動きがいつもの猫には見えない自然さを欠いた極端なものになってきた。それを直截なとでも、形容すればいいのだろうか。とにかく顔の動きに合わせて体全体がぎくしゃくとして、気にかかるのである。猫が平静でなければ、当然横にいる人間も休まらない。近くを優雅にめぐっていた蝶が急に慌ただしい舞い踊りをはじめたようなものだった。
 よく観察すると、そうなっているのは猫のせいではなく、猫の視野の中にある一尾の魚が、急に目に見えて慌ただしい動きを始めたからであった。
「なあんだ、お前は、あの魚を見ていたのか」
 と人間は合点して、魚に振り回されている猫を哀れに思った。
 魚はベンチから四五十メートルの範囲を限定するように行動していたが、そこからさらに近づいてきて、ベンチの前の浅瀬まで泳ぎ寄ってきた。今にも砂浜に上がってくる形勢だった。すると魚を目で追い回す猫の姿勢も、緊急を要する動きに変じてきた。
 しばらくすると、猫はぽつりと言った。
「あのお魚、私に食べられたがっているのよ」
 人間には猫がそう言ったように思えた。魚の動きと猫を繋いで考えると、他の言葉は浮かばなかった。猫は四肢をベンチに付けて、おとなしく座していることはできなくなり、体全体が魚の動きに合わされているといっても差し支えない状態になっていた。魚の動きによっては、ベンチを飛び出していくなと、想像できた。
 そんな猫を見ていると、日ごろ抱いている猫のイメージが、ひどく現実的で、常に目先のものに動かされている生き物に見えてきた。少し前から猫の動きが大きく定めなくなってきていたが、それは状況が変わってきていたから、それに合わせて、猫もそうなっていたのだと読めてきた。そんな猫の動きから、男はまぎれもなく猫の声を耳にしたのである。
「あのお魚、私に食べられたがっているのよ」
「なるほど」
と男は納得して呟いた。猫の囁いた通り魚の動きはスピードを増して行き、大海の彼方に泳ぎ去ったと見えたものが、その直線を折るようにして、魚体を煌めかせて翻ると、こちらに向かってきたのである。まさに猫に食べられたがっていると、猫が語った通りである。
 魚はもう波から背を半分出して、砂浜に這い上ってきそうになっていた。
 猫は間もなく、その魚体を咥えに行くだろう。
 そんな魚と猫の関係から、人間の男は容易に次の言葉を導き出していた。
「魚にとっては、海から出たこの陸上こそが、天国なのだ」
「すると何だね」
男が想像した猫の言葉を口にして、猫との対話を続けようとすると、
「その通り」
 猫が賛意を態度にあらわして、十八番の喉を鳴らした。雷が轟いたかと男が警戒して空を見やったほどだった。猫は気をよくして続けた。
「魚が最も怖れるのは、海の魚にやられることなの。魚にとって悪魔は海にいるのね。人間がこの世の悪魔を気にするのと同じ」
 猫がそう言ったとき、さっきから猫が目で追いかけていた一尾の魚が、水辺を1メートル近くも飛んで砂の上に落着した。それを見て猫がベンチを降りていった。じゃれる仕草で前足を出し、ほとんど猫と同じ大きさの魚を咥えて運んできてベンチに引きずり上げた。
 雷鳴が頭上に低く迫って鳴っているように、猫の喉の鳴りが大きくなった。
 男は猫の働きを褒めてやろうとして、手で魚を測ろうとすると、真に雷鳴がはじけて、辺りに稲光が走った。
「ウー、ゴロニャン!」
 とめったに耳にしない唸りさえ発して、魚を抱え込んだ。 男は猫にとって、恐るべき敵になっていた。近隣の人間が、現実を帯びて来たのだ。
 男は寂しくなり、傍らの双眼鏡を手にとった。物々しい動きに変じた黒雲の間に、ひとつ昼の月が美しくはまっていた。

end


バイク 超短編 未完

2019-03-02 20:32:27 | 超短編


◇ 岩風呂や永い不沙汰の故里へ

◇ 国道を羽音唸らせバイク駆く



 大都市に出て小金を溜めた女が、街の生活に飽き、田舎の生活が懐かしくなって、郷里の田舎に戻ってきた。  
 故郷の自然に囲まれて、何か仕事ができないかと思ったのである。七年ぶりの帰還である。
 まず故里の岩風呂につかって、心身をさっぱりしようと、岩風呂に浸った。少女の頃、よく馴染んだ天然の温泉だ。
 女を歓迎するように、雪が降っている。湯の外に出ている肌は、チリチリと冷たいが、そんな刺激も快かった。
五六十メートル下の山麓の小道を、話をしながら人が通る。声は賑やかで、二人だけではないようだ。その声が急に密やかになった。女は気づかれたのではないかと、緊張した。そして奥の方へと身をずらした。悪いことに、話し声は、山麓に並行して続く道ではなく、山の方へ向かって、近づいて来る様子だ。困ったことになったと、女は岩山の頂に脱いでまとめた衣類を、素早い動きで岩風呂の傍まで運んだ。そうして自分は岩の一部になったつもりで、岩肌に密着した。
話声は山道を登ってだんだん近づいて来る。山道は女から五六十メートル離れたところを、山腹から頂へとつづいている。山腹にも頂きの近くにも家があるから、人が通ってもおかしくはない。どうやら声は子供のもののようだ。下校時に当たるのか。木の間越しに、人間の輪郭も見えてきた。七、八人いる。中学生らしい抜きん出た二人と、あと五、六人は小さく、小学生なのであろう。
 夏なら木の葉に隠れて見えはしないが、今はなんといっても落葉した冬である。木立が密になっているとはいえ、視線を完全に遮るほどではない。こちらから見えるということは、向こうからも見えるということだ。問題は、岩風呂に人が入っているか、どうかを気づかれずに済むか否かである。
 女が都会に出る前は、こんな心配はしないですんだ。ところが現在はこの通り、身を隠さなければならない。それだけ自分が罪深くなったのだろうか。女は頭を振った。ただ自分が、他人を気にするようになったというだけだ。
 このあたりは火山地帯だから、いたるところに、湯がわき出ている。住人はその湯を利用して個人用の温泉にしている。山腹に住む人も頂き近くに住む人も、皆そうしている。残念でならないのは、客寄せの商魂に欠けていたということだろう。山一つ隔てた村里ではそれに成功して、温泉街と言えるほどの活況を呈している。
子供たちの声が中身の聞き取れるほど大きくなってきた。彼らの輪郭も明確になってくる。
 雪が降っている。空中を舞い降りる雪の礫が多くなっているようだ。降る雪が多くなるほど視界が霞んで、自分の姿がぼやける。姿を隠しやすいので助かる。女はそうなるように望んだ。
 彼らの姿かたちが、大きくくっきりしてくる。それが最大になるのは、山道と視線が直角に交わる時である。そうなるまで、もう少しだ。彼女は今のうちに、彼らの視線が届かないもっと奥の大きな岩陰に入り込むことだと思いついた。彼女は今のうちにそちらへ移るべきだと考え、立ち上がった。奥へ進むほど湯が深くなっている。しかし背が立たなくなることはないだろう。女は深みへと体を運びながら、衣類を忘れているのに気づいて小戻りした。
 その時である。最も怖れている現実が口を開いたのである。子供の目に大写しにされてしまったのだ。
「ああっ!」
 と一人が叫んで、次いで、その説明に入った。
「そこの岩風呂に、雪女がいる」
「雪女だって?」
 と他の子供の声がわいた。

未完。



探梅 完

2019-02-27 23:16:00 | 超短編


アケミはその夜、隕石のような不思議な物体が自分めがけて落ちてくる夢で目が覚めた。ただの夢ではなく、落ちてきた時の様子が生々しく目と体に焼きついていた。大きさと重さに圧倒されて、受け止めることはできなかったが、受け止められなかった無念の感覚は、目が覚めた後も残っていて、そのまま放置しておくわけにいかなかった。受け止めなかった責任のようなものまで感じていた。
 場所は彼女の家の前山で、岩場の中の窪みになったところである。岩に当たってバウンドしたところも覚えているから、地にめり込んではいなかった、ということは目に見える形で、地上に残されていることになる。何だろう。彼女はそれから眠れなくなり、物体が落ちてきたときの状況を、何度も何度も再現して、考え込んでいた。
 時計を見ると、深夜の三時を指している。アケミはそれから夜が明けるまで考え続け、いつもより二時間は早く起き出して、山に向かう心支度をはじめた。受けそこなったほど、アケミにかかわってきたのだから、放っておくわけにはいかなかった。ぶつかってきた時の感覚に石のように硬い感じはなかったから、岩石とか金属とか、そういうものではないと思った。それでは人かしら。彼女は考えたくない最悪の場面を目に浮かべざるを得なかった。人なら、命はないと判断して、暗澹とした気分に沈んだ。しかしどんな状況であれ、彼女に関わってきたからには、放ってはおけなかった。
 七時になると、彼女は勤め先の幼稚園に電話をした。キリスト教会所属の幼稚園であるから、幼稚園園長の上村牧師が電話に出た。
 あらましを告げると,上村牧師は、ふーっと一つ息をついて、
「珍しい夢だ。というよりめったにない夢だ」
と言い改めた。
「事故とか、人の命に関わるようなことでなければいいけれど」
 と言って休みを認めてくれた。
「気をつけて行きなさい。何かあったら、すぐ携帯で連絡しなさい。こちらで手配するから」
 アケミすぐナップザックに緊急に必要なものを詰めた。消毒液、軟膏、包帯、絆創膏、乾パン、飲料水、等々。それを背負うと、そそり立つ前山に向かって歩きだした。
 夢に起こされた郊外からの一日が開始された。のんびりはしていられなかった。いつも職場に行くときのようにバイクに乗った。これ以上進めないところでバイクを降り、イタヤの古木にバイクをもたせかけて置いた。それから隕石を受け損なった時の単独登山者の状態で山道を辿りはじめた。
 歩きながら、隕石に遭遇したのは、この山で、今自分が辿っているこの道に違いないと、実感が迫ってきた。
「先入観とか予感とか、日常の連続から見るたわいのない夢の場合がほとんどだが、神が何かを知らせる、のっぴきならない徴しの場合もある。聖書にもそういう啓示の夢が書かれている」
 そう教えたのは、上村牧師だった。アケミはそういう避けようのない夢でないように祈った。けれども一方で、神からの啓示であるような重たい隕石であっても、受止めていこうと心に決めていた。何といっても、自分が神から与えられたものなのだから…。
 彼女は山道を辿りながら、あちらこちらに目を配っていた。特に上よりも、自分より下の方へ視線をやっていた。何といっても、彼女は受けそこなって、下への落下を許してしまったのだ。たとえ自分の力で受け止め得なかったにせよ、受け止めるのに失敗したのだ。失敗したのなら、失敗を補うために、どうにかしなければならなかった。
 ふと上の方で、何かが動く気配がした。つづいて小石のようなものが岩に当たって弾けるような音がした。落石かしら。そう思って音の方に目をやると、弾丸のように岩間を通過していくものがある。落石にちがいない。。続いて大きなものが降ってくるかと待ち構えたが、音はそれきりやんで、辺は静まった。大きなものが来るなら、今度こそ受け止めようと、彼女は身のほどもわきまえずにそんな覚悟をしていた。だがその予感のようなものには、裏付けがあったのだ。降ってきたのが人間だとしたら、その人も小さな音を耳にして、落石を警戒し、慌てて身を避けようとした。そのとき足を踏みは外すなりして、滑落の引き金になったのだろう。夢の中でアケミにぶつかってきたのは、人間の体そのものだったのだ。そう推理を働かせると、読めてくるものがあった。滑落の現場はここから近いということだ。つい先程も小石が落ちていったように、ここは落石の多い場所なのかもしれない。そう思って眼下に視線を配ると、中くらいの石や小石がゴロゴロしている。事故があったのがこの近くだとしたら、滑落したその人を探し出さなければならない。彼女は視線の届く範囲に注意を配って足を運んだ。そう神経を凝らしていくと、五、六メートル進まないうちに、岩間に横たわる人影を発見した。動く気配はない。ただ人の横たわっている様子だけが濃厚にしてくる。犬が匂いをたぐり寄せるような感覚になって、アケミは岩を手掴みしながら下って行った。やはりいた。動物ではない、人がいた。岩から約十メートル離れて、小石の固まり合った中心に、人間が横たわっている。顔を下に向けて、完全に地の上に伸びている。恐怖が襲って来るが、黙っているわけにはいかない。アケミは俯いて横たわる人体に近づいた。男だ。嗅覚と相手の骨格で、そう悟った。
 彼女は上村牧師に連絡しようとして、携帯を取り出した。しかしその前にしなければならないことがあるのに気づいた。いのちのあるなしを、みなければいけない。脈を探ったが、自分の搏動が激しくなっていて、判らない。そんな絶望を押しのけるように伝えてくる別の動きがあった。この人の命だと、アケミは感動に揺さぶられ、携帯に向かった。
「よかった。君のいる場所を教えなさい。ヘリの降りられるようなスペースはあるかな」
「小石ばかりが溜まったような、荒っぽいスペースならありますけど」
「ヘリが着陸する目印として、わかる岩とか、その場所を確認できるような、木の茂みの様子を言いなさい」
 アケミは携帯を耳におしあてたまま、周囲を見回した。
「私から見て、一番目に付くのは四角い形の、すらりと立っている大きな岩です。四角い額みたいな岩石です。それだけです。他には目立つものはありません」
「よろしい。すぐ救急隊に連絡する。それから救急隊から君に、連絡が行くと思う。君はやるだけのことをしたんだ。慌てることはない。あ〜、それから遭難者は、若者か、老人か」
「若い男性です。多分二十代か、三十そこそこ.よく分かりませんが」

 エピローグ2

 病室に山男のような髭面の男が入ってきた。
「あなたは誰?」
 アケミは乱暴に男に訊いた。
 緒方の妻は入院に必要なものを買いに出ていた。その間をアケミに頼んでいた。
 緒方の意識は戻ったが、ぼおーっとしていて、話のできる状態ではなかった。現在は注射がきいて熟睡していた。
「ぼくですか?」
 山男は先ほどアケミに「あなたは誰?」と訊かれて、何も話していなかったことに気づいた。
「ぼくは緒方の親友です。さっきまでこの裏側の山を探っていました。熊にやられたと思い込んでいました。夢を見て、緒方を見つけてくださったんだそうですね」
 意外に優しい声の男に接して、アケミほっと安堵していた。緒方の妻が現れ、つづいて山男が現れ、自分が与えられたものを根こそぎにされる思いに苛立っていたのである。
 緒方が確実に寝息を立てているのを見て、山男はアケミに言った。「君は夢に起こされて動き出したとなると、少しも休んでいませんね。お住まいはこの近くですか」
「この街ではありますけど、ヘリで一緒に運ばれて来ましたから」
「では歩くのは大変だ。タクシーを呼びますよ」
 山男は言って車の手配をした。タクシーが来るまで、二人は病院のロビーで待つことにした。
「夢を見て、それが正夢だったなんて、すごいですね。君の疲れが取れた後、じっくりうかがいたいところです。緒方の奥さんから受けた電話の話ですと、教会付属の幼稚園にお勤めだとか」
 髭面の男はヒゲをピリピリ強ばらせながら話した。
「ええ」
 とアケミは諾いながら、夢とこの男はどう繋がっているのかと考えていた。
「幼稚園といえば、ぼくも幼い頃、世話になっていながら、そこを抜け出してしまって、苦い体験があるのですよ」
「幼稚園ですって!」
 アケミは落石が一つ、自分にはまりこんで来たような避けられないものを感じて言った。
「幼稚園が、そんなに驚くことですか」
 彼はアケミの声が余りにも高いところから発せられたので、自分の言葉が自然に言えなくなっていた。
「だって私が幼稚園の教師をしていて、その私に天から隕石が降ってきたんですもの。あなたはお子さんを、幼稚園に通わせていなさるの?」
 アケミは一気に難関を通り超えなければいけないと、賭けに出てそう言った。
「子供を幼稚園に通わせるって、ぼくの子供をですか」
 山男は自分自身を指さして、そう訊いた。
「ええ」
 とアケミの瞳は、謎めいた美しい輝きを放っていた。神秘の趣きといってもよい。
「さっき病室に入ったときから、君はぼくを特異な瞳で観察していたようですけど、ぼくは君の判断からは、一歩も二歩も遅れていますよ」
「どういう意味、一歩も二歩もって」
「一歩というのは、結婚もしていないということです。妻も持てない男に、どうして、幼稚園に送り出す子供がいるんですか」
「ごめんなさい」
 アケミはそう謝りつつ、よろこびが体内に湧き上がってくるのを感じていた。 その血潮に熱くなりながら、今回のことが神の約束がなければ、そして神から発したものでなければならなかったと納得した。

「今日のことが、あまりにも生々しいものでしたから、確かな手応えがなければいけなかったのです。間違いなく上から臨んだ啓示のようなものでなければ……」
 このとき、車のクラクションが鳴った。
 二人は立ち上がって、正面玄関に足を運んだ。
「私、自宅で少し休んで、洗顔してさっぱりしてここに戻って来ますからね」
「洗顔なんて、ぼくだってしていませんよ」
「でもあなたは、私に降ってきた山の男ですから、そのままでいいんです。間違いなく、戻ってきますからね。山男さん、どこにも行かないで、いてくださいね」
 アケミはそう言い残して、車に乗り込んで行った。

end