波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

犬さらい

2012-03-25 07:59:58 | 少年童話




 [犬さらい]


「太郎、太郎、おいで」
 やや嗄れてはいるけれど、甘ったるい声がして、柴犬の太郎は振り返った。
 太郎が飼われている家から二キロも離れている公園で、自分の名が呼ばれるなど考えられもしなかった。
 空耳だろうと、ここまで続けてきた臭い嗅ぎに没頭した。この嗅ぎなれない臭いの正体を突き止めたとき、新しい未来が開けてくるといった、とてつもない夢が太郎の頭に浮かんでいた。嗅ぐ鼻息も荒くなり、それに併せて鼓動も激しくなっていた。
「太郎さん、太郎さん、ご飯ですよ」
 少しく様子を変えてはいるが、間違いなく自分が呼ばれていると察して、太郎は臭い嗅ぎを中断し、足を揃えて立ち止まった。
 まだ日はあるが、建物や木立の影は大きく膨らんできていた。砂場や、広場で戯れる子供たちの数も減っている。
 園内には爽やかな風がめぐっていた。桜の季節は終わったばかりで、地面のおちこちに花びらがかすかに色香を残して寄り固まっていた。そこからくる匂いもあって、五郎の嗅覚を狂わせるのかもしれなかった。そして今や、嗅覚ばかりか、聴覚まで危うくなりかかっていた。
「五郎さん、五郎さん、おいで、おいで」
 甘ったるい嗄れ声は、酷似した幾通りものセリフを口にのぼせつつ近づいて来た。しかしいくら目を凝らしても、その発声源は見えてこないのだ。
 五郎はたまらず、足掻いて湿った地に爪跡をつけた。家人の誰かであるなら、そろそろ帰らなければならない。おとといの夕方ロープを解かれてから、一度も帰宅していなかった。ベンチに食べ残しの弁当はあったし、時期外れの花見客が、気前よく馳走を投げてよこしたから、帰宅の要を感じなかった。
 そもそも五郎がロープを解かれるようになったのは、犬小屋にロープが絡んで首が絞められ、悶絶する寸前に家人に発見されて救い出されるという手痛い経験があったからである。
「危ないから、夜は放しておきましょうよ」 我家の若奥様の提案に、
「うん、そうするか」
 と気の弱い夫君が賛同して、時間限定で夜だけ放される身となったのであった。

「五郎や、五郎や、こっちの水はおいしいよ」
 ごく近くで声がして、五郎は弾かれたように顔を上げた。女の声と思われたが、目の前の小道に立つのは、木綿の白シャツにトレパン姿の老人だった。怪しいと首を捻った五郎の目に飛び込んできたのは、老人の肩に留まって、自分を見下ろしている九官鳥だった。黄色い嘴がバナナにニスを塗ったみたいに光っている。
 老人が九官鳥を肩に留まらせたまま歩き出した。九官鳥は、五郎を斜交いに見て、
「おいでよ、おいでよ、五郎ちゃん」
 と言った。こうまで自分の名が呼ばれると、臭い嗅ぎばかりに専念するわけにはいかなくなった。
 太郎は老人の後について行った。九官鳥は老人の肩口でものぐさ気に回れ右をして、後をつける五郎の方を向いた。
 木立の中の径を辿り、噴水の傍らを通り、公園の外縁に出ると、人家がすぐのところに犇めき合って軒を寄せていた。
 老人は一つの路地に分け入ると、勝手知った気さくな足取りで歩みを進めた。その間も九官鳥は五郎の誘いに怠りなく、嗄れた甘ったるい声で呼びかけてくる。
「五郎ちゃん、五郎ちゃん。私もう五郎ちゃんを放さないから」
 九官鳥は、そんな艶めいた声音すら遣った。
 老人は路地を右折し、左折し、いくつもの民家の塀や生垣をやり過ごして行った。
 一つの角を曲がると、風向きが変わって、もろに吹き付けてきた。風の中に異様な臭いが籠もっていた。先程から怪しいと睨んで追求してきた臭いの正体は、まさにこれではないかと思えるほど、怪しくもどこか近縁な親しさをもって濃密に漂ってくるのだ。
 これはまさしく同類の、しかも自分など及びもつかない巨大な犬が発する臭いだ。
 五郎は怖気が走って、これより先へは進めなくなり、前足を揃えて立ち止まった。
 九官鳥はそれを見て、すかさず、
「五郎ちゃん、五郎ちゃん。骨付き肉あるよ、どっさりあるよ」
 と老人の肩から前にのめりそうになって声を大きくした。
 老人は五郎が立ち竦んでいるのに気づいて振り返ると、
「ほい、来い来い」
 と手を出して優しく招いた。
 五郎はただならぬこの濃密な臭いの正体を突き止めておかなければならないと、好奇心に衝き動かされて再び歩み始めた。もし、ライオンとか虎の咆哮でも湧き上がれば、ひとたまりもなく逃げ出したに違いない。
 だが、老人が石塀に囲われた門前に立ち止まったとき、五郎はただごとではないものを見てしまったのである。
 仁王立ちのようにして立つ老人の脚の間に覗いた光景は、まさしく地獄絵図そのものだった。太郎がよくさ迷い歩く域内に、肉屋があって、牛や豚の肉塊がぶら下がっているのを見かけて、恐怖と渇望の両極端を揺れ動くのが常だった。今、老人の背後の小屋に見えているのは、豚や牛の肉塊ではなく、自分と同類の犬の肉が、頭をもぎ取られただけの原形をとどめてぶら下がっていたのだ。そしてこの嗅覚をバカにしてしまうのではないかと思われるばかりの強烈な臭い!
 これこそ公園から怪しいとみて追跡してきた発生源だったのである。もうもうと立ち昇る蒸気と煙から、犬の燻製が加工されていると思われる。それを空き地の一角に囲われた犬達が、次は自分に襲い掛かる呪われた運命を、悶えつつ待っているのだ。その犬達こそ、九官鳥の甘言にのってついて来てしまった捕虜たちだったのだ。彼等はもう吠える気力もなく、低く悶えるだけだ。
 太郎は足が突っ張って動きが取れなくなっていた。しかしここにいては危険この上もない。
「五郎ちゃん。おいでよ早く。おいしいものあるよ」
 燻製のにおいで、釣り込もうというわけだ。五郎は恐怖から張り付いてしまった足を引き剥がすようにして、石塀伝いに走った。角を曲がると、石壁の崩れているところがあった。そこから犬の臭いが強く吹き出ている。
 五郎は石塀に足をかけて、立ち上がり、中を覗く。すぐのところに犬の檻があって、呻き声が洩れてくる。隙間があまりにも小さいので、口を入れることも、足を入れることも出来ず、とても犬たちを助け出すなんて不可能だ。
 五郎が逃げ出したと知って、老人が追いかけてくるかもしれない。もう九官鳥に騙されはしないが、老人がどんな武器を持って現れるか分らないのだ。
 石塀を離れると、老人の家の玄関口を通るのは避けて、路地から路地へと折れて行った
 公園が見えてきたとき、はじめて救われた気になって、太郎は駆け出していた。
 数歩で公園というとき、車の凄まじいスリップ音で体が飛んだ。車が接触したわけではない。スリップに反応して体が飛んだのだ。
 無事園内に着地、という具合に、太郎は安全地帯に戻っていた。後は一目散に我家を目指して駆けて行った。

 夫が帰宅すると、妻は、
「あなた、太郎が帰ってきたわよ。しおらしく犬小屋に入って寝ているわ」
 と報告した。
「じゃ、また逃げ出す前にロープで繋がなきゃ」
 犬小屋に向かおうとする夫を引き止めて、
「大丈夫よ。ぜったい逃げて行かない。太郎ったら、外で虐められるかして、よっぽどこりたのよ」
「いったい、何があったのかな。明日は休みでもあるから、散歩に連れ出して、骨付き肉でも奮発してやるか」
 
 翌朝、太郎はご飯に味噌汁とかつぶしをかけた食事を綺麗に平らげた。
 夫が散歩に連れ出そうとすると、ロープを張って後ずさりし、応じようとしない。以前とは逆に、飼い主が犬を引っ張って歩き出した。犬も渋々というように足を運んだが、いざ公園が迫ってくると、足を突っ張ってもう動こうとはしなかった。
 仕方なく、肉屋によって骨付き肉を与えると、なにやら怯えてしまって、顔を背けてみようともしないのだ。さらに骨を近づけると、ロープを引き摺って逃げ帰ってしまい、太郎はすっかり変な犬になった。

「変な犬!」
 夫の説明に、呆れ返っている妻の声を、太郎は犬小屋に寝そべって聞いていた。

                      おわり
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