☆街角のクリスマス
彼は街角にあるカフェ・リーベの常連客と言ってもよかった。会社の帰り、駅から一つ車道を渡ったすぐ前に、そのカフェ・リーベはあった。
その日も彼はカフェ・リーベにいて、見るともなしに途中のキオスクで買ってきたグラビア誌に目を落としていた。
六、七人のウエートレスが立ち働く中に、なかなか仕事になれない一人がいて、上司の注意を受けているのを、彼はよく耳にしていた。
昨日もガシャッとパックがひしゃげるような音がして、床に落としたらしく、すぐ上司の女性の声が飛んでいた。
「どうしてあなたは、自分ひとりでやろうとするの。手の空いている人に頼みなさいって、言ってるでしょう。一人でしようとするから、焦って手元が狂うのよ」
「すみません」
悪びれた声がして、またこのウエートレスは点数を下げたなと、彼は気の毒に思っていた。
彼がこのウエートレスに注目するようになったのは、一箇月ほど前のことだ。注文したホットコーヒーを運んできて、彼に渡す寸前にカップの底をカウンターにぶつけたのだ。強い当たりではなかったから、カップの上辺の二割ほどを零しただけで済んだが、それでも撥ねは彼の顔面にまで跳んできた。
「申し訳ありません。お洋服汚さなかったでしょうか」
彼女は悪びれてそう言った。慌てていて、客の洋服の汚れを確認する余裕はなかった。
「大丈夫、ぜんぜん平気だよ」
彼はそう言ってやった。上司にも他のウエートレスにも気づかれていなかったので、彼は極力声を抑えて言った。もう一言、あんなになみなみと注いでくるからだよ。そう付け加えてやりたかったが、それは差し控えた。そのことで店の利益を落とすことに繋がっていてはならないとの、彼なりの判断が働いたからである。
帰宅して脱いだワイシャツには、三滴のコーヒーの染みができていた。
クリスマス前夜、駅周辺の商店街はクリスマスツリーやイルミネーションで溢れていた。街頭を流れているのもクリスマスソング一色だった。独り者の彼は、別にプレゼントを考える必要もなかった。
いつもと同じ時間に彼は電車を降り、一つ車道を渡ってカフェ・リーベに飛び込むつもりだった。
ところが今日は、店の前の様子が変わっている。ガラス扉の傍らに、テーブルが一つ置かれ、赤い帽子のサンタクロースに扮した一人の女性が声を限りに叫んでいる。
「愛する奥様、お子様に、本店特製のアップルパイのお土産はいかがですか。いいクリスマスプレゼントになりますよ!」
身振りはしなやかで、若い女性を思わせる。物腰にどこか見覚えがあるような気がする。このとき中年の女性が、寄って行った。その客への応対の仕草から、彼は直感した。
あのウエートレスだ。素通りしてカフェに飛び込むのがなぜか罪悪のような気持ちになって、彼は中年女性の横に立った。
サンタクロースに扮したウエートレスは、中年女性にアップルパイをレジ袋に入れて渡し、彼を迎えた。まだ彼だという意識はない。駅前とあって人通りが激しく、また馴れないポストについたとあって、意識がスムースに流れていなかった。その彼女に向かって、
「アップルパイ七個ね」
と彼は言った。
「七個」
そう押さえておいて、確認をとるべく、「七個でございますね」
と彼女は念を押した。どこかに腑に落ちなさがあるような、ないような複雑な表情になっている。
「そう、七個だよ」
と彼は言った。
「ご家族が沢山で、けっこうですね」
「いや独りだよ」
彼は怒ったようにそう言った。
「あら」
と彼女は戸惑いを見せて、「いつもの、お店のお客様でございますね」
「似合ってるよサンタクロース」
と褒めてやった。
「いやだわ。お客様にこんな格好を褒めていただくなんて」
彼女は言って頬を染めた。それから下を向いてアップルパイの包装に取り掛かった。一個ずつ小袋に包み、それをまとめて大き目の袋に入れ、最後に店の名入りのレジ袋に入れて彼に渡した。
「残りはすぐ冷蔵庫に容れてくださいね」
「ぜんぜん、平気平気」
と彼はリズミカルに発声した。今日は予定を変更して店には寄らず、自宅の方角へと歩き出した。
「いつも御ひいきに、ありがとうございます」
彼が振り返ると、まっすぐ彼の方を向いて、丁寧に頭を下げた。
「よいクリスマスを!」
と彼は声を送った。
「お客様も……」
最後のほうは、車のクラクション、雑音、街頭を流れるクリスマスソングに掻き消され、彼の耳には届かなかった。
了
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