波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

虫のいたずら

2018-09-16 13:27:58 | 超短編


虫のいたずら


 通勤バスを利用している町子は、バスを待って十人ほどの列に並んでいた。列の前の方である。観葉植物の樹が三鉢置かれ、真ん中の樹に鈴虫が留まっていて、清々しい声で鳴いていた。細くて長い触角が町子の半袖の腕に届きそうである。鈴虫を飼ったことのある町子は鈴虫に興味が湧いて、それとなく身を近づけてみる。触角の先が町子の手に触れて、鈴虫は少し後じさりした。町子は動じず、鈴虫のの方も一度当たってみて安全を確認したのか、今度はひるまなかった。むしろそれを示すかのように、声を大きくして鳴き出した。
 町子は飼っていた鈴虫のことを想い出し、大胆に手を近づけた。鈴虫は人間に好感を持ったらしく、町子の手の甲につかまって、観葉植物の葉っぱから、全身を町子に乗り移ろうとして腕を這い上ってきた。
 それを見た列の若者の一人が苦渋を浮かべ、周辺にざわめきが起こった。
 バスがやって来た。町子は困った。せっかく鈴虫が彼女を頼って移ってきたのに、それを見捨てるようにして、バスの人になっていくことが、虫のためにも彼女自身のこころのためにも不都合な気がした。バスが停って扉を開くと、町子は列から出て横に身を逸らし、列の後ろの人に「どうぞ」という身振りをした。
 全員乗り込んでも、まだ空席があった。若い運転手が開いている前ドアから、町子のことをじっと見ていた。このバス停は一路線のみの停留所で、ほかのバスを待っているとは考えられない。今まで並んでいて、どうして一人だけ横に抜け出したのだろう。
 全員乗り込んでしまい、町子一人だけ残っているのを見ると、運転手は町子の方へ向き直って、彼女に早く乗るよう促した。大きくそういう身振りもした。
 町子は運転手の心遣いが痛いほど読めて、
「いいんです。どうぞバスを出してください」
という身振りをした。頭を下げ、それから顎をバスの進む方角に向けて、恭しく、瞳には感謝をこめて。
 運転手には、彼女の心の優しさや感謝は伝わったが、町子を一人残して走り出すことに、躊躇いと困惑が残った。どうしてこの人を置いて行けるだろう。
 次のバスが来るまでには、まだ三十分はある。このバスは空席を残している。その潤沢に手をつけず、放棄したまま出発することに躊躇いがった。
 そこでもう一度、町子を促し、打診するこころみをした。そうせざるを得ないというように、この美しい人を一人残して走り去る無情を自分はおかすことができない。運転手は顔を向けてはいても、町子その人を見てはいなかった。
 町子はこの鈴虫がいるから、そうせざるを得ないのだと、虫の留まった腕を挙げて訴えてみるが、運転手には伝わらなかった。
 運転手は町子を誘う最後も試みに出る。だがそうするにはとてつもない勇気を必要とした。今彼女を見逃したら、二度と会うことはないという打算に根ざしていたからである。しかしとにかく、彼女をここで失うということは、絶望にも等しい慄きだった。闘わなければならない。そう自分に言い聞かせた。一目惚れだな、と彼に囁く声がした。たった今芽生えた恋の戦慄。その発見に彼は怖れを抱いた。とはいえ、公私混同であろうとなかろうと、自分が立ち至った現実に挑戦しないではいられなかった。もう彼女に呼びかけるなどできるはずもなかった。彼女の方を見ることもおぼつかなくなっていた。
 冷静になってみると、運転手にはこんな思いも湧いてきた。
彼女はそこで愛人を待っていたのではないか。その愛人を運転手の自分が、このバス停に連れて来て降ろさなかったために、彼女にいらぬ苦悩をもたらし、愛人は次のバスでやって来るかも知れないと、あそこに立っている。
 だが、そう受け取るには、彼女はあまりにも余裕に溢れている、あの恭しい聖女のようなもの腰は、ちょっとした演技などでできるものではない。
 運転手のおぼろに霞んだ目は、町子をまともにとらえることはできなかった。乗客の中にちぐはぐな空気が流れ、運転手ははっと我に返って、短くクラクションを鳴らすと、バスは町子の立つ停留所を出て走りだした。
 町子は黙って頭を下げつづけた。ごめんね、と呟いたが、鈴虫にだったか、若い運転手に向けてだったか、あいまいになっていた。
「おまえが悪いのよ。私の腕につかまって来たから」
 そう語りだしたが、町子自身に語っていることばのようでもあった。

 おわり

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