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光の中に消える
彼女を手放すことが、僕の心に何をもたらすかは分かっていた。それでも、
「天国で会おうね」
と言うしかなかった。
―神の愛は冷たくて嫌い―
との一点張りで、背を向け、肩で息をしはじめた彼女を、繋ぎとめる手立てがあっただろうか。
―誰よりも私を愛するか―
とペテロに迫ったキリストの写真を前に、
―キリストを離れて、私に来い―
と言ってきかない彼女なのだから。
洗礼を受けて十年も祈りを欠かさない僕に向かって、美しい瞳をぱしぱしっと開閉させ、
―キリストよりも、誰よりも、私を愛せ―
と言って譲らない彼女なのだ。
彼女の目許の愛らしさや、フランス人形のような肌の色に魅せられていたから、
―愛しているさ、誰よりも―
と言ってしまった。そうして教会へ行く仕度をはじめた。
―私を愛しているんなら、教会に行かないで―
―だから土曜日から今まで、こうして付き合ったじゃないか―
今日は祈りが充てられているので、ネクタイを締め、祈りの文案を考えながら言った。
―あなたが教会に行くんなら、私はもう会わないわ―
彼女はバックを手にして立ち上がるなり、そう言った。
僕はまんまと当てが外れたと、苦い思いを噛み締めていた。
なんとなれば、どうしても教会に行くと言えば、彼女もついて来るのではないかと期待していたからだ。祈りの文案には、
…はじめて教会を訪れた方のうえに、神様が御手を触れて、繋ぎ止めてくださいますように…
と彼女のための祈りも用意していた。
僕は二階の窓を開けて、アパートの外に出た彼女に、
「天国で会おうね」
と声を投げかけるしかなかった。彼女はこちらを振り返って、
「あなたの天国とは違うと思うけど。神はキリストだけじゃないから」
そう言って、彼女のほかにはこの世に存在するとは思えない、とっておきの妖美なウインクを置き土産にして、くるりと背を向けると小走りになって行った。
そのウインクが意図的なものか、無意識に出るのかは定かでない。
とはいえ僕は二年前、初対面の彼女の瞳に籠められたその一撃に、胸の臓腑をえぐられて恋に堕ちたのである。
「いつまでも、ウインクが武器になると思ったら、大間違いだぞ!」
遠ざかる彼女の背に、力いっぱい声を送った。しかし、届いたかどうかは怪しいものだ。大通りを行き交う車のフロントガラスや屋根に、朝の光が反照して眩しく、さんざめく音と光の洪水の中に、既に彼女は姿を消してしまっていた。
了
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