◇イコンのある聖堂
牧野神父は聖堂のイコンの前で祈っているとき、うつらうつらしていきながら「三十万円」という声を聴いて我に返った。夢を見ているのではなかった。確かに密やかな声を聴いたのである。イコンから語りかけられたかのように、生々しさのない澄んだ、か細い声だった。
祈っていて啓示を受けるなど、めったにあることではなかった。それでも聖職について二度ばかり信徒の命にかかわることで、ひそかに語りかけられた経験があったから、空耳として片付けてしまうわけにはいかなかった。それにしても、〈三十万円〉が自分とどんな関係があるというのだろう。妻子があるわけでなく、生涯独身を通すつもりでこの道を選んだのであったから、生活のために貯えを必要としてはいなかったのである。
それでは、三十万円は何を意味しているのだろう。金銭の入り用ということで考え合わせてみると、難民救済の義捐金があった。しかしそのためには、三十万円では少なすぎる。また限定されるべきものでもなかったのである。
信徒の誰かが、三十万円の借財を抱えて苦しんでいるのだろうか。意味も掴めないまま祈祷も中途の状態でさまよっていると、イコンの掛かっている斜め上方に、ちらっと星のようなものが浮んだ。聖堂内に星が見えるはずはなく、むろん幻である。意識の目を凝らしていくと、ちらちらした輝きが納まる具合にくっきりとした形を取った。それは湯呑み茶碗の幻であった。湯呑みの外側には、草花の拙い図柄が見えた。
これもまた意味不明で、ヒントにもならなかった。牧野神父は、自分を迷わしてくるこの正体は、悪霊であるかと、闘いの姿勢を取った。
程なく彼は、ふらふらっとして、イコンの前を離れ、聖堂と棟続きになっている建物の一室に吸い込まれていった。他の者の目からは、夢遊病者がさ迷って行くようにも見えただろう。
牧野神父の入った部屋には、信徒の持ち寄った家具、衣類、食器の類が床一面に、立錐の余地もなく並べられていた。これらは難民救済の義捐金を得るため、明日からのバザーにかける品々だった。
先程まで信徒を交えて値段をつけ、看板を書き、模擬店の準備をしていたのである。
牧野神父は、床を埋める商品に目を配っていった。彼の足元には、正札を貼られた食器類が、危ないほどに積まれて並んでいた。ほとんどが百円、二百円といったところである。 彼は、一つだけ不恰好なために重ねるわけにもいかずに置かれている湯呑を、むんずと掴み取った。それを手の内に回しつつ、
「これだな」
と睨んだ。幻に浮かび出た湯呑と極似していたのである。模様も写実とは程遠い、素人っぽい筆の草花があった。持ち重りはしても、グロテスクで、こういった鑑識眼のない彼には、正札にある百円でもさばけない湯呑に見えた。
牧野神父は、大きな賭けをするつもりで、いびつな湯呑の百円の正札を引き剥がした。そして新しいラベルを貼ると、サインペンで太く、三十万円と書き付けた。
明日早々に係の信徒に、三百円ではなく、三十万円だと言い渡しておかなければならないと思った。
日曜日、礼拝の後、教会の中庭はバザーの会場へと早変わりした。門には大きな看板がかかげられた。《売上金はすべて難民救済基金に充てられます》と、但し書きがしてあった。世人を呼び入れるために、演歌を流すような教会もあるらしいが、ここではそういった世との妥協は断固排して、荘重な宗教音楽を流していた。
テーブルには、手作りのブローチやネックレスも商品の中に混じつていた。これらの商品には、どこかに十字架がはめこまれている。きらびやかではないが、いつか気づくといったたぐいのものだった。
瀬戸物類の中には、牧野神父の手で正札の書き替えがなされたあの湯呑も確かにあった。無造作に、しかし販売係の目の届くところにしっかりと置かれていた。
模擬店からは、汁粉や甘酒の湯気が立ち、焼きそばのにおいもする。また焼き唐黍の香ばしい煙も棚引いている。中庭の大銀杏は黄ばみはじめ、はらりとテントの上に舞い落ちるのもある。
まず子供たちが模擬店に詰め掛け、いや子供に手を引かれた大人たちも、門をくぐってきた。
焼き唐黍を片手に、商品の方へ回ってくるものもあった。門を入って、まっすぐ販売のコーナーへ回ってくるものも出てきた。
バザー会場には、掘出物はないかと、骨董屋も顔を見せるものである。一般客になりきっているから、識別は難しいが、目を光らせていれば判るものなのである。
店開きをして十分もした頃、きつい眼鏡の老人が一人、瀬戸物類の前に立った。
彼は一つの湯呑を目敏く見つけて、手を伸ばした。販売係の女性が、おくゆかしい物腰でそれを見ていた。
老人は湯呑を腹の辺りに抱えて回していたが、ラベルのところにきて、息を止めた。彼はその湯呑を抱えたまま、テーブルに並んでいる他の商品に目を配った。
それから何か考え込むふうにして、再び商品を鑑賞した。彼はやおら口を開いた。
「この値段は、何かの間違いではないかね」
販売係に向けた老人の目は、レンズの奥に光っていた。
「いいえ、間違いではありません。三百円でも、三千円でも、三万円でもありません。その正札の通りでございます」
と係の女性は言った。
「こればかり三十万円なんてあるから、冗談かと思ってね」
係の女性は、老人の本心を探ろうとして言葉を控えた。
「もっと安くならんのかね。〇を一つ取って三万とか。こればっかり、化物みたいな値がついて、気持が悪いじゃないか」
「無理ですわ。難民救済のためにやっておりますので」
「どうせ、只でどこかから見つけてきたんだろうよ。それにこんな値をつけるなんて、罰が当たると思わんかね。ここは教会だろう? 七万円はどうだ」
「出来ませんわ」
「じゃ十万円?」
係の女性は首を横に振った。
「十五万?」
同じく首を横に振った。
「じゃ二十万だ。あんたに出来ないんなら、上の者にでも訊いておいてくれ。また明日寄ってみるから。会期は明日までだったな」
老人は憤慨したように言って立ち去った。
係の女性は、その湯呑を手にして、牧野神父を探しに行った。彼は聖堂の右袖で信徒の一人と話し込んでいた。
「神父さん、今客が来まして、二十万円にならないかと言うんです」
「えっ?!」
牧野神父に驚愕が走って、身を乗り出して来た。
「やはり、啓示だった。貴くも、畏れ多いことが起こった」
彼は興奮の面持ちで言うと、
「ちょっと失礼」
と話合っていた信徒を待たせて、詳しく事情を訊くために係の女性と会場の方へ歩いて行った。牧野神父はその不細工な湯呑の出所が知りたかった。バザーに携わっている信徒に訊いて回ったが、心当たりはなかった。品物の中には、信徒ではない者からの寄進の品もあったので、尋ね当たらなくても当然である。品物を捧げただけで、出て来ない信徒も多くいた。
係の女性の話から、湯呑を欲しがった客が、目利きのコレクターか、骨董屋であろうと睨んだ。
牧野神父は腕組みして教会の境内を歩き回っていた。客は二十万円なら買うと言っている。この好機を逃すと、売れ残ってみすみす大金を掴みそこねてしまうだろう。それがバザーの趣旨に適っているだらうか。しかし、そもそもの発端は、あの細き声であったのだ。三十万円にはならなかったが、逸品であることは確かだったのである。もしその声がなかったら、まんまと百円で持って行かれるところだった。
牧野神父は、バザー会場の騒めきもそっちのけで、建物を出たり入ったり、また回廊を突き抜けて、往ったり来たりしていたが、ふと思いついて、街の書店へと足を向けた。
何焼きで、時代はいつ頃のものなのか、また作家らしきサインもあったが、それはどういった者なのか………。
書店の美術書のコーナーの前に立ったとき、牧野神父は荒く息をついていた。まるで犯罪に巻き込まれたような気分だった。
焼物の本を手に取り、茶碗の並んだページをめくった。もっぱらのコーヒー党で、お茶には縁がなかったから、湯呑の鑑定などまるで別の世界に飛び込んだようなものだった。どれも同じ種類に見えてきてしまう。色も形も、その違いさえ識別できない品々が、ずらりと勢揃いして襲いかかってきた。これでは時代を究めるどころではない。まして作者を調べるなど夢のような話だった。
どの本をめくっても、埒が明かなかった。パタンと本を閉じる音に、神父はふっと我に返った。会堂に信徒を待たせたままだったことを思い出したのである。
牧野神父は慌てて教会へとって返した。信徒は帰ってしまったのか、そこにはいなかった。聖職者でありながら、悩みを持って相談にきた者を忘れていたとは、何たることだ。彼は痛棒を食らった思いで、バザー会場に信徒を探しに行った。
幸いその信徒は模擬店で焼きそばを食べていた。牧野神父も焼きそばを求めて、彼の前に坐った。
「さっきの話だが、今母親をあれこれ説得するのは、少し様子を見ることにして、神に任そうじゃないか。人間の力ではどうにもならぬことがある……」
牧野神父は今し方、湯呑のルーツを探る手掛かりも見つけられなかった手痛い経験から、つい結論を導いて言った。
「ぼくも今、そんな気持になっていたんですよ」
「そうか、御霊は一つなれば、同じ思いを与えたまえりか。ところで君は、骨董には明るくないかね」
「湯呑の話ですか。聞きましたよ、大井姉妹に。むろんぼくにそんな知識はありませんけど。神様の示しって凄いもんですね。百円にしか見えなかったものを、二十万円の値を付けるなんて」
「いや、実際は三十万円なんだよ」
「でも、百円だったものが、二十万円で売れることは実証されたんですから」
「確かにそうだ。しかしこれも神様の憐れみだね。難民の苦しみを見かねて、天から声を発して下さったんだよ。それは難民だけでなく、我々仕える者にとって、大きな励ましにも希望にもなるんだが」
神父は落着けなかった。一人で聖堂にとって返すと、祈り始めた。明日までに、何としても回答を得なければならなかった。唯一の買手かもしれない客は明日やって来るのである。二十万円で渡してしまってよいものだろうか。啓示は三十万円だったのである。二十万円で手放したら、神を裏切ることにならないだろうか。
牧野神父は、姿勢を正し、日頃の祈りではない祈りをした。天から声は届かないかと、時折沈黙し、聞耳を立てた。……が、神父はその声が、選挙運動や塵紙交換などのスピーカーの音とは、次元の違う世界から届く、まったく異質なものであることを知っていた。どんな騒めきの中にあっても、また難聴の耳にも届けられることを知っていた。
牧野神父は、一時間、二時間と祈り続けた。不本意にも、うつらうつらとしたとき、
「四十万円」
と密やかな声がした。彼は臆して尻込みしつつ、その声を浴びなければならなかった。心の中では、《二十万円でよい》と言われるのを待ち望んでいたのであった。そうすれば、二十万円は間違いなく転がり込むのである。
ところが、である。天の声は、初めの三十万を相手が値切った分だけ、上乗せして四十万ときてしまった。
牧野神父は、はたと困惑してしまった。自分の中に強欲な霊が住みついていて、四十万などと言わせたのではないかと、声の出所を疑ったりした。しかし自分の霊なら、間違いなく換金できる二十万円を提示するはずではないか。そう思い直して、
「神よ、四十万円でいいのでありますね」
と念を押した。沈黙が続いているのを、確かなしるしとみて、神父は三十万円のラベルを剥がし、四十万円のラベルを貼った。
貼り替えた湯呑をしかるべき場所に置いたとき、牧野神父に物狂おしいような戦慄が走った。吉と出るか、凶と出るか。明日を待たなければならなかった。信仰を試みられている感もあったが、もしこの商いに失敗したら、天からの宝とも言うべきものが、がらくたに帰してしまうのである。それは二十万円を失うというよりは、天の声が、心の思いから発した自分の声に成り下がってしまうのである。
その夜は、さすがに寝苦しく、夢にうなされて何度も寝返りを打った。よからぬ霊もうろついているようであった。
前日の老人は、門が開いて間もなく現れた。
「あの湯呑はどうなったかね」
息急き切って、老人は係の女性に訊いた。
「そこで御座います。御要望にはそえませんでしたわ」
彼女は、レジの近くに置いてあった湯呑を示した。
「なに!」
老人は湯呑を手に取って、新しいラベルに見入った。老眼鏡の縁を押さえて目を凝らした。「何だと、四十万円だと……」
老人は、しばし言葉を失っていたが、何を思ったか、内ポケットから小切手帳を取出して、ペンを走らせた。それからいくらかおどけた表情に出て、
「いや、まいった、まいった。神様も駆引をやらかすとはな」
と言って、切り取った小切手を差出した。三十万円也と書かれており、古美術商 大阪仁吉のサインと、印紙の捺印があった。
老人は湯呑を横抱きにすると、出口へ急いで行った。係の女性が慌てて呼び止めたが、聞こえたのか、聞こえなかったのか、ますます早足になって行った。
女性は、小切手を持って牧野神父を探して駆け出していた。老人が来たら、すぐ伝えるように言われていたのである。
牧野神父は、聖堂で司教と話し込んでいた。彼は小切手の金額が違っているので、謀られたとみて、老人を捕まえようと、係りの女性を連れて走り出した。
教会の門まで来たとき、折から門を入ってきた青年信徒とぶつかって撥飛ばされた。ラグビーでもやっていそうな頑丈な体躯の青年に、体当たりをされたのではたまったものではない。牧野神父はほとんど三メートルも教会の境内へと跳ね返されていた。彼は、「うっ」と唸って、うずくまった。それから痛みを堪えて体勢を立直すと、老人を探しに走り出そうとした。しかし金縛りにあった具合に体が動かなかった。
「神父さん」
後方から、係の女性の声がかかって我に返った。前からはぶつかった青年が走り寄った。
「なるほど、これもしるしなりか。これ以上追ってはならんとな……」
牧野神父は、泣き笑いのように面を崩し、打撲の痕をさすった。
ー了ー
◇
短編小説 ブログランキングへ